小説 | ナノ


 極上の色彩を放ち、潤った唇が隣でリップ音を立てた。ついこの間は大人しい印象を受けるベージュの口紅で、その前は派手なビビッドレッド。今日はピンクローズの紅を引いてせずカウンターに腰を下ろしていた。
 既に店の常連である名前は頻繁この場所を訪れては、俺を含めるカフェにいる連中と在り来たりな会話を交わしたり、あるいは一人で思想にふけった後雑誌に目を通しはじめたりと、不規則な行動をしてから店を出て行く。けれど反対に入り口を潜る時間だけはぶれず毎回決まっていて、時計の針がちょうど4時を回ったあたりで顔を見せた。周囲の認識はカフェノーウェアを好むいつもの女性客、といった所だ。それこそ、何の変哲もない。実際名前はミニマムを所有しておらず、能力云々といったいざこざとはほぼ無縁の環境で生活を送っているため、意外性をそこまで主張するのは間違いなのだが。初めて顔を合わせた時点で一つだけ、どうしても気がかりなことがあった。きゅっと結ばれた形の良い唇は、同じ色をつけ続けてしばらくすると転換点となる日がやってきて、傾向に規則は存在せず、口紅の色合いは自由奔放に移り変わっていった。例えばそれまでピンクをつけ続けていたら、その日を境にオレンジに切り替わるといった具合だ。
 そして必ずといっていいほど境い目の日には焦点の定まらない目で、現実世界ではない場所をじっと眺めてているかのように、意識だけを何処かに置いてきてしまったとでも言うような顔をしてただ座っている。......要するに、落ち込んでいた。あるいは頭を悩ませるほどの問題を抱えながらここを訪れる。それはミステリー小説で犯人が現場に残すサインの、自分の犯行を内心誰かに留めてほしいと願っていた、なんて在り来たりなオチを連想した。けれど慰めの言葉を求めるサインにしては余りに些細な変化であるので、それが自己満足のための行為という可能性も否めない。一度直接本人に尋ねようと試みたことがあったが、これ以上近づくな、とでの警告をしてくるような雰囲気に打ち勝つことができず、隣の席に座っただけで無言を貫き通してしまった。
 しかし一つだけ言えることがは、口紅を変えて店に来るときは決まって、違う男の匂いを身に纏っているということ。振り返ったとき、隣に座ったとき、すれ違ったとき。ふと鼻をかすめる匂いには、顔すらも知らない男の優越感に浸った一言をかまされた気にさせられ、良い気分は到底しない。けれど態度に出すことも決してせずに、ああまたか、と諦めを付けて流していた。名前もまた、俺だけが変化に気が付いていることを把握しているようで、ちらっとこちらに視線を寄こしてから口紅の事には触れず、恋愛って難しいよね、と意味深な相談じみた一言を投げかけてくる。
 今日もまた同じようなやり取りを繰り返すつもりのようだが、一言が頭に入らず、脳に伝達される前にぱっと消えてしまった。それでは返事ができず、仕方がないので「そうだな」と万能な一言を切り返すと、どうやら感づかれてしまったようで若干不機嫌そうな顔をされる。ピンクローズの唇が柔らかそうに音を発しながら、より機嫌の悪さを強調するため悪戯っぽくとがらせてくる仕草は、異性の目にはとても魅力的に映るものだった。恋愛がうまくいかないという相談は、もしかしたら努力しても報われないというより、選り好みをしていてなかなか相手が定まらない、といいたいのだろうかと疑いを持ってしまう。私生活を覗いたことがないため、事実どうなのかは知らない。けれどこの容姿で悩み事がなかなか成就しない恋愛事情とは、何とも嫌味にしか聞こえない台詞だ。蠱惑的な瞳に理性がぐらつく男など吐いて捨てるほどいるというのに、いやっだからこそと言うべきか、不器用な愛し方しか知らないのかもしれない。何処までも容量の悪い恋愛でもしていなければ陥りえない事態なのだから。
 今日は何も注文せずただカウンターに頬杖をつきながら、物事全てに対して憂いているかの様な、大げさな表情をしていた。空席はいくらでもある状態で、あえて隣に座ってくる意味は何なのだろう。勿論淡い恋なんて代物は名前にも俺にも似つかわしくなかったたし、非現実的だとまで思うほど、ありえない話だ。なら何が名前にそうさせているのかと問うと、答案用紙は決まって空白になる。

「ムラサキ君はいつもそうやって黙ってるけど、つまらなくないの?」
「.........そんな風に見えるのか?」
「つまらなそうっていうか、むしろ怒ってるように見える。」

 突如名前の口から飛び出した声によって強引に現実世界へと引き戻され、返答が少し遅れてしまった。名前に尋ねられてしまうほど自分が妙な顔つきをしていたことへあまりに驚愕し、戸惑ったことも原因の一部かもしれない。普段から良く話す方ではないと自覚はあるが、かといってめっきり離さない極度の無口というわけでもない訳で。記憶を掘り返してみても、日常的に必要な会話はしっかり交わしている。けれど名前が来店している時間にいる自分だけは、確かに口数は少なかったような気がした。今となっては思い出す事すらままならないが、何かしらの事柄について考え事をしていた様な気がする。だが、名前が隣にいるという共通点があるところから、過去の自分の真意にはおおよその予測がついた。
 現在も追憶に夢中になっていたせいで返事の来ない俺に飽きた様子の名前は、マスターにドリンクを一杯注文して、素早く目の前に差し出された液体を口に流し込む。数口か飲み込んだあと、音を立てずにカウンターにグラスを置くと、名前は何かに気が付いたようにグラスを再度持ち上げて顔の近くに寄せた。どうやら飲む際に口紅が崩れてしまったようで、むらなく塗られていた筈の唇は一部が剥げている。その様子を透明のグラスを鏡代わりにして確認した名前は、カバンから化粧入れであろうポーチを取り出して化粧室へ向かおうとするが、違う行動をしようという考えが頭を横切ったよで、ポーチをカウンターに置くとこちらへ顔を向けた。すると、ムラサキ君って優しい?、と本人に聞いても仕方がないような質問をされてまた返事をせずに視線だけを向ける。そもそも優しいかそうでないかの区分けがどの境界線で隔てられているのかなど、人によって価値観は違うものだし、もしこの場面で俺が優しいと答えたとして、名前はそれをどうせ信じないだろう。自称優しい人、なんて胡散臭いにも程がある。しかし名前は質問した意味も無く、都合の良いように沈黙を答えと受け取ったようで、ポーチのファスナーを指でいじりながら口を開いた。余計な部は省き、極力手短にかつ分かりやすく伝わるように、幾度も修正を加えた原稿の様に、自らの恋の末路を語る。これを映画にしたならばとんだ駄作ができあがるような、ある意味退屈なストーリーだ。恐らく名前自身もそれをわきまえた上で話している。

「でね、終わっちゃうたんびにリップを変えるの。だって人と話すとき必ず相手の"顔"は見るし、派手な色を付けられるのは唇だけ。一番目立つ化粧はきっとリップだから。
「失敗したことを周りの人間に悟られて恥ずかしくないのか?」
「私なりのけじめ的な意味もあるから。それに違いに気づいてくれるってことは、私の事よく見てくれてるってことでしょう。恥ずかしくなんてない。」

 よく見ている、か。本当にそうだ。
 すると何を考えたのか、塗っていたピンクローズを甘いクリームでも頂くかの様に舐めとり、不味そうな素振り一つ見せず上下の口紅をとる。おい、やめろ。注意をすると悪戯っぽく、大丈夫を重ねて二回繰り返しながら、恐らく心配そうな顔をしているであおう俺の表情を見て笑った。食事をする際に毎日女性たちは口紅を口にし続けているが、中には体に多少なりとも悪影響を及ばすものも存在する。最も多い人は50本近くの口紅を一生のうちに食してしまうそうだ。それが健康に配慮した製品なのか見極める術はないが、それを故意に口にするなんて。
 名前があんな動作をしていなければ、何故俺にその話をしたんだ?と問いかけてみようと思っていたというのに、タイミングを失ってしまった。けれど同時に問いかける必要も無くなった。昔語りと解説の後に見せた行為との関係性を探る。要するに、恋の終わりを告げ、自分に折り合いをつけるためのパフォーマンスだったのだ。そしてもう一つの意味は、ピンクローズの恋をすっぱり消し去るから次の色が欲しいの、と強請ることだ。トーンも口調もさして変化していないというのに、どうにも甘ったるい誘惑的な声色を発する口に、今は紅はさしていない。ねぇ。たったその一音に込められているのは歪な恋か、愛の飢えなのか。

「ムラサキ君みたいな人を好きになればよかった、なんていったら怒る......かな。」

 既に手遅れであるような物言いを気に食わなく思ってしまった俺は、当然ながら苛立ちを覚えることなどできない。先ほど質問された優しさという陳腐な言葉の意味は、名前に魅了され流される軟弱さをいうのか、同情を愛と勘違いして誘いに乗る短絡的な脳をいうのか。生憎どちらの優しさというやつの持ち合わせは無かったが、結果的に言えば大差なく、名前は欲する物を手にしてしまうのだ。そうだ、こういう横暴な振る舞いが簡単な恋愛事情を築くための障害となっている。こんな回りくどい言い方で誘って、相手の心中を見透かしてから、恐ろしいほどに上手く駒を進めていく。俺がもう一を口を開けた次の瞬間。名前はうっそりと両目を細めて、刺々しいまでの真紅で塗りつぶした。