text | ナノ
※真田と真田兄。兄目線。BLでは無いです。

ライスとパン


 突然だが、俺には歳の離れた弟が居る。
 その弟の名は弦一郎。次男のくせに、弦一郎。
 こいつは厳格な祖父に多大な影響を受けたせいか、自分が正しいと思ったことは全く曲げようとしない、良く言えば芯が通った、悪く言えば頑固な、少し厄介な性格の男に育ってしまった。

 そんな弟を持つ俺の朝は、弦一郎から叩き起こされるところから始まる。
 低血圧のせいで寝起きがよろしく無い俺は、朝の稽古を終えた弦一郎に無理矢理起こされ、揺さぶられ、怒られ、フラフラになりながら着替えを済ませて食卓へと向かう。もうここまでで俺の体力は赤ゲージなのに、ここからまたガリガリと削られるのだ。

「あらあら、おはよう、お兄ちゃん」
「ん、おはよ」
「ふふふ。ここ、寝癖が付いているわよ」
「え、まじ?」
 割烹着が似合う母親は、のほほんとした性格の人で、どちらかというと俺はこの人に似て育ったのだろうと思う。男のくせに、とよく祖父に言われるが、弦一郎みたいなのが二人も居たら家の中が窮屈だろうから、俺はこれでバランスが良いと思っている。
 それから、父親は祖父と同じく警察官だ。厳しいところもあるけれど、祖父と比べるとそうでもない、普通の親父。彼は今日も、朝早くから仕事場に向かったようで、机の上には俺と弦一郎の分の朝食が置かれていた。
 祖父はこの時間にはいつも食べ終わっていて、庭で盆栽いじりをしているし、母親は父親と朝食を取るので、この時間はいつも弦一郎と二人きりで食べる。
 昔から変わらない習慣のような事だけれど、その時間帯は弦一郎の部活の朝練により年々早くなるせいで、俺は朝食を胃に流し込む事が苦行でしかない。それに加えて、真田家で毎日食卓に並ぶのはつやつやな粒が揃う大盛りの飯。だから俺は毎朝思う。
「…あぁ…パンが良い」
「兄上。日本人ならパンなどという軟弱なものではなく、米を食うべきです!」
「うるせぇ…お前の朝練に合わせてこんな時間から食う俺の身にもなれ…」
「寝ぼけていてまだ食欲が無いのならば、茶漬けにすればいいでしょう?そんなことだから兄上はいつまでも…」
 くどくどと説教を垂れる弦一郎の言葉をのらりくらりとかわしながら、鮭をほぐしていく。一口食べて、今度は卵焼きへと箸を伸ばす。あぁ、鮭がウインナーだったら。卵焼きがスクランブルエッグだったら。この白い飯が、きつね色のトーストだったら……。
 そんな思考は、目の前の弟のピシャリとした声に一掃された。
「兄上、聞いていますか?」
「きーてるきーてる。お前の後輩がワカメ頭で生意気だって話しだろ」
「違います。やはりみそ汁の具は豆腐とワカメが良いと言う話しです」
「俺はコーンスープが良いなぁ」
「兄上!」
「なぁ弦一郎、時間大丈夫かよ」
「あ、」
 時計を見て、しまった、という顔をして、急いで茶碗の中の飯をかき込んだ弦一郎は、側にあったラケットバッグを背負って慌ただしく出て行った。その背中を見送りながら、でかくなったなぁ、と感慨深くなった。いつも見送っているのに、今日に限ってこんな事を思うのは、きっともうすぐあの季節がやってくるからだ。
 
 あの、夕暮れの季節が。

 俺が弦一郎との思い出を思い出すときは、いつもあの日だ。バカみたいに蝉が煩く喚いていて、生温い風が張り付くように頬を撫でたのが昨日の事のように思えるほど、鮮明な記憶。あの頃の弦一郎は、今よりもずっと背が小さくて、帽子もやんちゃにツバを後ろにして被っていた。口は真一文字に引き結び、目はギラギラと獰猛に光っていた。

 その日は、テニスのジュニア大会の決勝が行われる日だった。
 俺は、朝っぱらからおっかない顔をした弦一郎を見ながら、またトロフィーと賞状を抱えて帰って来るのだろうな、とぼんやりとした頭で思っていた。食卓にはいつものように、和食が並んでいる。明らかにいつもよりも量が多いのは、母親が張り切ったからだろう。験担ぎなのか、トンカツまで並ぶ始末だ。朝からヘビーすぎるそれを、弦一郎は黙々と食っていた。
 俺はその前で、たくわんをぽりぽりと齧っていた。

「兄上、行ってきます」
 いつものように、俺より先に食べ終わった弦一郎が、自分の体くらいあるラケットバッグを担ぎながら、玄関へと向かった。その日、俺はなんとなく背中についていって、玄関の段差に腰を掛けた。
「行ってらっしゃい、弦一郎」
「…どうしたんです」
 靴を履いて立ち上がった弦一郎が、訝しげに俺を見た。それに苦笑いを浮かべながら、首の裏を擦った。
「いや、なんか今日は大事な日らしいから、見送り」
「いつも通り、勝ってきます」
「おー、頑張れよ」
 それに少し驚いた顔をした弦一郎は、直ぐにキリリとした、小学生には似つかわしく無い表情で出て行った。俺はその背中を見送って、頬杖をついた。
「……頑張れって言ったの、何年ぶりだろ」
 俺の独り言を、玄関の花瓶だけが聞いていた。



「あら、お兄ちゃん。早いのねぇ」
 おたまを持って台所から顔を出した母親に、ただいまと言って玄関に座った。
「んー。今日は練習が早く終わって…ってあれ、弦一郎まだ帰ってねーの?」
「えぇ。今日は試合だったから、テニススクールのコーチの方に報告してから帰るって。とても頑張っていたのよ」
 自分の事のように嬉しそうに話す母親を、眩しく感じて目を細めた。窓から入って来る夕日の光が、今日は一段と色濃く感じる。俺は目を伏せて、靴ひもを弄るフリをして背を向けた。
「でも、そういえば少し遅いわねぇ」
 時計を見上げると、もう直ぐ6時を差そうとしていた。それに母親が首を傾げると、台所の方で鍋の蓋が忙しなく鳴る音がした。「あら、いけない!」と慌てて駆けて行く母親から視線を移し、玄関に並べてある靴を見つめた。少しずつ大きくなる弦一郎の靴は、直ぐに買い替えるにも関わらず、履き潰されていた。そういえば最近、剣道の朝練をした後はジョギングをしていると父親が言っていたっけ。
 ぼんやりとそんな事を考えていると、玄関の戸のすりガラスが暗くなった。ん?と見上げると、祖父や父親と言うには低すぎる、ある人物の影が見えた。向こうは俺に気が付いていないのか、戸の前で見上げたり、俯いたりを繰り返していし、その度に重そうなラケットバッグが揺れる。
 鍵は掛かってない筈だけど、と俺はスニーカーを履き直して戸を引いてやった。もしかすると賞状やらトロフィーやらで両手が塞がっていて開けられなかったのかもしれない、と思いながら。
 けれど、そんな俺の予想は大いに外れていた。

 だって、目の前の弦一郎の、俺の登場に驚いたのか、見開かれた目には、涙が表面張力限界まで溜められていたのだ。目元は赤くなっていて、頬にはいく筋もの透明な跡が付いている。
 俺は滅多に見ない弦一郎の泣き顔に、口をポカンと開けて数秒間立ち尽くした。弦一郎も一瞬放心していたが、ハッとした後、すぐに踵を返して走り出した。それに気付いて、俺は慌てて台所に居る母親に「ちょっと出掛ける!」と声をかけて、弦一郎の跡を追うように家を飛び出した。
 遠くの方に見える弦一郎のラケットバッグを見失わないように地を蹴る。結構真面目に走っているけれど、距離はあまり縮まらない。いつの間にこんなに成長したんだろうか、と夕日へ向かう背を真っ直ぐと見る。
 やっと公園の先で追いついた頃には、日はすっかり傾き、二人分の影が細く長く伸びて足元で貼り付いていた。弦一郎は俯いたまま、息を切らしていた。地面に跡を残してゆく斑点を見つめながら、俺は乱暴に弦一郎の頭を撫でた。帽子が邪魔だな、と取って撫でると、汗でしめった髪が指に絡まる。
「…あ、兄上!」
「ん?なに」
「髪をいじるのは、やめてください!」
「やーだよ。っていうか、どうして泣いてんの?」
「っ、」
 照れたような困惑したような表情を浮かべていた顔は、そう言った瞬間にサッと色が失せた。ちょっといじめすぎたかな、と頬を掻くと、弦一郎は大粒の涙を零した。そうして、絞り出すように、呻くように、呟いた。

「ある男に、負けたんです」
「……」
「今まで、誰にも負けた事なんて無かった。誰よりも頑張ってきたと、努力をしてきたと…胸を張って言えますし、信じていました。負ける筈なんか無いと」
「ん…」
「でも、今日、俺は負けました。一人は決勝戦で、もう一人は、草試合で…」

 一呼吸置いて、弦一郎は乱暴に涙を拭った。リストバンドに吸いきれなくなった水分が、粒のように浮いていた。

「悔しいっ…」

 肩を上下させながら嗚咽を垂れ流す弦一郎の姿に少しだけ戸惑いつつも、兄としての威厳、と心の中で念じながら頭を撫でた。今度は抗議の声を上げない弦一郎に、内心少しホッとした。

「……あんぱん、食うか」
「は?」
 ポツリと言った言葉に、弦一郎はピクリと反応して顔をあげ、俺を見た。その顔にはありありと「何言ってんだこいつ」という気持ちが表れていて、俺は苦笑しながらその手を取った。ごつごつとした、固い手だった。
「いつの間にこんなにたくましくなったんだか」
 パンを買って外に出て、先程まで繋いでいた手を思い出して少し感慨深くなっていると、弦一郎は不機嫌そうに俺の手元と自分の手元を見比べた。
「兄上、あんぱんを半分にするのは良いのですが、兄上の方が多く無いですか?」
「そうか?……まぁ、俺のが年上だしいいだろ」
「なっ!俺の為のあんぱんではなかったのですか!?」
「まーまー、いいじゃねーか、な?」
「良く無いです!」
 ぎゃーぎゃー喚く弦一郎に、まだそんな元気があったのか、とくたびれながら交換してやると、弦一郎は赤くなった目元で、くしゃりと一つ破顔した。今日初めて見た、大切な弟の、太陽のような笑顔だった。



「あー……パンが良いなぁ」
「兄上、日本人ならば」
「朝は米、だろ?聞き飽きたよ弦一郎」
「む……」
 次の日もまた同じような事を言い合いながら囲む食卓は、普段と変わらない和食のオンパレード。それを見てげんなりしていると、食べ終えた弦一郎が食器を持って立ち上がった。
「それに……パンは、特別な時に食べるものです」
「…え?」
 呟くように言った弦一郎の言葉を聞き返そうとすると、奴はさっさとお勝手に食器を置いて出て行ってしまった。
 俺はじっ、と目の前の茶碗を見つめながら、はぁ、と一息吐いた。
「…可愛気のねーやつ」
 そう言いつつも、自分の頬が緩まるのを感じた。


企画『彼と私は家族です。』様提出

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