いま私の頭は
ヨコシマな考えで
埋めつくされている。
「食べないのか?」
てらりと油分を纏った唇と冷めた視線のアンバランスさに目を奪われていた私はワンテンポ遅れてから「あ、うん」と生返事をした。どうせなら二つとも食べてくれたらいいのに、律儀な手塚はレモン絞りにレモンを挟んで手羽先の片割れの乗る皿を私の目の前に置いた。彼は白菜の漬物に箸を伸ばし、小さく口を開けて咀嚼した。みずみずしい音が煩く作り上げられた空間の中で鮮明に聞こえるものだから、アルミホイルに手を掛けたところで静止してしまった。あーレモン、かけなきゃ。そう頭の片隅で思ってるのに脳は耳から聞こえる音を処理するのにいっぱいいっぱいらしい。そんな自分に気付いて小さく息を吐いた。バカ、と心の中で罵って銀に輝くレモン絞りを手に取った。
その時、不意に手塚が唇についていた油に気付き、赤い舌でそれを舐めとった。真面目な顔に似合わない官能的なその仕草に、思わず目を見開いて彼の口元を凝視してしまった。
「………みょうじ、」
その時のほんの一瞬の出来事に全神経が集中していた私は、手に持ったレモン絞りを力いっぱい握ってしまったらしい。眼鏡の奥で目を見開く手塚の視線は爽やかな匂いのする私の手元に集中していた。そんなに見つめないでよ照れるでしょ、と軽口を叩いてやろうかと思ったけれど、ここで流されたらきっと心底傷付いてしまう。
「そんなにレモンが好きだったのか」
いや、別に期待なんてしてないけど。そんな子供を見守るおじいちゃんみたいな顔しないでよ。普段は何が起きても仏頂面のくせにこんな時だけそんな顔しておしぼり差し出してくるなんてばっかじゃないの。しかもそれ、あんたさっき自分の唇軽く拭いてたでしょ。私、見てたんだから知ってるのよ。だから、ヨコシマな私の手はすんなりとそれを受け取ってしまう。
「子供扱いしないでよ」
「あぁ」
「手塚、手羽先食べよう」
「それがまだ残っているだろう?」
「これは今食べる。もう二つ追加で頼むの」
「俺はもう良いのだが、」
「ダメ。絶対食べて、絶対」
眉を顰める手塚に負けじと早口で捲し立てて近くにいたスタッフさんを呼び止めた。手早く二つの手羽先を頼んで目の前の手羽先に手を伸ばした。レモンの汁が滴る手羽先に齧りつくと、歯が肉を突き破る生々しい感触が伝わり、肉特有の動物的な臭いを打ち消すレベルの爽やかなレモンの風味が口内に広がる。
「手羽先って、ようは翼なんだよね。ってことは私は今、鶏の前足の先を食べてるんだよね」
手塚は白菜の漬け物を咀嚼しながら、返事の代わりに視線だけを寄越す。奥の方で、何かが倒れる大きな音がしたけれど、彼の視線は私に注がれていた。だからかもしれない。ちょっと舞い上がってしまった私は発言を頭で処理する前に口に出していた。
「腕を食べてるっていうより、手を食べてる感じなのかな。手塚は手を食べられたらどうする?」
手塚の口元がゆっくりとした動きになった。明らかに返答に戸惑っている手塚を見ながらビールを煽った。八分目まであったそれは、瞬く間に私の喉を通って胃に流れ込んだ。空になったジョッキを乱暴に置いて、手羽先の軟骨辺りに口を這わせた。まるで、プラスチックゴムが埋められてるみたいなそこは、固い弾力を持って私の歯に抵抗した。
「痛いんじゃないか」
ぽつりと呟いた手塚は私の思惑とは外れて平然とした様子で、深く考えもせず気を引きたい一心で馬鹿な事を言ってしまった自分を恥じた。
「痛い?」
「あぁ」
「されたことあるの」
「無い」
きっぱりと言い切った手塚に「じゃあ今夜あたりどう?」なんて言えたらこの関係は前進するのかそれとも後退するのか。開きかけた口はもう一度固く閉じ、視線は隅にあった主役の黄金色に注がれた。
「手塚、早くそれ飲まないと泡無くなるよ」
「打ち合わせの時間までまだだろう?お前は先に飲んでいるようだが」
「どれ使われるか分かんないよ。ずっと回ってるみたいだし」
「そう、なのか」
照れくさそうに眉を顰めた手塚は泡が溶けかけているノン・アルコールビールが入っているジョッキに手を伸ばした。ゆっくりと上下する喉仏の美しさに目眩がする。
「涼しそうな顔しちゃって」
「お前のは本物だろう?大丈夫なのか」
「私ザルだもん。だからか知らないけどこの手の仕事が多いんだよね」
色とりどりのカクテルスモーキーなウィスキー渋いワイン甘い日本酒エトセトラエトセトラ。数々の経験を棒抜きにするほど胸が高鳴っていることを手塚は知らない。全く酔ったことのない私の体が微温湯に浸かっているみたいに火照っているのは周りの雰囲気に飲まれているからなのか、それとも。
「手羽先っす。それからこっちがみょうじさんので、こっちが手塚さんの分のビールです」
「あ、もう時間なんだ」
「はい」
「レモン、」
心無しか肩を落として呟いた手塚に目を丸くすると、運んで来たスタッフさんが大きな声で謝り、先程の温くなったグラスを掴んで猛スピードで引き返していった。
「レモン無いと嫌なの?」
「そんな事は無いが、」
「でもテンション下がるんだ?」
「そんな事は無い」
「ふーん?」
「何だその顔は」
足を組み替えてにやける顔を引き結ぼうと下唇を噛んだけれどどうも失敗だったらしい。しかめっ面の手塚が居心地悪そうに視線を左右に流し、おもむろに七味入れの瓢箪を掴んで白菜に振りかけた。親の仇かというくらいこれでもかと七味を振りかけられた白菜は粉を纏った山のようになっていた。
「辛く無い?」
「……大丈夫だ」
「洗ってもらったら?」
「これくらい大丈夫だ。……たぶん、」
「じゃ、始めましょうか」
ジョッキを持ち上げると心地良い重みが腕に伝わった。手塚も箸を置いてジョッキを持ち上げ、泡が少し溢れるくらい大袈裟に乾杯をする。いつも通り口角を上げ目を瞑って飲み干すと、先程とは違った軽やかな味が舌にひろがった。あれ?と疑問に思いながらも心底美味しいと言わんばかりの笑顔を作りジョッキをテーブルの上に乱暴に置いて手塚を見ると、真っ赤な顔でジョッキを見つめる彼が居た。
「あり?」
「あつい、」
「おや、ま、ぁ」
シャツの襟元できっちりと結ばれていたネクタイを手探りで緩めた彼の手の先まで見事なまでに赤を帯びていた。テニスプレイヤーらしからぬ白い肌を持つ彼のそんな色を見るのは初めてで、触ったらカイロみたいに熱いのかなとかそういうことをもやもやもやもや。
「手塚ってアセトアルデヒドが足らないんだね」
どうでもいい事を言ってしまった。本当は手を触らせて欲しいと言いたかったのに。そんな私に素知らぬ顔をしながらカメラは機械的に回っていて、スキャンダルの火は導火線の側にわらわらと散らばっている。
生憎と酔っていない私は少しだけ雰囲気に酔った頭で彼を見つめる。目を細めて憎そうに白菜を見つめる彼の焦点は右へ左へゆらゆらと揺らめいていた。とろんとした目は水分多めで色っぽかったので、隠そうと無意識に伸ばした手がそのまま彼の瞼にぴたりと吸い付いた。
周りの空気が少しだけ張りつめるのを肌で感じながら、それでもなお離れない私の手はそこだけ別の意思を持っているようだった。もしかすると、さっき食べた手羽先の怨念がここに宿ってしまったのかもしれない、なんて。
その目を独り占めにしたい気持ちがぐるぐると渦巻いて、ビールを煽ってキスしてやった。まるでそういう台本があるみたいに演技のような我が侭を振る舞ってみれば、なんてことはない、導火線に火が点く事なんてどうでも良くなった。ぺろりと唇を舐めてカメラに微笑むと、伸びてきた赤みを帯びた手に手首を掴まれて覗いた目に恨めしそうに睨まれた。けれどそれは直ぐに逸らされ、代わりに唇が薄く開く。
「……レモンくさいぞ」
「大好きでしょ!」
そうやって困った顔するから追いかけたくなるんだよ、なんて、絶対言ってやんないんだから。
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