遠く離れた地ーーーアメリカでは、世界共通の英語を使っての会話が主流だ。移住するにあたってそれなりに勉強はしてみたものの、その努力が実を結んだとはいい難い対話能力しか身についていなかった。相手に言われたことに対して、まず日本語で返信を組み立てる。その後脳内の教科書をペラペラとめくるようにして場に合ったひな形を検索し、文法に沿って単語と組み立て、日本人には馴染みのない発音を口にする。加えて外国では必須であるジョークを飛ばしたり、謙遜したりお世辞を言ったり。クラスメイトと軽口を叩く、たったそれだけの動作の為にいくつもの段階を踏む必要があった。会話そのものを避けて生活するようになったことは言うまでもない。
 意思疎通のできない人間で室内が満たされている状況は、私に途轍もない焦燥感を与え、違う惑星に放り出されたような気分にさせる。人間にとって最大の恐怖はたぶん『無知』だ。幽霊叱り宇宙人叱り、それらについて我々が得た情報が少なすぎるからこそ、人間は恐れを抱く。その理論に基づいて話を進めるのであれば、私の置かれていた状況は恐怖そのものだったと言えるだろう。
 だからか彼と初めて交わした会話の一行目は、こんな感じで始まった。

「お前って変な奴だよな。」

 彼も随分、一般的とはいいがたい存在だった筈だ。最も私がいえたことではないので、反論はしなかったが。もしクラスメイトのあらゆるもの全てを足して、人数で割ったとして。そうして割り出された平均値を私達から引けば、『普通』という枠には収まりきらないほどのおつりが帰って来る。一つ付け加えるとすれば、彼においての平均値オーバーは、スポーツ分野においてずば抜けた実力を認められ、良い意味で浮いていることだろう。比較して私は、部屋の隅に膝を抱えて縮こまっていただけの卑劣者に過ぎなかった。
 変わり者という共通点を持っている対極の存在に、元から若干の劣等感を感じていたことは紛れもない事実だ。そんな相手から、はみ出し者とはやし立てられたような気がして、機嫌を悪くしたのを覚えている。(実際彼の言葉に悪意は込められていなかったのだから、それは私の激しい思い込みだったけれど)
 無愛想に短い返事をすれば彼はまた「変な奴。」と呟いた。

―――
 
 日本の物より一回り、いや二回り以上大きなハンバーガーを頬張りながら、まだカウンターの前で屈みこむ火神君を眺めた。黙々とメニューと睨みあいを続ける火神君は、真剣そのものといった様に眉間に皺を寄せて、一層気難しそうな表情をしている。そんな馬鹿みたいに深刻な顔が可笑しくって、くすりっと笑ったけれど気づくような素振りは見せなかった。というか微塵もこちらのことなど頭にない、といった様子だ。
 お昼時で来客数が一番伸びる時間帯に、行列をさらに伸ばしてからやっと店の出口を潜った。一つ目を間食し終えた後、デザートに苺のシェイクを飲みながら火神君の隣を歩く。持っているというよりは抱えているバーガー入りの袋が、身長差的に丁度私の目の前で蠢くのが少し邪魔なので、一歩前に出て後ろを振り返った。
 大げさにステップを踏んで髪を揺らしてみる。良い香りの物にシャンプーを変えて、もしかしたら気づいてくれるかもしれない、なんて淡い期待を抱いた私が悪かったのか。火神君は見向きもせずハンバーガーの虜の様で、いくら努力しても平行線をなぞるだけの関係の元凶は、間違いなくそういった些細な事の積み重ねなのだろう、と今日何度目かのため息を吐いた。今回も私の憂鬱など知らんこっちゃない火神君は変わらずだ。

「ねえ、この間言ってた日本に帰るって話、いつ?」
「さあな。正確にはまだ決まってねえよ。」
「じゃあ決まったら教えて。」
「ああ。」

 なんていいつつ、結局教えてはくれない事を知っている。答えがわかっているのにわざわざ問いかける私もお相子だけれど。多少寂しくもあった。人が隠し事をすれば問い詰めてくるくせに、いざ自分の番になると重要なことは打ち明けてくれない。それが火神大我らしさなのだと言い換えて、つい咎めるのを忘れてしまう私はやっぱり火神君に甘かった。

「後少し経ったら火神君、英語じゃなくて日本語で話すようになるのかな。」

 独り言のように尋ねれば、心外だとでも言いたげな表情を見せる。口に含んでいたバーガーを飲み込み終えたので会話の為に一時中断するかと思いきや、再び紙袋に手を突っ込んで漁り始めた。何個目だか知れないバーガーを掴んでから、私を目尻に映し、口を開く。

「当たり前だろ。他に何話すってんだよ。」
「だって、秘密が暴露されるみたいで嫌。こう...なんて言うんだろう、暗号的な感じだし。」
「なんだそれ。」

 視線をを街並みへと向けて、変わらずの私へ微笑交じりの一言を返した。
 軽く笑い飛ばされてしまったけれど、秘密の暗号と称したのにはそれなりの意図がある。私たち二人の間で交わされているこの日本語は、周囲を行き交う大半の人々にとって、まるで意味の分からない単なる音でしかない。意識的に拾わなければ街の雑音に飲み込まれて、耳に入る事すらもない物だ。けれど私たちはそれを介して相互伝達を行なっている。二人だけに意味が伝わる秘密の言葉。何ともロマンチックじゃないか。
 解説を語ってみれば「そんなもんか?」なんて首を傾げるだけで、賛同してはくれなかった。はなから予想できていた返答ではあるし、同意を求めて問うたわけでもなかったけれど。

「秘密を日本で色んな人と使うのは、独占欲が許さないと言うか。」

 随分と我が儘で利己的極まりない発言。日本語の所有権は誰の手にも存在しないが、それは一人だけに向けて持っていた手段であり、保守すべき秘め事だった。寸暇を惜しんで対話レッスンに打ち込んだのは、脱変人呼ばわりという陳腐な動機だったが、今の関係に至る重要な要素の一つだ。火神君の口から祖国の言葉が発せられるのは、私だけがいい。
 最後だから、なんて都合の良い言い訳をとってつけて甘える私は、そんな我が儘を吐いた。すると彼は再度こう言う。「お前やっぱり変な奴だよな」と。

 次の朝ベットの上で目を覚ましたのは、火神君を乗せた飛行機が既にアメリカの地を飛び立った後だった。昨日突然「何か食べに行かないか」なんて誘ってくるものだから、ある程度覚悟は決めていたけれど、諦めきれない部分も残っている。カーテンを開けてみれば、自室から多種多様な設計をした建物を一望でき、親しかった友人にもう会う事が出来ない非現実な感覚から、一気に現実世界へと引き戻される。

 此処は北太平洋に位置する大陸だ。
 今日も暗号は聞こえない。

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