「あれ、黒尾いま帰り?」
「ん、お、名字じゃん」

高校3年生の秋、受験日までのカウントダウンの数字はもう2桁だ。推薦じゃなくて一般受験を目指すことにしたあたしは、毎日勉強に追われてる。
クラスには推薦とかAOとか、もう進路が決まった人も結構いて、たまに羨ましくなっちゃうこともあるけど、決めたのは自分、頑張らなきゃ、そうやって自分を励ましながら頑張ってるところ。
黒尾も、そんなクラスで勉強勉強ってしてないタイプの人間のひとり。でも他のみんなとは違って、勉強どころじゃないからだ。


「いま部活終わり?」
「おう、名字は勉強?」
「そだよ」
「すげえな」
「黒尾も部活すごいじゃん」


デショ、と言ってニヤリと笑いながらピースサインをする黒尾の腕は、男の人であるということを差し引いても、がっしりとしていて筋肉質だ。
あたしが頭を使って数学の公式とにらめっこしている時間に、黒尾はバレーボール部の部長として体育館でボールを追いかけてる。


「てか帰らないの?」


先生にわからないところを質問していたあたしは下校時刻を過ぎてしまって、やっと帰ろうとしているところだ。
もう昇降口のドアは施錠されてしまっていて出られない。そういう時は、靴を持って1階の事務室の前の扉から出るしかない。そこは先生が使っている玄関で、遅くなってしまったときの出口として、学校に居残る生徒の間ではわりと有名だ。
ここで昇降口の鍵を勝手に開けたら、翌日先生に怒られる。だって外からは鍵が閉められないから、ここから出たら鍵が開けっ放しになってしまうのだ。

黒尾は部活終わりにわざわざ昇降口まできて何をしていたんだろう。


「あーいや、実は傘取りに来たんだけど」
「あ、もう降ってるんだ」
「エッ知ってたの」
「夜から雨予報だったよ」
「うっわぁ知らなかった」


雨予報だったから長傘を持ってきてある。
傘立てからお気に入りの紺色に白ドットの傘を引き抜く。


「実は俺、傘ないんだよね」
「えっ取りに来たんじゃなかったの」
「いや、いつも置き傘下駄箱にいれてるんだけど、なぜかねえんだよ」
「あらら」
「たぶん幼馴染みが勝手に取ってった……」
「うーん、じゃあ傘入ってく?そんなに大きくないけど」
「いいんですか?!」
「よかろう、特別だよ」
「ありがたき幸せ〜」


かばんの紐をぎゅっと握る。
相合傘、だ。


職員玄関の扉がからからと音を立てる。
外に出ると土砂降りとまでは言わないけど、そこそこの勢いで雨が降っていた。


「傘、黒尾が持ってよ、あたしじゃ低いでしょ」
「任せろ」


身長のことを表すために頭の高さに手を置く。黒尾が傘を受け取って開くと、明らかに傘が女物だからなんだか不釣り合いだった。


「今月末だっけ、大会」
「そう、春高予選な」
「春高かー、見に行きたいなぁ」
「受験直前だろ、来んな来んな」
「えぇー!まあそうだけど」
「予選は来いよ、かっこいい黒尾サンの姿、見なきゃ損だぞ」
「かっこいいとか笑う」
「んだと」


くだらない話で笑いながら、水たまりを避けてゆっくり歩く。
細い雨が街灯の真っ白な光を反射して蜘蛛の糸みたいにキラキラしている。

黒尾は傘をあたし側に傾けてくれているから、肩が濡れてしまっている。それに気がついてからはすこしだけ黒尾との距離を詰めた。黒尾の腕がたまにあたしの肩にぶつかる。ブレザーもセーターも着ているから、体温が伝わってくるわけないのに、触れたところがちりちり熱かった。

かばんの紐をまたぎゅっと握った。
この中には、実は、折りたたみ傘も入ってる。




ゆっくり歩いたとしても、高校の最寄り駅は大して遠くない。あっという間にたどり着いてしまって、黒尾は傘を畳んでぶるぶる振って水を切って畳んでから、恭しく傘を差し出した。


「ありがとうございました」
「苦しゅうない」


傘を受け取って、改札を通って、ホームへのエスカレーターに乗った。

傘の先から滴る雫が、既に湿っている駅のホームの床に小さな水たまりを作っているのをぼんやりと眺める。
黒尾とあたしの電車は方面が違う。あたしの電車がほんの少しだけはやく来るみたい。


「ん、そういや黒尾、駅から家まではどうするの?」
「あー……チャリかっ飛ばすか」
「危ないよ」
「でもゆっくり帰って制服濡れるのキツくね?」
「明日までには乾くよ」
「んー」


指でかばんの紐をいじった。
下心に負けないで折りたたみ傘あるって言っておけば、黒尾は濡れないで帰れたんだ。
少しだけ罪悪感に苛まれた。



「んー、あのさ、名字がその折りたたみ傘貸してくれるんなら濡れなくてすむけど」
「……は?」


轟音を立てて電車が駅に入ってきた。
風で髪の毛がぶわって舞い上がるのを押さえる。

聞き間違えじゃない。


「えっなんで」
「持ってるだろ」
「……えぇ?なんで知ってるの」
「名字っていつも折りたたみ持ってるじゃん、チョコミントみたいな色のやつ」
「大当たり……」
「ほれ」


貸せよ、と手を出す黒尾。
あたしが乗る電車のドアが開いて、会社帰りのサラリーマンやOLさんなんかが降りてくる。

急いで傘を引っ張り出して黒尾に渡すと、逃げるように電車に乗った。


「ありがと明日返すわ」

黒尾がイタズラが成功した子供みたいな顔でにやりと笑った。


閉まった電車のドア越しにひらひらと手を振る黒尾をにらむ。
後から恥ずかしさと後悔が襲ってきて、傘の持ち手をぎゅっと握った。


なんで知ってたんだろう。
相合傘したかったってバレちゃったよね、これ。


脳みそがじんわり熱くて、湯気が出そうだ。
窓に打付ける雨を睨みつけて、元はと言えばお前のせいだ、なんて考えてみるけど何の意味もない。



悶々としていたら、制服の内ポケットに入れた携帯が振動した。
取り出してみると黒尾からメッセージが来ていて、慌てて開く。




「傘ありがとう、相合傘もご馳走様」





こいつ絶対明日殴る。


雨と鞭


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