03

 薄暗いあなぐらの様な建物から脱し、真っ先に視界を支配するのは心地よい日差しだとばかり思っていたけれど、実際は男の手の内をただじっと見つめることとなった。はめた黒い手袋越しにも分る手の輪郭は、余りに男らしくない滑らかな形をしている。後ろから両目を覆うように当てられた手をどかそうと自らの手を重ね力を入れてみるが、その筋肉質ではなさそうな体の何処からそんな力が出てくるのか、到底適わなかった。

「こんなすぐ約束を忘れてもらっちゃ困るんだけど。妙な真似しないで。」
「危害を加えるつもりも拉致するつもりも、もちろんないよ。契約は守るつもり。だた今日ミニマムを失って一般人へ戻る君にとって、この建物の位置を記憶していることは命とりになるはずだよ。」
「へえ。この目隠しはあくまで良心でやってることだと。」
「そのつもりなんだけど、迷惑だったかな?」
「なら別にいいけど。これじゃ歩けない。」
「車を用意してるからそれで移動しよう。」

 この体制で車に押し込まれるというのは、小さい頃よく先生に危ないのだと言い聞かされたシュチュエーションにぴったり当てはまる。知らない人にはついて行かない、というあれだ。けれどこの男とは既に会話を交わした後であるし、これから行動を共にする約束もした。果たして知人と赤の他人との区分はどのような基準によって決まるのだろうか。顔を見た時、自己紹介をした時、相手を信頼した時あるいは...ああそうだ。候補の中には名前を教えあった時という選択肢は、たぶん必要不可欠だ。私たちはまだお互いの素性は当然のこと、名前すらも知り得ていない。

「どうやってこの状態のまま車に乗り込むのか、って事を聞きたいのは山々なんだけど。その前に互いに名乗っておくべきだと思わない?」
「でも道端で立ったまま、しかもこんな体制で自己紹介も何だか可笑しいと思うけど。」
「しょうがない、後回しにしよう。」

 あと数分間だけ彼と他人でいなくてはいけないのだと意識すると、今まで苦無く名を呼ばすに会話ができていたけれど、突然不便に感じた。

「ってえっ、ちょっとおろして。」

 目にハンカチを当ててから後頭部で縛り目隠しに代用すると、合図もなしにそっと抱きかかえられ、突然視界を遮られての浮遊感に焦り声を上げる。人一人を軽々しく持ち上げると、駐車してある場所へ歩き始めた。ある程度すれば後部座席に座らせられ、伝わってくる振動とエンジン音から車が発進したことを理解する。運転中の男に対してすぐさま抱える必要があったのかと文句を言えば、それが手っ取り早かったからと一言で済まされてしまった。

「むやみに女性に対して思わせぶりな行動はするもんじゃないよ?もし君に恋愛観が存在するのであれば、ね。」
「僕だって感情位はあるよ。」
「どうだか。」

 周りに誰もいなかったとはいえ、恥ずかしい思いをさせられた腹いせに嫌味を言ってみるが、予想通り全く動じない。どころか不敵な笑みを浮かべてから「ちょっとした興味本位だよ。」と意味深な言葉を発し、バックミラー越しにこちらに視線を送ってきた。ふと目を向けたさきのミラーに映った菫色をした瞳は、光を多く反射していてサファイアを連想させる。男の言う興味とやらは随分と引っかかるけれど、これ以上問うてもはぐらかされるだろうし。

「ねえ今日の予定だけどさ。」
「クレープ屋だっけ?一応近くの通りまで車走らせるつもりだけど。」
「そうなんだけど、その前に寄りたいところがあるからもう少し前で止めて。」

 もう正午も過ぎた時間帯だからか栄えている通りは騒がしく、男からの合図か無くとも表へ出たのだろうと察することができたため、目隠しを外して窓の外を眺めた。カラフルなネオンの看板を掲げる店や上品に入り口のショーケースに服を飾る店と、多種多様な店舗が顔をそろえていて、この通りへ訪れた客が品ぞろえに不服を漏らして帰る事はないだろう。どの店内も所狭しと商品が棚に並べてあり、女性ならば誰もが胸躍らせる光景だ。しかし生憎私はろくな服を着てきていないし、男は全身黒ずくめという何とも目立つ格好の為、このまま街を歩くのは出来るだけ避けたいところだ。せっかくここまで車を走らせてもらったのだし、二人分の服を一式購入してしまおうと思っていたのだが、拉致する際ご丁寧に財布まで一緒に持ってきてくれるはずもなく、現在私は無一文の上寝間着姿という何とも情けない状態にある。一目で寝間着だと分ってしまうような典型的な型ではない、ギリギリ外出時に来ても許容範囲内であろう寝間着を着ていてよかった、と心底思った。それも先週買い換えたばかりであるし、不幸中の幸いとはまさにことこと。

「でさ、ちょっとお金貸してくれない?二人分の服上から下までと、クレープ二つの料金。」
「君って無欲なんだか強欲なんだかわからない性格してるね。」
「いや明白でしょ。即答で後者だね、私は。」
「そのミニマムとの引き換えにクレープを要求する人が強欲...ね。なら君の眼には世界がより一層欲にまみれたものに見えるのかな。」
「程度なんか関係なく、事実世の中ってそんなもんだよ。」

 そもそも人間なんて欲物にまみれた生き物であるのだから、人間が集まって形成された社会が欲で溢れ返っているのは、もはや当然のことだろうに。人間の行動原理のほとんどは何かに対する欲から発生していて、それは人同士の馴れ合いであったり、人を支配したいという願望であったり、様々な形へ姿を変えていく。人間、そして社会を形成しているのがそんな欲だけであることを悲観しているかのような男の発言は、酷く寂しく車内に響いていた。すれば自然と私の返事も、やけになって諦めを付けているかのような口調になる。
 何だかこの人って、革命前夜のレジスタンスみたい。それも先陣を切って部下を取り仕切る頭の様な。

「とりあえず、さ。借りる分にはきちんと頭揃えて返すから。」
「それもミニマムの対価として支払わせたりはしないんだね。」
「能力をたかが紙幣で売っちゃうのって、なんか気が乗らないんだよね。誰かが価値を決めた仮の物じゃなくて、物々交換みたいに自分の目で価値を確かめた品と取引したいじゃん。」
「やっぱり君って無欲なの?」

 再びミラーを通じて背後の私に目を向けた男からは、恰好付けた自己流の信念みたいなものを面白がっているように感じられた。どうしても世界を無欲と強欲に二等分したがる男に「だから違うって言ってるじゃん。」と返事をすれば、口元に微笑を貼り付けて運転へ意識を戻す。それが哲学じみた会話に終止符を打つ合図となり、私も通りに沿って立ち並ぶ店の品定めを始めた。

「ねえあそこの店とかどうかな。」
「それ僕に聞いてるの?加えてあそこ男物の服屋だけど...。」
「さっきの聞いてなかった?二人分の服上から下まで買うって言ったでしょ。」

 今度は仕返しと言わんばかりに何かを目論んでいるかのような、怪しい笑みを男に送ってみてば、正面に向かったままフロントガラスに映った男のめがすっと細められた。

  


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