大学のカフェの外に面したカウンター席に陣取ることもう2時間。しっとりと濡れていた上着も乾いて、コーヒーを飲みながら読んでいた文庫本は作者の後書きまでもう数ページというところ。

突然のゲリラ豪雨だった。
ここ数年、地球温暖化の影響だかなんだかで、異常気象がよく起こるようになった。今日もきっとそんな異常気象に見舞われてしまったのだろう日本列島は、首都圏の交通が盛大に麻痺するという多大な影響を受けていた。各地で停電、電車はもちろん止まっているし、さっき店員さんが言っていたことには、どうもこのカフェの一階部分は浸水しているらしい。なるほど外を眺めると大粒の雨がこれでもかというほど窓ガラスを叩いていて、こんな天気の中外を歩く人は殆どいなかった。たまに吹き飛ばされそうな傘を必死にさしながら足早に通り抜ける人がいるが、傘はほとんど意味をなしていなかった。

雨が降り始めたのは2時間ほど前で、傘を持っていなかった私は雨宿りのつもりでこのカフェに入った。まさかこんなに酷くなるなんて思っていなくて、気がつくと帰る電車の路線は止まり、水浸しの外に出るには頼りなさすぎるパンプスと、まったく水をはじいてくれないであろう柔らかなカーディガンで途方に暮れていた。
ネットは異常気象で盛り上がっていて、どうやら深夜までこの調子らしい。実家暮らしなので親に「電車止まった、帰れない」とだけ連絡を入れた。

本を読み終わり顔を上げると、まったく衰える気配のない雨が、目の前のガラスを相変わらず打っていた。カフェの電源で充電していたスマホに目を落としたそのとき、着信を知らせて控えめに震えた。電話の相手は同じ学部でひょんなことから知り合った及川。店内を見渡すと端っこでケーキをつつくびしょ濡れの男の子がひとりいるくらいで、まあいいかな、と電話に出ることにした。

「ん、もしもしー、なに?」
『名前ちゃん!家帰れないって、大丈夫?』

きっと私の呟きをみて心配してかけてくれたのだろう。ちゃらちゃらしていて軽いイメージが強いけど、優しいし結構気を使うのが及川って男だと思う。たった3年目の付き合いだけど、なんとなくわかるようになってきた。

「あーだいじょばない、非常にまずい」
『やっぱり!俺の家、大学からすごく近いんだけど来る?』
「えー」
『迎えに行くよ!なんなら泊まってもいいし』
「及川の家ってなんか怪しい」
『さすがに変なことはしないって!』
「うーん、かなりありがたいんだけど、迷惑じゃない?」
『ぜんぜん!むしろ頼ってくれていいんだよ!』

ただちょっと部屋が汚い、と笑う及川がいつもの3割増、いやもはや3倍くらい頼れる男って感じがして、私はお言葉に甘えることにした。


初めて訪れた及川の家は、小綺麗なマンションの4階の角部屋だった。学生の一人暮らしにしては広めの部屋で、家具もシンプルで落ち着いた雰囲気だった。出しっぱなしのバレーボール雑誌があるあたりが及川らしい気もする。

「めっちゃ綺麗じゃん」
「迎えに行く前に慌てて片付けました」
「あらお気遣いどうも」


ありがたいことに、晩御飯をごちそうになり、シャワーとパジャマとしてスウェットを借り、夜はソファを使わせてもらえることになった。ベッドを貸してくれようとした及川だったけど、流石に転がり込んだ身分で家主の寝床を奪うほどの図々しさは持ってないし、友人といえども異性のベッドには抵抗がある。


お休みの挨拶をしてからソファに寝そべり毛布にくるまる。
及川がこうやって助けてくれなかったら、私は今頃どうしていただろう。一部の交通機関は復旧したらしいけど、私が使っている路線は未だに運転を見合わせているし、親からの連絡によると自宅付近も浸水して大変らしい。しかも徒歩で、しかもパンプスで帰るには絶望的な距離だ。柔らかい毛布に包まれた今は、かなり恵まれた状況なのではないか。及川には大きな借りができてしまった。バイト代が入ったらランチでも奢ろうか。及川のことだから笑って気にしなくていいよって言いそうだけど、良くしてもらったので恩返ししたい。及川って何が好きだっけ。お洒落なカフェでワンプレートのランチ食べてそうな見た目だけど、スポーツマンだし肉とかがっつり食べたいかもしれない。焼肉かな。今月結構シフト入ったし、この際ぱーっと使って美味しいお肉食べちゃうか。

悶々と及川のことを考えていたら、借りたスウェットから及川のにおいがした。考えてみたらこのソファも、毛布も、部屋も、お日様のにおいに混ざって及川のにおいがする。
途端に及川に包まれてるような気持ちになって、自分の思考に恥ずかしくなった。
壁の時計の秒針の音がやけに大きく聞こえて、自分の心臓がそれより幾分早く鳴っているのを意識させられる。

そんな、おかしい、だって及川なのだ。

女の子にはいつでも優しくて、仲のいい友達からは弄られて、性格は軽い感じなのにバレーボールに真剣に打ち込んでいる。見た目は爽やか系で顔も整っていて、鍛えられた身体にころころと変わる表情。

あれ、及川ってもしかして、めっちゃ異性として素晴らしい?そういえばモテるけど、つまり、そういうこと?

今までまったくもって異性として意識したことなんてなかった及川が、突然魅力的な男の人みたいに感じられてしまう。
そんな、困ったときに優しくされただけでこんなにドキドキさせられるなんてどういうことだ。いや及川は困ってなくてもいつでも優しい。それを再確認しただけのことだ。調子狂わされて情けない。


結局よく眠れないまま外が明るくなってきた。カーテンを開くと、昨日の豪雨が嘘みたいに綺麗に晴れていて、日光が目に眩しかった。

「あれ、名前ちゃんおはよ、はやいね」
「っわびっくりしたおはよ、及川こそ。こんなに早くにどうしたの?」

おはよ、とふにゃりと寝起き眼で笑う及川がすごく可愛く見えてしまう。おかしい、とてもおかしい。昨日まではこんなふうに思うことなんて絶対なかった。

「朝ごはん、焼きたてパン美味しいお店あるから買ってこようかなって」
「そうなんだ、私も行く」
「ゆっくりしてていいのに」
「どんなパンあるかみたいもん」
「じゃいこっか」


近場だしスウェットでいっか、と横着した結果、大学の後輩である国見とばったり出会ってしまって、そういう関係だと疑われてしまった。

「ちょ、国見ちゃん!そんなんじゃないから!」
「いや大丈夫ですよ、言いふらしたりしません」
「そういう問題じゃなくって!」


必死に言い訳をしている及川を見ながら、私は別に誤解されてもいいけどな、なんて思ってしまったのでもう末期かもしれない。


迷い道標


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