09

  学園のこともアートのことも忘れて過去から解放された私は、一般的な幼少期を過ごしたのだと自分にさえ暗示をかけて、進学をして就職をして変哲のない日常という虚像を作り上げた。一つ良いことといえば、ミニマムを介してでしか私を見てくれなかった両親の記憶を上書きすることによって、本来親としての責務を果たしてくれたという点だろう。けれどミニマムという重罪を背負っていることを忘れたことは一瞬たりとも無い。今になって思えばそれは、誰一人として殺めたくないという願いとの引き換えだったのだと思う。そしてもう一つ支払った対価は、最愛の人の記憶だった。

 それらがトリガーを引いたことによって一気に押し寄せてくる。記憶の濁流に飲まれそうになりながら、たった二本の足で体重を支えるのは至難の業だった。おまけに踵の高い靴を履いているために余計バランス感覚を失って、素早く膝を折り頭を抱えながら座り込む。膝に埋めて見えたのは水色のスカートで、アートが自分の発言に対して後になり疑問符を浮かべていたことを思い出す。あの頃は、私の気を逆なでしてミニマムを発動されては困る親たちが欲を言えば何でも叶えてくれたから、フリルを贅沢にあしらった女の子らしい洋服を強請ったことがあった。着飾りたいというよりは単純に可愛いものが大好きで、よくこんなスカートも履いていた気がする。

「君にはやっぱり可愛らしい服が似合うよ。」
「...ありがと。」

 私がアートに接触することで、葬りされられていた記憶が部分的にのみ復活し、それが原因でミニマムにも綻びが出てしまったのだと思う。しかしその部分的に思い出したことが洋服の種類だったなんて、とてもと注目されていたことを再確認して多少赤面しながら顔を上げるのを躊躇する。けれどこのまましゃがんでいるわけにはいかないし、目眩が落ち着きを見せてきたところで立ち上がり、見たアートの顔は記憶を取り戻す前とは大分違って映った。

「それにしても僕の計画はうまく行きすぎたみたいだ。」
「本当。もう少し誤算があってもよかったくらいに。」
「君はいつも状況から逃れることを望んでいたけれど、実際に自由になった感想はどうだった?」
「凄く、とはいい難いけど。それなりに幸せだったと思う。」
「そういってくれると嬉しいよ。」

 僕にとっては君が外に出ていけることの方が嬉しいよ、と言ったあの時の様に頬を綻ばせるけれどもね、馬鹿にしないでよ。そんな虚言で固められた表情を見破れないほど私はもう幼くないのだから。あれから面倒事の多い人生を歩んできて、お互い面影だけ残して大きく変貌してしまったけれど、結局そういった細部はアートのままだった。隣にいた人が突如他人に成り果ててしまったことを、忘れていたから辛くないなんてことは決してない筈なのに。十年以上にわたって続いた空白の時間の重みがのしかかってきたさっきでさえ、弱みを見せるのはたった一瞬の泣き顔だけで、また強く感情を抑制している。負担をかけてまで親切をしてもらったって相手が喜ばないなんてことは常識だというのに、苦労癖が付いていて息抜きや甘えを知らない、彼らしい空回り方だ。

「馬鹿じゃないの本当にっ。嬉しいだなんて下らないこと言わないで。」
「嘘は言ってない。」
「確かに嘘は言ってないかもしれないけど。思ってるのは嬉しいってだけじゃないでしょ?」
「だから僕は...」
「苦しかったって一言でいいから言ってほしいの。」

 私の身勝手な欲求が吸い込まれるように許容されてしまう環境はもうこりごりで、得手勝手に振舞うことを咎めてほしかった。謝罪がしたくたって相手がそれを拒否してしまうと、自責の念に駆られることさえも許されなくなってしまう。いくら現状を正しく理解することのできない年齢だったからといって、それはアートを苦しませて良い理由になんてなりはしないのだから。何も辛くなど無かったし君が幸せであったならそれで嬉しいだなんて言われてしまったら、その後私に謝る手段は残されていないじゃないか。一言でいいから辛かったのだと弱音を吐いて、お礼と謝罪を言う隙を私に頂戴。

「君を学園に閉じ込めたままでもいいから、一緒に居たいと思っていたよ。」
「...そっか。ありがとう、ごめんね。」

 自分を律してまで逃がしてくれたお礼がしたかったのに、陳腐な言葉がほんの少しだけしか頭に浮かばなかった。もしかしたら一緒に逃げようと私に持ちかけることもできただろうけれど、自分にミニマムが現れないから足手まといになるとでも思って、残ったのだと思う。能力がない事は私からすればむしろ羨ましいことで、劣等感を感じる必要なんて何処にもないというのに。まあそんな言葉、力を持っていない者からすれば嫌味にしか聞こえないのだろうけどね。一人ですべてを抱えこんで、それでうまくいくならむしろ本望って考え方は、あんまりにもアートらし過ぎるけど、そういうのは好きじゃない。誰かの犠牲で全部が報われるだなんて、助かった者へ消し去りようのない後悔を植え付けるだけだから。

「そういえばミニマムはいいわけ?」
「旧友と一日を共にするのに代償が必要かな。」
「そっか、よかった。これを失くしたら私もそれなりに困るから。」
「結局君は僕じゃなくて、友人を選ぶんだね。」
「うん。ごめん。」
「君に謝られるのは好きじゃないな。」

 工場跡地の窓ガラスは一枚残らず粉砕していて、破片の一つを拾おうと近づけば靴裏がガラスを踏んでしまい、さらに粉々に砕け散る音がする。比較的面積が広く残っているガラスを一欠けら手に取ると、ガラスが取り付けてあったであろう窓枠から射す光を反射させて、自分の顔をガラスに映した。そうやって自分で自分に"視線を向け"られるように。

「アートには昔ミニマムを使っているから無理だけど、私は今日の出来事を全て忘れることにする。そうやって日常に戻れば、彼女に心配かけることも無くなるから。だからアートも私の事は忘れて。」
「それが君の望み?」
「望みなんて綺麗な言い方じゃなくって。言うなら、我が儘かな。」

 アートの性格は、こんな風に無理強いをして我が儘を押し付けていた私の影響もあったのかもしれないと思うと、私はやっぱり無欲なんかじゃなくて強欲に部類されるんだと再確認する。これからも一緒に外出したりしていきたい気は山々だけれど、恐らくアートとこれ以上関われば堂々と街中を歩くことが出来なくなり、彼女にも合わせる顔が無くなるほど闇へ浸食されてしまう気がしてならないのだ。アートの根となる部分はぶれていないけれど、そのらしさというやつが今良からぬ方向へ進んでいることだけは理解できる。記憶を取り戻しても取り戻さなくても、私たちがこのまま親しい中でいられないという結末は進路変更することのできない、決定付けられた事柄だったようだ。それに非日常へ飛び込んでいくには、少しばかり勇気のステータスが足りていなかったみたい。

 また偽物の始まる音がした。

  


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