text | ナノ

 Aoi・20131004 


 気が付けばいつも手の届く範囲に居る空気のようにひっそりとしているあいつは、意識をしないと視界にいるにも関わらずその存在を認識出来ないほど影が薄い。決して静かで大人しい人物というわけではなく、どちらかと言わなくとも煩い方だ。存在自体が煩いと言っても過言ではないこいつは、しかし、ふとした時に気配を消す。
 そのせいで、鼻先数センチから漂うミントガムの匂いに気付くのが遅れてしまった。決して、目の前の処理をしなければならない書類に追われていて周りが見えなかったわけではない、決して。

「あーとーべ!起きてる?それとも目開けたまま寝てる?」

 いざという時に己を救うのは、考えもしなかった事態に陥った時に答えを導き出そうとフル回転する思考ではなく、経験を積んだ肉体なのかもしれない。数センチ先にある桜色の唇がゆったりと自分の名前を象るのを見ながら、条件反射で、顔が近い、と持っていた書類で能天気な顔を叩くと、色気のない呻き声が漏れ聞こえた。しかし目の前のこいつは、ぞんざいな扱いを受けても怯む様子はなく、何事も無かったかのように白い紙を差し出して首を傾げた。

「跡部、跡部。これ榊先生が君に渡しておけって」

 廃部寸前の科学部のトレードマークである、カラフルに汚れた白衣のポケットに片腕を突っ込みながらヘラヘラと笑う顔が癪に障った。溜め息を吐いたあと黙ってプリントを奪い取ると、その態度をさして気にする様子も無く、机に両肘をついて上目遣いでにこりと笑った。

「ねーえー、ご褒美は?」
「よくやった」
「もっと心を込めて!さんはいっ!」
「煩い。暇ならさっさと自分の仕事に戻れ、みょうじ副会長」
「なまえですぅ」
「どちらでもいいだろ、大声を出すな」
「名前で呼んでくれないなんてひどいぃ……」
 
 そう言ってめそめそと泣くフリをしていたみょうじはその行為に飽きたのか、机の上でまとめられていた冊子の一束へと手を伸ばした。何気なく見遣った指にぎょっとして手を掴むと、目を丸くしたみょうじは嬉しそうに頬を緩めた。

「やーっと気が付いたね。綺麗でしょ?」
「……落として来い」
「何で?」
「校則違反だ」
「跡部の髪もじゃん」
「生憎とこれは地毛だ。何度言わせる」
「機会があれば何度でも」

 コバルトブルーに濡れた指先はキラキラと人工的な蛍光灯の光を受けて、魚の鱗のように虹色の光を宿していた。得意気な笑みを浮かべてピアノを弾くように指を動かして見せたみょうじの頭を持っていた書類で叩くと、みょうじはぎゃんと尻尾を踏まれた犬のように叫んだ。色気の無い叫びが響き、次いでひどいひどいと呪詛を唱え始めたみょうじは机の側にあった箱を覗き込んで、おや、と首を傾げた。

「これ、」
「あぁ。ファンクラブの運営委員が整理したんだ。崩すなよ」
「常日頃からプレゼントボックスがこんなことになるの?嵐もびっくりだねー。ざっと二十箱以上あるのにまだ溢れ返ってる」
「んなわけねーだろ。今日だけ……ではないな」

 クリスマスにバレンタインデー、その他諸々の恒例行事や試合前日のことを思い出して否定すると、ぴたりと動きを止めていたみょうじが恐る恐るといった風に口を開いた。その先の言葉は先程から読めていたが、面白いものではなかった。寧ろ、去年一昨年と覚えてプレゼントまで用意していたにも関わらず、今年はどうして忘れていたんだと舌打ちをしたい気分になった。アンティーク棚の三段目左隅に並べてある、一昨年に貰った不思議な色をしたスライムも、去年貰った虹色に変わる(らしい)花火も大事に取ってあるというのに、なぜ。
 期待、していたわけではない。断じて。思えば誕生日が自分の思い通りに運んだことなど生まれてこの方一度も無かった。自宅に届く溢れ返るほどのプレゼントの山に、俺の一番欲しいものは入っていなかった。
 だから、今回も別に悲観することはない。はなから期待などしなければ、傷付くことも無いのだから。一年に一度、ただ自分が生まれた日だというだけだ。誰しもに平等にある、特別でもなんでもない、そう、今日はただの金曜日だ。

「そっかぁ。跡部の誕生日、今日なんだ」

 拗ねたような、落ち込んだような、子供みたいな声が背中越しに聞こえて振り返ると、未だに箱をじっと見つめているみょうじの背中が見えた。普段よりも小さく見える後ろ姿は、青色の染みが目立つ白衣に彩られて鮮やかなものだった。

「……忘れてたのか」
「んーん。そんなことないんだけど、てっきり騙されたよ」
「はぁ?」
「あーあ、榊先生もうっかりさんだなぁ、ほんと」

 立ち上がったみょうじは俺の方を振り返り、ちょっとだけ待っててね、と言ってするりと姿を消した。まるで幻だったのではないかと思ってしまうほど、ごく自然に。馬鹿なことを、と溜め息を吐いて作業を再開させた数分後、ガッチャガッチャとガラス瓶や金属が擦れる騒がしく不快な音がドアの隙間から漏れ聞こえた。きちんと扉を閉めろ、と何度も言っているにも関わらずどうしてあいつは言うことを聞かない、と先程までヘラヘラと笑っていたみょうじの顔を思い出してしまい盛大な舌打ちが、俺一人しかいない生徒会室に響き渡った。仕方が無いと立ち上がって扉を閉めようとしたが、それはにゅっと伸びて来た足によって阻まれてしまう。規定のスカート丈に、規定の靴下。しかし、上履きにはまだら模様の青が染みついていた。見間違えるはずもなく、それは先程まで居たあいつのものだ。舌打ちをして無理矢理ドアを閉めようとすると、ぎゃあ!と叫んだみょうじは負けじと太ももを入れ、そのまま左半身を部屋に捩じ込んだ。
 
「ストーップ、待って待って、ちょっと待って閉めないで落ち着いて」
「煩い。その言葉、そっくりそのままお前に返してやる。邪魔をするなら出て行け」
「ちょーっとだけだから、ね、ね」
「帰れ」
「やだ!ちょっとこれだ、け、っとわぁ!」

 ドア前の攻防戦でみょうじが腕を出さなかったのは、抱えていた段ボールが大き過ぎたからだ。中には十中八九先程の音の原因であろうガラクタが無造作に詰め込まれているのが見えた。と、その時。絶妙な均衡を保っていたそれはぐらり、と傾き、呆気なくみょうじの腕をすり抜けて、対面していた俺をめがけて中身が溢れ出した。
 ガチャガチャとした雑音、金属の擦れる音、高い鈴のような音色、などなど、全てがバラバラでちぐはぐな音を立てたが、視界に飛び込んできたのは青一色の氾濫だった。まるで海の中にいるみたいだ。降り注ぐ青の中で、目の前に居たみょうじまでもが青ざめている。頬を包む手の先も美しいコバルトブルーを纏っていて、ふと一年ほど前に聞いた何気ないみょうじの言葉を思い出してしまい、無意識に言葉が溢れた。

「……馬鹿じゃねぇの」

 ガラクタの中身を拾うフリをして俯いた俺に、みょうじはわたわたと弁明を試みているが、どんな顔をすればいいのかいいのか答えが出ない俺は顔を上げる代わりに、誤摩化すように首の裏を擦った。熱が引かない自分自身に対して、もう一度同じ言葉を小さく呟くと、それに反応したみょうじが床に手を付いたのが見えた。

「ごめんね、跡部」
「……あぁ」
「態とじゃないんだよ。でも、榊先生が跡部の誕生日は明日だって言い張ってて、すっかり信じちゃった」
「そうか」
「跡部の"あお"色をね、見つけようとしてたんだけど、やっぱりどこにも見つからなかったよ」

 みょうじの穏やかな声に俯いていた視線を上げてしまった。目の前には照れくさそうに笑うみょうじがいて、その手にはたくさんの青が存在していた。明るいもの、暗いもの、深いもの、緑を含んだもの、虹色を宿すもの―――。

「よくこれだけ集めたな」
「暇だったからね、それに自分で作るのも結構楽しかったよ」

 これとか、と差し出された不揃いな粒は青錆色をしていた。銅を希硝酸液に浸けて、それから塩化アンモニウムを掛けてね、と楽しそうに説明し始めるみょうじの顔を見ていると、先程まで誕生日を忘れられて苛ついていたことが急に馬鹿らしく思え、拾っていた粒をつまんで目に近づけると、緑に近い青が宿っていた。

「緑青、っていうんだって。これを作ってたら薬品の入ったビーカー零しちゃって、白衣と上履き汚しちゃった」
「だからってそのままでいいわけ無いだろ。あと爪もだ」
「跡部は派手好きなのにしっかりさんだよねぇ」
「喧嘩なら買う主義だが」
「えー、褒めてるのに」
「全く伝わらなかったな」
「跡部は複雑だねぇ」
「あーん?」
「テニスをしてる時の跡部は高温の火みたいな透明に近い青だし、でも普段は虹色の光りを纏う海面みたいに明るい青だし、集中して作業してるときの跡部は緑っぽい青だし、皆の前で演説してる時の跡部はこの爪みたいに派手な青だし。色んな青色を持っているから、これ!って色が見つからないの。あとそれから、」

 にっ、と屈託なく笑うみょうじの言っていることを聞くのは二度目だったが、やはり電波が飛んでいるのか理解出来そうで意味不明なものだった。無意識に眉を顰めた俺の眉間に躊躇なく触れた指先は、爪の色と反して温かなものだった。

「努力をしてる時の跡部は、深い深い、あお色だと思うの。磨かれる前の宝石みたいに歪だけど、どんどんと綺麗な色形になっていく。皆は跡部の磨かれた後しか見てないから勿体無いなぁと思う反面、嬉しいなって思う。だって、そんな跡部を知っているのは、ほんの一握りの人だけでしょ?それって、特別ってことじゃない?」

 恥ずかしげもなく、いつもの調子でぺらぺらと口を動かすみょうじは、一年前のあの時と同じみょうじのままだった。つかず離れず、空気のように側に居るみょうじの色は、無色透明。けれどその指先が、つま先が、トレードマークの白衣の裾が、自分を形容する青に染まっているのを見るのは、気分がいい。口に出すのは癪だから黙っておくが。

「特別、ねぇ」
「うむ」
「で、これだけ側に居て見ていたくせに結局見つからなかったわけか」
「うむ」
「じゃ、来年の誕生日までに見つけろよ」
「えー!それ去年も聞いたよー」
「見つからなかったんだから仕方ねーだろ」
「まぁ、それもそうか」
「ま、せいぜい頑張れよ。なまえ」
「うむ。……えっ!?」

 赤く染まった顔を見て、してやったりと意地の悪い笑みが溢れた。やはり、やられっ放しは性に合わない。
 紫に近い不思議な色をしたスライム、虹色の火を宿す花火、そして数々の"あお"色をしたガラクタ。俺の纏う色を毎年探し続けているこいつが、いつの間にか俺の色に染まっているのも悪くはない、かもしれない。

「あ、そうだ、跡部。ハッピーバースデー!」


2013.10.04!跡部誕

戻る