神童の耳に凛とした声が聞こえてきた。
ばっと振り返ると物心ついた時からずっと憧れている女性が。
長い黒髪に紫色のメッシュ。自分より少し高い背。にっこり笑顔。その笑顔は不思議と威圧感がある。
「それじゃあ私はここで……」
神童と話していた女性が去る。おほほほ、と場をしのぐように笑って立ち去っていった。子どもを連れて。
神童と話していた女性は話しかけてきた女性を知らないようだ。こんなにも有名で今となったら知らない人の方が少ないのに。
ふう、と長髪の女性は息を吐いて神童のもとに歩いてくる。
「久しぶりだね、拓人くん」
「お久しぶりです………真白さん」
真白はきれいに微笑む。それは先ほどとは違って温もりを感じた。思春期の男子中学生の頬を赤く染めることぐらい簡単にできる耽美な微笑。
「ごめん。話聞いちゃって……」
真白の視線はそろりと下がっていき、あるところでピタリと止まった。コンサートのチケットのところで。
「っ!!」
慌てて隠しても意味はない。話を聞かれたんだ。全てを知られている。だからこそ真白は片方が見知らぬ人間だというのに割り入ってきたのだ。サッカーに携わって無い人とわざわざ関わろうなんて思わない人が。
つい先程神童に持ちかけられていたのは八百長。今度の試合で息子に活躍の場を作って欲しいという、ふざけたモノ。
いけないことだというのは充分にわかっている。そこまで馬鹿ではない。でも今の中学サッカー界が八百長を持ちかけているのだ。中学生たちにとって勝敗指示に従うのは当たり前。稀にこんなことは間違っていると叫び抗う頭のイカれた者もいるが、大体は諦めて従う。
真白だってそれはわかっている。中学サッカー界のことは理解しているし、数十分前にはトップと密会していた。
「……そういえば今日はヨーロッパ遠征からの帰還の日でしたね」
「うん。もしかしてテレビでやってた?」
「はい。お疲れ様です」
「ありがとう」
話題を変えるために神童はニュースで知ったことを口に出す。女子プロは数ヶ月サッカー遠征でヨーロッパに行っていたことは日本全国で取り上げられていた。帰国日ももちろん。今日の空港は大騒ぎ。
神童が女子プロ選手達がヨーロッパに行くということを知った時、一番に思い浮かべたのは昔から遊んでくれていた真白だった。そして本来雲の上の存在であるはずの真白と親交を持つきっかけとなった幼なじみの朝陽。約一年、ほとんど会話していない大切な幼なじみ。
「拓人くん」
「はい……」
真剣な瞳を向けてくる真白に神童は手に力がこもった。後ろ手で隠しているチケットはくしゃくしゃになってしまっている。真白がそれを知っているか知っていないかは真白にしかわからない。
落ち着いた笑みを見せた真白は神童の頭を撫でた。
「まだ中学生なんだよ。拓人くんがそこまで背負う必要はない」
「っ、」
「いいんだ、まだ子どもなんだ。何も背負わなくていい、使命なんて関係ない」
優しい声で紡ぐ言葉は麻薬のようだ。いつまでも聞いていたい。どんなことだって真白が言うんだから正しいと思わせられる。
「考えなくていいの。自分のやりたいようにやればいい。好きにやろうよ。自分に嘘をつかないで?」
「……知っているんですか?」
ようやく出た声は震えていた。
神童の問いかけに真白は微笑むだけ。それが答えだ。真白が何も言わなくたって通じる。
神童は俯いて唇を噛んだ。錆びた鉄の味が。
知られたくなかった。輝かしいレジェンドには、大好きな人には、憧れで尊敬していてずっと目標にしていた人には知られたくなかった。
そんな神童の想いは無駄。真白だけでない。真白たちイナズマジャパンはほとんどみんな今の中学生サッカー界事情を把握している。
「……関わるつもりはなかったんだけど……ごめんね」
「っ、やめてください。真白さんが謝る必要はありません」
「うん、そうなんだけど、ね。……拓人くんは昔っから責任感があるから」
真白は不正が嫌いだ。でもフィフスセクターと関わろうとしなかったのはそれが理由ではない。もっと嫌いなタイプがあった。フィフスセクターに頼って自分の実力を上げもしないで勝敗指示に従う、サッカー選手気取りの愚鈍な中学生が嫌いだ。練習しない下手くそが大っ嫌いなんだ。
だから視界に入れないように、今のサッカーの現状を知りつつも無視をしてきていた。
だけどそれは今日でおしまい。
神童の頭からするすると手を下ろし頬に当てる。視線がかち合った。
「責任も何も考える必要はない。失敗してもいい。周りに迷惑をかけていい。拓人くんはまだ子どもなのだから」
私とは違うんだから。
真白の言葉の裏に隠された意味に神童は気がついた。もう天雷姉弟に頼れる家族はいない。二人っきりで生きていくことになったのはそうなってしまった日に知った。幼なじみが泣いていた。亡くなるという現象がようやくわかり始めた幼い時、身近な友人の家族が亡くなった。血が繋がっていなくても彼女たちは家族だった。
神童の唇についた血を真白はハンカチで拭う。優しくとんとんと。
「大丈夫。今は好機だよ。私を信じて?」
真白はふふふと上品に笑みを浮かべた。
今まで日本にいなくて最近のフィフスセクターの動きも知らない大人の根拠も責任感もない言葉。それでも神童の心には届く。
「今、雷門中の監督って久道かんと……久道さんだったかな?」
「はい、」
「それなら迷惑いっぱいかけて平気だよ。久道さん慣れているから」
えへっ、と真白はいたずらっ子のように舌を出した。それは子どものようで、神童の口もとには自然と笑みが浮かぶ。
「(おっ、笑った)」
真白と神童は約一年間会っていなかった。真白の弟、朝陽が雷門サッカー部に軽蔑した日以来関わることなんてなかった。
なぜ神童と弟が距離を取っているのかはよく知らない。中学生になって遊ぶ相手でも変わったのかな程度にしか考えてなかった。
久しぶりに会った今日、神童の笑顔を見ることはなかった。苦しんでいます、と真白にも伝わるぐらい苦渋の表情だった神童がやっと昔のように笑ってくれた。
「拓人くん今日夕ご飯一緒にどう?」
「え……?」
「今日は朝陽がご馳走作ってくれているんだよ。何があるかはわからないけれどリクエストとしてワカメのみそ汁は頼んだからそれはある」
「あの……俺は天雷とは……」
「……天雷?」
「あっ、いや、その……」
“朝陽” “拓人” と呼んでいた友人関係はどこにいったのか。真白が首を傾げると神童は居た堪れなくなり顔を逸らした。
「……そっか。拓人くん家ももう夕食作っちゃってあるよね。ごめんね」
「……いえ、嬉しかったです。また今度誘ってください」
「うん」
仲直りしたら誘うね、と真白は心の中で呟いて微笑んだ。
帰ろっか。二人は一緒に歩き出す。家は近所だ。簡単に行き来できる距離にある。
「しばらくは雷門にいるから、何かあったら溜め込まずに相談においでね」
「っ……はい」
中学サッカー界と本気で向き合うと決めた。終わるまでは、終わらなくても今シーズンだけは無茶でもなんでもやると前を見据えて歩いていく。
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