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***

あれから小一時間。相変わらず反応がない携帯をかばんにしまい、ただひたすら時間が経つのを待った。
時刻は1時35分。約束の時間まであと25分。短いようで長いこの時間をどう過ごそうか。
とりあえず椅子に座ってみた。そしてまた立つ。
そそっかしい自分の行動を顧みて、緊張しているということが嫌でも分かってしまう。
そんな怪しい動きを何回か繰り返したところで教室の扉がガラリと開いた。
俺は反射的に扉の方を振り返る。

しかしそこに立っていたのは深瀬ではなく、血相を変えた啓介だった。

普段憎たらしい顔をしている啓介が今は可哀想なくらい青ざめている。ここまで全力で走ってきたのか、額に脂汗を滲ませながら肩で息をしていた。
これはただ事ではない。
直感的にそう思った。


「結斗っ!は、春香が!」

「落ち着け啓介、春香がなに?」

「春香が急に苦しそうにしゃがみ込んで…」

「今行く」


気付いた時には教室から飛び出していた。春香を、家族を助けなければ。その一心で走った。
それでも心のどこかで後ろ髪を引かれる思いはある。せめて深瀬に連絡は入れよう。そう思いポケットに手を突っ込んで初めて気がついた。
携帯、バッグに入れっぱなしだ…。
一回戻るという選択肢が一瞬頭によぎるが、それはすぐに払拭させる。もしここで戻って春香に何かあったら俺は一生後悔するだろう。
不器用な俺は目の前のことで精一杯だった。


***


「結斗!こっち!」


啓介に案内されながら人混みを掻き分けるように走る。いくつか教室を過ぎたところで、一際人だかりができている場所があった。どうやら他校から来た生徒が殴り合いの喧嘩をしているらしい。激しい怒号と肉がぶつかる音がした。
そこから数メートル離れた場所で胸を押さえながら屈み込んでいる春香の姿を見つける。


「春香! 大丈夫か!?」


「はっ、はっ、」と酸素を求める魚のように口をパクパクさせる彼女。すぐに過呼吸だと察知した。


「啓介! なんでも良いから袋持ってきて!」

「わ、わかった!」


俺は春香の前にしゃがみ込み、安心させるように背中をさすった。しかし一向に収まる気配はない。まるで彼女だけ異世界にでも飛んでいってしまったかのように「ごめんなさい」と、うわごとを言うのだ。


「春香、わかる? 俺だよ」

「ゆる、して…ごめんな、さ、」


俺や啓介さえも認識できなくなるほど取り乱している彼女の耳を両手でそっと塞いだ。初めて光を失った瞳と目が合う。顔面蒼白で唇はカタカタと震えていた。涙を流しながら苦しそうに息をする彼女は何度見たって心が痛んだ。

春香は過去にも何度か過呼吸になることがあったのだ。
それは、決まって男が暴力を振るっているのを見たとき──


「ゆ、と、にぃちゃ、」

「大丈夫だから」


震える春香の手が俺の腕を掴み、伝わってきた振動が鼓動と重なった。幼少期に植え付けられたトラウマはなかなか消えない。行き場を無くしたこの怒りは誰が受け止めてくれるというのか。

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