text | ナノ
 
 stay,away
 

 俺のデータに狂いが無ければ、みょうじはごく普通のどちらかといえば目立たない女子生徒だったはずだ。
 しかし、それはもはや過去のデータであって、今のデータではない。変更されたデータは上書き保存されるべきものであり、過去のものはほとんど意味をなさなくなる。
 俺は若干前屈みになって走りながら、みょうじのデータを脳内で新たなものに書き換えた。

 ごく普通のクラスメイトの女子から、“変な女”と。

 息一つ乱れていない俺に比べ、目の前のみょうじは喉から絞り出すように呼吸をしていて、とても苦しそうだった。
 乱れた呼吸、縺れそうな足取り。
 陸地へやって来た人魚姫もこうだったのだろうかと、ぼんやりと空想する。
 いつ転んでもおかしく無いこの状況の中で、俺の手首を掴んでいる手の力だけは決して緩まない。
 視線を彼女の足元から手元、背中、と順に視線を上げながら、うなじにうっすらと髪がはり付いているのが見えた。
 そこに少しだけ夏の名残を見た気がしたが、頬を掠める空気はすっかり秋色で、やはり夏は終わったのだと感じた。

 みょうじが俺の手首を掴んで走り出してから、もう1時間が経過しようとしていた。学校を出るまでは明るかった景色もすっかり夕暮れに変わり、途中で数人の子供とすれ違った。
 不思議そうに俺達を見上げる子供に目もくれず、みょうじは重い足取りで走る。相変わらず呼吸は乱れていて、目は半開きだ。空いている手で前髪を鬱陶しそうに払いのけ、目の側に流れた汗を拭った。
 みょうじの青白い、飴細工のように繊細な指を持つ手が先程のような暴力的な事をした手だとは到底思えなかった。けれど、空気を裂くように響いたあの音は、今でも耳に残っていた。

 急に立ち止まったみょうじに合わせて足を止めると、防波堤の側に自販機があるのが見えた。
 みょうじは気が付いたように俺の手を離し、肩で息を整えながら、眉を下げて伺うように俺を見た。弱々しいその表情が、先程の行為と上手く結びつかない。
 教室に響き渡る渇いた音がリフレインする。

「……ごめん、」
「…それは何に対しての謝罪だ?」
「何って…それは…」

 口ごもるみょうじを見ながら、そっと白い手へと自分の手を伸ばす。触れるとビクリ、と震えたが、構わず掴んで胸の高さまで持って来る。日に焼けた自分の手とみょうじの白い手のコントラストが、夕焼けを浴びて色濃くなる。

「…痛く無かったのか」

 自分でも驚くほど、柔らかな声が出た。
 みょうじは俺よりも驚いた顔をしながら、狼狽える。
 それに失礼だな、と思い、ぎゅっ、と握っていた手に力を込めると、みょうじは小さな悲鳴を上げた。それに内心でほくそ笑んでいると、みょうじが若干涙目になりながら口を開いた。

「て…手は痛く無かったよ」
「手は?では他にどこが痛かったんだ?」
「そ、れは……」

 いつも教室の片隅で、友人と小さな声で笑い合う彼女が脳裏に浮かび、それが次の瞬間には泡のように消え、眉を寄せてクラスメイトの男子の頬を張った彼女が浮かび上がる。渇いた音。鋭い、それでいて悲しそうな音。
 彼女が、教室の入り口で立ち尽くす俺を見た瞬間、泣きそうな顔をした。
 なぜ、お前が。

「心が、痛かったの」

 いつの間にか俺の手は、みょうじの手によって包まれていた。白い手が、豆だらけの日に焼けた手を包む。それは温かくて、どこまでも優しかった。
 みょうじの言葉は、あの時の俺を代弁しているように沈み込む。教室のドアに手を掛けた時、聞こえた声に、正直またか、という諦めの入った気持ちがしたけれど、構わずドアを開けた。


 “テニス部さぁ、あんなに応援してやったのに結局2位かよ”


 そう言われる事は馴れていた。馴れていたのだけれど、やはりどこかで息が詰まりそうだった。お前達に何が分かるのだ、と溢れ出る気持ちを、自分の拳を固めてやり過ごしては、息を吐く。繰り返し。
 そうして行き場の無い気持ちを溜め込んだせいで、それを入れていた俺の気持ちの袋は割れてしまいそうに膨らんでいた。
 息を吸い込み、教室へ入ろうと足を踏み入れた瞬間、聞こえた破裂音に、俺はどこか救われた気がした。
 記憶の中の、泣きそうな顔をしたみょうじと目が合った。
 そのままみょうじが俺を連れ攫ってくれたおかげで、俺の感情を溜め込んだ袋は割れずに、ふわふわとどこかへ流されて消えて行った。
 解放されたように、どこか遠くへ。
 
「…みょうじ」

 名前を呼ぶと、恐る恐る顔を上げたみょうじと目が合う。その表情はまるで主人に叱られてご機嫌を伺うような子犬のようで、俺は小さく笑った。
 するとみょうじは、目を丸くして、首を傾げた。

「みょうじ、林檎ジュースでも飲むか?」
「へ?」
「お前はあれが好きだろう?」

 自販機を指差すと、みょうじは俺の顔と自販機を何度も見比べ、小さく笑って頷いた。
 遠くの方で、カモメが鳴き、子供のはしゃぐ声が聞こえる。
 防波堤に座り込んで、ポカリの缶に口をつけると、夏の残滓が触れた気がした。
 伸びる陰は、二つ。
 
 たまにはこんな日があってもいいのかもしれない。
 


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