潜めた願いと密かな祈り
柱稽古が始まった。冨岡と話をして柱稽古を辞退する訳を聞き出したかったが、いろはにもやることがある。いろはの前には伊黒 甘露寺 時透 宇髄がいるから初日はやることないだろう、と高を括っていたがそんなことはなかった。初日からちらほらと人がやってきた。階級が上の隊士たちは基礎ができているのだ。
日に日に稽古をつける隊士は増えていく。次の不死川に向かう許可を出した隊士もいるので、増減はあまりないはずなのが緩やかに増えている。まだまだ基本がなっていない隊士はいるということだ。いつかを境に減少していくのだろう。
これではしばらくの間は冨岡と話す機会は作れなさそうだ。いろはは落胆したい気持ちを抑えて目の前の隊士に木刀を振るう。今は目の前のことに専念しないと。教育は苦手だ。いろはに継子がいない内の理由の一つはこれ。だが苦手なことでもやり遂げないとならない。鬼舞辻無惨を倒すために。己の痣の出現を祈りつつ隊士を相手にする。いいんだ。いろはでなくてもここにいる誰かが鬼舞辻無惨の頸を獲れば、いろはは全てから解放される。
疲れた。肉体的にはまだまだ無事なのだが慣れないことは精神的にくるものがある。
ふぅ、といろはは息を吐いた。
時透邸の帰り道。休憩時間の合間に相手をしてもらった。数多いものを相手にするのもいいが、同等の実力者を相手にするのは気分が異なる。
「(時透さんやっぱりすごいなぁ)」
刀を握って二ヶ月で柱まで上り詰めた努力の天才剣士。足のつま先から木刀を握る指の先までとてもきれいだった。
「(……私とは、違う)」
傷だらけの手。時透も同じぐらい……否、それ以上にぼろぼろだった。硬い手をしていた。剣道の道に携わる者の手だった。
いろはの手はもう女性の手とは呼べないのだろう。きれいな手だと褒めてもらったことなど記憶にない。買い物時に手のひらを出すと驚かれることもある。
豆がたくさんできている。正規の場所にもあるが、握り方が下手くそなヤツがつく場所にもたくさん。生傷。欠けた爪。曲がっている指。
「(お姉ちゃんの手は私と違ってきれいだったな)」
この道を選んだのは誰でもない、いろはだ。刀を手に取り、鬼を斬ることは誰にも強制されていない。
「(時透さんは上手。強い。学ぶものがたくさんある。もっともっと…相手をしてもらいたい)」
時透だけではない。他の柱にも。
「(蜜璃ちゃんなら頼んだら引き受けてくれるはず。後は…胡蝶さんは話しやすいけど忙しいし…。悲鳴嶼さんとは一度お手合わせしてみたいな)」
強くなりたい。力をつけて鬼を斬りたい。そのためにになら女の幸せなんて捨てれる。手だって身体だって顔だってぐちゃぐちゃにできる。見られないものになってでもいい。鬼舞辻無惨を殺せれば。
「(体温を39°以上……。身体に直火してみるか)」
そうと決まれば早く帰って焚き火の準備。見つかれば隊士たちに止められる。女の子の、人によっては歳下でもある柱の自傷行為を見届けることなんてできないから。
油はあったかな、といろはが模索していると後ろから微かに気配が。この気配の断ち方の上手さは柱レベル。誰だろうと関係ない。挨拶は礼儀。いろはが振り返って口を開こうとすると、
「東雲」
先にされた。思いがけない人から。
柱稽古が始まって以来、唯一連絡が遮断されていた人。
柱稽古で得た情報は些細なものから重要なものまで全て伝達が行われている。だが、とある柱だけは一度もなかった。名前が出てくることはなかった。完全に柱稽古とは関与しないという表れ、だったのに。
「冨岡さん……」
突き放されて柱だけでやれ、と吐き捨てた人がいろはの元に来てくれた。
「どう、されたのですか?」
いろはの目には戸惑いが浮かんでいる。また関わるなと一蹴されてしまったらどうしよう、と怯えている。
炭治郎に諭せられた。錆兎に怒られた。
未来を繋いでいくのだ。誰でもなく自分が。多くの人に助けてもらった己が。命をかけて繋いでもらった命で他の者の命を繋いでいくのだ。
「……冨岡さん?」
この尊敬すべき少女も同じことをしてきているのだ。繋がれた命で多くの命を救ってきている。腐ることなく前を向いて走り続けてきている。無茶で不可能なことなのに全ての命を守ろうと自分の人生を犠牲にしてきている。
「あ……そ、その……今ちょうど私のところに冨岡さんの同期のお方が数人来ていらっしゃるんです。よろしかったらご挨拶なさって行きませんか? ……………す、みません。私が気にかけることではありませんよね」
錆兎と同じく最終選抜の頃から強かった少女。冨岡はいろはの最終選抜の様子を直接見たわけではないが、耳にしたことはある。甘露寺が煉獄に話していたのが少しだけ聞こえた。同期にとても強くて可愛くてかっこいい女の子がいる、と。最終選抜で一度助けてもらってしまいました、と。全て終わった7日後、試験を受けた人数の半分はいなくなっていましたが生き延びた者はほとんどその子に声をかけていた、と。男の子もいるのに大人の人もいるのに、誰よりも一番傷ついていて血を流していてぼろぼろで、背筋が真っ直ぐで力強い目をしていた、と。
「…………その、今朝方胡蝶さんの継子さんが私のところに来たんですが、栗花落さん、その、胡蝶さんの継子さんのお名前で、栗花落さんは基礎ができていて本日中には次に進めると思います。栗花落さんももちろんすごいのですが、胡蝶さんの教育指導に圧巻されます」
忘れてなんかない。鬼殺隊歴は長くてもいろはを助けた日のことは鮮明に今でも思い出せる。
立っているのもやっとのはずなのに、臆することなく鬼と対峙していた少女。怪我の具合から倒せるわけがないと勝手に判断して頸を斬った。冨岡が鬼を斬るのと同時に糸が切れたように倒れた少女。
「(どうしたんだろう…。何かしてしまったか)」
いろはのことは尊敬する。歳下で後輩だけれども敬意の念しか抱けない。努力は怠らず鬼の情報収集も幅広く行う。冨岡にもたくさん話しかけてくれて全ての柱とも上手くやっている。
「(……錆兎と少しだけ、似ている)」
強くて優しくて。冨岡とも親しくしてくれて。沢山の命を救ってきた高邁な少女。
だからこそ一番に報告をしに来たんだ。お館様よりも前に。
「東雲」
「、はい」
「俺も柱稽古に───」
「カァアー! カァアー! 連絡! 水柱 冨岡義勇ガ柱稽古ニ参加スル! 水柱 冨岡義勇ガ柱稽古ヲツケル!」
「え? そうなんですか?」
「……………あぁ」
伝えたいべきことは先に烏に取られた。冨岡はまだ誰にも柱稽古をつけることを話していない。炭治郎に伝えようとした矢先にざるそば早食い競争をすることになったので話すことはなかった。
産屋敷邸に冨岡の参加の連絡を入れたのは冨岡の鎹烏だ。今頃は全員に広まっているだろう。
「それはよかったです」
少しあったもやもやはいろはの嬉しそうな表情でなくなった。彼女に喜んでもらえてよかった。いろはは喜楽の優先順位が低いから。だから周りが喜ばせて楽しませてやらないと。
「必ず鬼舞辻無惨を斬りましょうね」
この前茶屋で話を聞いた。いろはが鬼殺隊に入隊した理由。鬼舞辻無惨を殺すことに全てを懸けていることは知っている。
でもそれは冨岡も同じ。
「今度お時間がありましたらお手合わせお願いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
いろはは頭を下げた。
早く屋敷に戻ろう。太陽の陽を克服した鬼を鬼舞辻無惨は狙っている。なぜか鬼の出没がピタリと止まった。嵐の前の静けさ。今が己を磨くチャンスなのだ。
行ってしまう。いつもはもっと話しかけてくるのに。そうだ、いつもは話しかけてくれるのだ。いろはが話題を挙げて奏でていく。冨岡はほとんど盛り上げない。静かにいろはの音色を聞いているだけ。それが心地よかったから。
「───東雲」
「、はい」
服を掴んでしまった。咄嗟だった。引き止める話題はもうない。
「……冨岡さん?」
どうすればいい。甘露寺だったらいつものように尽きることのない話題をいろはに振るだろう。しのぶだったら無茶をするいろはを心配するだろう。不死川だったら弟妹にするかのごとくいろはの世話を焼くだろう。
掴んだ手はどうすればいいか。冨岡はガラにもなく焦っていた。正常な判断ができないほど。
炭治郎なら───。
「蕎麦、」
「(蕎麦?)」
「の早食い競争をしよう」
「……私とですか?」
あーー……と視線をそらすいろは。そうだ、いろはは大食いではない。食事のスピードも早くはない。大人の男性と早食い競争をしても誰も楽しくはないだろう。
違う。蕎麦の早食い競争をしたいわけではない。ただ共に時を過ごしたいだけだ。
「食事はしたか」
「食事ですか? 、っ!?」
今まで時透と手合わせをしていたのだ。教えている隊士たちがお昼を取っている間に。いろはの昼ご飯の時間を潰して。
答えようとした瞬間お腹が鳴る。お腹で返事するなんて恥ずかしい。
「……一緒に食べないか」
炭治郎とそば早食い競争をしたが、まだ胃には余裕がある。いろはとの食事も可能だ。
初めて冨岡から誘われた。お昼を一緒にしたことは数回あるが、いつもいろはから誘っていた。
尊敬する人からの食事のお誘い。この先何度あるかわからない。最初で最後かもしれない。
返事はもちろん。
「……食べたいです」
幸せそうな笑顔だ。
こんなチャンス二度とないかもしれない。どちらかが明日には死ぬかもしれない。上弦の鬼や鬼舞辻無惨に殺されるかもしれない。
だから一緒にいたい。好きな人と共に過ごしたい。
「このお店のご飯、美味しいですね。今度蜜璃ちゃんに教えよう」
こんな感情いつ以来だろう。大切な人たちと死別してから喜楽や幸福の感情はあまり持たなかった。楽しく生きてはいけなかったから。
自分より生きていて欲しい人たちが先に死んでしまって、何も持たない、間違えて生き延びてしまった自分が楽しい人生を過ごしていいわけはなかった。
「? どうしました冨岡さん?」
尊敬し尊敬される。
見本とし見本とされる。
人生に大きく良い影響を及ぼし合う。こんな人と出会えた自分は果報者だ。
こんな想いを持つのは鬼殺隊として間違っているのかもしれない。柱として失格なのかもしれない。
「…………っ!!!???」
見たこともない優しい笑顔。微笑む冨岡なぞ天変地異の表れなほど珍妙なのに、初めて見た微笑は顔の造形の良さが際立つ素敵な表情。
「大丈夫か」
箸を転がしたいろはは年頃の女子のように慌てふためている。普段滅多に見せないあどけなさ。
柱として失格なのだろう。だから心の内にとめておく。
何があってもどんなことが起きようとも、この人だけは生き延びてほしい。