text | ナノ
※心中ネタ。仄かにヤクザパロ。柳生の死ネタと流血表現有りなので閲覧注意です。





 

「お嬢」

 決まって、校門から三歩進んだ所で掛けられる声は、気怠げなトーン。立ち止まって振り返ると、やたらと派手な色をした頭と柄シャツが目に入る。それなのに、奴の目は死んだ魚のように生気がない。私はこの男の、この目が心底気に食わなくて、大嫌いだった。だからこの日も、振り返った体を元に戻して、知らんぷりをして歩き出す。とっとっ、と後ろから近づく、軽い足音を聞きながら。
「荷物、持ちます」
 テンプレと化したお決まりの文句も素知らぬフリ。多少の苛つきを身に纏うけれど、こいつは全く態度を変えない。そして、喫茶店の角を曲がって、歩道橋の階段に足を掛けた時、次に用意してあった言葉を紡ぐ。
「学校は、楽しかったですか」
 手すりは掴まない主義だ。昔から、人の触った物が気持ち悪い。潔癖というものらしいけど、知っているなら運転が出来る奴を寄越して欲しい。私の父親は無口で、何を考えているか分からなくて、小さい頃から恐ろしいかったから、口には出さないけれど。
 真ん中辺りで、歩道橋に掛かった信号を通り過ぎる。後ろから、問いかけがもう一つ。
「お嬢、寒く無いですか」
 今は九月だけど。と言いたくなるのを堪えて、下り階段に足を伸ばす。あぁ、苛立つ。けれど邪険に出来ないのは、こいつを拾って来たのが、小さい頃から私の世話係をしていた柳生だったから。

 柳生は優しい人だった。お人好しで、真っ直ぐで、私に色々な事を教えてくれた。私は柳生の口から紡がれる、新しい世界の話しを聞くことが好きだったし、彼の柔らかな空気も、優しい日だまりのような匂いも大好きだった。
 柳生がこいつを拾って来たのは、私が中学生に上がり、最初の冬が来た頃の事だった。
「お嬢」
 信号待ちに引っ掛かり、苛々しながら赤を睨みつける。そんな私の後ろから、のんびりとした調子で、仁王が話しかける。
「今日のおやつは、栗羊羹です」
  だからどうした、と思いながら聞き流す。別に私は栗羊羹が好きでも嫌いでもないし、どちらかというと洋菓子の方が好きだから、嬉しく無いと言いたい所だ。あぁ、でも。柳生は和菓子が好きだった。和菓子とお茶を持って、縁側で三人並んでおやつの時間を過ごしていた頃が懐かしい。
 仁王が来て丁度三年経ったあの日も、庭に積もった雪を見ながら、三人並んで熱々の善哉を食べた。柳生が、仁王の髪の色は雪みたいで綺麗だと言っていた。仁王は死んだ魚のような目をしながら、少しだけ照れていた。私は内心面白くなかったけれど、柳生が楽しそうだったから、空気を読んで頷いておいた。
「なぁ、お嬢」
 信号が赤から青に変わり、周りの世界が動き出す。けれど、先程とは違う訛りで掛けられた、馴れ馴れしさが滲む言葉に、私は立ち止まってしまった。
「……逃げよう」
 振り返ると、仁王はじっと私の目を見つめてきた。死んだ魚のような目ではなく、意志を持った人の目。私が好きだった、懐かしい仁王の―――目。
 季節外れの、生温い風が吹いた。点滅する信号の所為で、横断歩道は慌ただしくなる。けれど、私達の空間は世界から切り取られたように静かだった。
「どこへ?」
「お嬢が苦しまんとこなら、どこへでも」
 スーツのズボンに突っ込んでいた手を仁王が差し出した。青白い蛇のような左手。この手を掴んだら、私は仁王を引きずり込んでしまう。彼の二の舞にさせてしまう真似だけはしたく無い。
 ―――あぁ、柳生。
「お嬢」
「……ダメ。それだけは―――ダメ」
 拒絶するように身を引くと、空いた距離を詰めるように仁王が半歩踏み出す。優しく呼び掛ける仁王の声に泣きそうになるのを堪えながら、鞄の取手を強く握った。瞼の奥で、椿の花を散らしたような鮮やかな赤が広がる。その中心で、眠るように息絶えた柳生の腹部を撫でると、生温い血が手に付いた。間近に香る死の匂いは生臭く、彼には似合わない匂いだった。
「……もう、嫌よ」
「分かっとるよ」
 蛇が私を捕まえる。手首に絡み付き、落ち着かせるように私の顔を肩口へやんわりと押し付けた。仁王は柳生とは違って、不思議な花の匂いがする。夜にひっそりと咲いて、人知れずに枯れていく孤独な花の匂い。
「逃げよう、お嬢」
 緩やかな死の匂い。





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