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 目覚まし時計は、停止ボタンを押さないでいると徐々に速度が速まっていく仕組みとなっていて、いつもであれば音量もベルのなる速さも最終段階へ突入してからやっと、OFFと書かれた方へスイッチを滑らせる。趣味の時間を設けていたり残業が終わらなかったりしないため、深夜遅くまで私の部屋に明かりが灯っていることは大変少ないが、前にも話した通り眠りが浅い体質だった。そのため健康な体を保つための基準として一般的に言われている時間睡眠をとったとしても、朝は体がいう事を聞いてくれない。熟眠障害はいずれどうにかしないといけないとは思っているけれど。
 二度寝したがる体を引きずりながら前夜に準備しておいた着替えに手を伸ばすと、そこで異変に気が付いた。纏っているのは先週買い換えた寝間着のはずが、着たときはおろか購入した記憶すら全くないブラウスやスカート。夢遊病など患ってはいないしまず疑ったのはミニマムを狙って来る連中であったけれど、ミニマムと洋服をわざわざ着替えさせる関連性など思いつきすらしなかったので、馬鹿らしい推測達は即座に捨てる。では何故?と自問してみても自答することはできず、とりあえず見覚えが無く出所のわからない服は危険ではないかという結論に至り、普段着に着替える。謎を紐解くための手掛かりが一つも残されていないとなると解決に辿りつきはしないであろうし、これ以上考え込んでいても時間の浪費だ。
 ブラウスを畳んでベットの隅に置いてから、キッチンへ向かって棚から食パンを一枚取り出してバターをたんまり塗った。オーブンで焼く際に浴びる熱で溶けたバターはパンへしっかりとしみこんでいき、病み付きになる味に加えてより香ばしくもなる。あとはレタスとトマトをにドレッシングをかけたあまりにもスタンダードすぎるサラダと、インスタントに具を別に切って居れたスープをいっぱい。本格的な料理をする気力の湧かない朝は大体これで済ませてしまっていた。だてに何年も自炊をしてきているわけではなく、自分の胃袋にはどのくらいの量が最適なのかは十分に心得ていて、適量をさっと平らげる。腹八分目といったところだ。
 壁に掛けられた時計へ視線をやるといつもより随分と早い時間を針が示していて、これから何をして時間を潰すかと頭を悩ませる。せっかくの休日なのだから何処かへ出かけても良いけれど、それにしては時間が速すぎるし、そもそも行きたい場所すら思いつかない。食器を片づけてから端末を取り出してメール画面を開き、友人へ今日の予定を尋ねてみようかとメール作成に取り掛かろうとするけれど、その前に新しく届いているメールのチェックをする。すれば送り主はちょうどメールを送信しようと思っていたその友人で、内容には洋服と同じくまた見覚えのない内容が記されていた。

『私戻ってきたらナイス君しかいなくって、驚いたんだよ>_<先に帰っちゃうなんてひどい〜。でも今日は楽しかったよ(*´∇`)ノまた予定開いてたら一緒にお茶しようね!』

 可愛らしい顔文字が散りばめられた文面は彼女らしい、というより同年代の女の子らしくいつも頬を緩めるのだけれど、私の記憶と彼女のメールの食い違いに意識を持って行かれていたせいで何とも思えなかった。昨日は仕事を終えてから帰宅後は軽い夕飯を済ませてから入浴、ベットの中で端末を少しいじってからすぐに就寝したはずだ。記憶にまで作用してしまう自らのミニマムの誤発を疑ってはみたけれども、事故で亡くした臓器を補うために一度使用済みで、影響を受けるはずがない。あらゆる可能性を挙げてみても答えを導き出せずに、白旗を上げながら抱えた膝に顔を埋める。心霊現象なんて信じてはいなくともこんな状況に置かれたら嫌でもドッペルゲンガーという単語が嫌でも浮かんでしまうものだ。おまけにありがちなイベントの一つである突如鳴り響くインターホンのチャイム音は、予期せぬ来訪者を知らせる。
 訳が分からない中、どなた様ですかなんて呑気な一言を掛けながら扉を開ける筈もなく、鍵とチェーンを掛けたままのぞき穴から先を見た。視界をふさいでいたのは黒い洋服から切りそろえられた銀髪をのぞかせた男で、明らかに異彩を放っている。

「警戒されるのは当然だけど、僕は敵じゃない。ドアを開けてはくれないかな?」
「嫌だね。生憎アポなしの来客はもてなさない主義だから。」
「そっか、これからは気を付けるよ。じゃあ今日の所はこのままで話を聞いてほしい。」

 襲撃者であればこのようなやり取りは一切せずに、単純でわかりやすくミニマムをぶつけ合うはずで、ある意味面倒な茶番事が無くて気が楽だった。しかし今回は物好きな男が相手の様で、例え力勝負になったとしてもこちらの勝利は確定的であるし、話の一つや二つに付き合ってもこれといった損は無いだろう。未だドア一枚隔てた向こうに男がいるためいつでも応戦できるようにと身構えながら話に耳を傾けた。それは男が幼いころから慕っていたある女の子のとても短い物語で、不思議と飽きもせず退屈にもさせられずに話を流し込む。幽閉された女の子が男と出会い別れていくという物語を語る際、男は初めからところどころ嘘を織り交ぜたり隠したりしているようだったが、ついに結末を告げずに口をつぐんでしまった。

「最後まで話してよ。気になるじゃん。」
「まだ思い出さない?君のことだからまたトリガーを準備しているのかと思ったんだけどな。」
「...何いってるの。」

 思い出す云々の前に忘れてなどいないし男の口から零れる単語に覚えは無かったというのに、私の頬を一筋の冷や汗が伝っていった。息苦しく胸が圧迫されて、カメラのシャッターを連続して切るように瞬きの回数が増える。昔話に覚えは無くとも、もしかしたら忘れたこと自体を私は忘れているんじゃないのかと考えだし、その空論を今朝のブラウスや友人からのメールと結びつけたときにはもう止まらなくなっていた。次々に浮かぶ仮説と、身に覚えがなくまとまりのない断片的な記憶が襲い掛かってくる中で、男の声が頭に木霊する。それは酷い頭痛を引き起こしたが、その痛みにすら覚えがあった。

「もしかして今日は月曜日?私が床に就いたのは土曜の夜だったのに。」
「そうだよ。僕が誰だかわかるかな。」
「わっかんないし。私に何したの、あんた。っていうか平日なら仕事行かなくちゃいけないから、話に付き合ってる暇無くなったみたい。帰ってよ。」
「君は何故一日の記憶が無くなっているのか知りたくはない?」

 そのいかにも知り尽くしていると言いたげな言葉を吐く男は、ドアが邪魔になり様子は伺えないけれど、何かを思惑しているようだった。けれど私にはそれが戦闘に入るために必要なタイムラグだろうと予想し、いつでもミニマムを男に向かって発動できるようにとドアを見つめる。しかし行動を起こす様子は見られず、代わりに男の口から発せられた言葉によって、先ほどの憶測が杞憂であったことを知らされた。

「苗字名前。」
「私の名前...どうして知ってるの。それに何で何でっ!......何でアートはここに居るの。あの時忘れてって言ったはずなのに。」
「ごめん。やっぱり君の我が儘を聞き入れることはできなかった。」

 まだ若干の痛みが残る頭では状況整理すらままならず、まず先に体が勝手に動き出してドアのカギとチェーンを外して、ドアを開いた先にいるアートの姿を認識したがっていた。昨日の出来事を忘れてしまいたいと願った私と我が儘を言った私を心底呪いながら、玄関を飛び出したらすぐに手を伸ばして、今度は私が抱きしめてあげたいと思っていたのに。私の反応より少し早く、アートが先手を打ってきた。まだ早朝で起きている住人が少ない事と、隣が幸いにも空き部屋であることを有りがたく思う。今一瞬唇をかすめた柔らかい間食は紛れもなくアートのもので、始めて人の体温がこんなにも高い事と、甘ったるく脳内を白紙にされる感覚というものを始めて味わった。まだ先ほどの余韻を感じつつ、そっと離れていく黒いジャケットを見つめていると、やっと情報処理を終えた脳が追いついてきて余りの羞恥に顔を片手で覆う。迫った側であるのだから私などよりもっと赤面していてもおかしくない筈の本人は、そんな姿さえも愛おしいと言わんばかりの笑みを浮かべていた。まだ顔を直視するには時間を要するので、隠した指の隙間からそっと視線を送ってしまうほどに、私は男女関係に疎かったようだ。

「それに強がらないで欲しいと頼んだのは君だから。」
「ごめん、忘れてた。」
「だから謝られるのは好きじゃないよ。それなら代わりに今度は僕の我が儘を聞いて欲しい。」
「私にできることなら。」
「......この先ずっと一緒に居て。僕はある目的の為に行動しているから、記憶を消してまで取り戻した日常ってものを全て捨てないといけなくなるけど。それでも最後を見届けてほしい。」

 ここの局面で首を左右に振る資格も権利も何も、とうに私には残されていなかった。日常?友人?そんな言い訳は使い果たしてしまっているし、ただ急激な変化に億劫な自分を察される事へ恐怖していただなのかもしれない。空回っていたのはたぶん。いつでも私の願いを聞き入れてくれていた。今度は叶える番になれるかもしれないなんて思ってしまったけれど、そんな大役が務まる筈なんてないかな。その度にこれで最後これで最後と自分に言い聞かせても、続くことは無い。だけどこれで最後。

ねえ、連れ出して。


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