*ちょっと暗い
*白布大学生、夢主社会人
新入社員としての毎日はいつも辛くて苦しい。給料と福利厚生とネームバリューで選んだ有名企業は、所謂ブラック企業で、でもまあ給料たんまり貰えるしいいか、なんて思っていた。最初のうちは。
外資だかベンチャーだかに就職した友達が、素敵なオフィスで完全週休二日制、在宅ワークやらフレックス制、残業ほぼナシのくせにしっかり給料貰ってエンジョイしている姿を見て死んだ。私はもう死んだ。私は生命の余韻で動いているだけの新鮮な死体だ。
大体、給料たんまり貰ったところで、せっかくの休日に遊びに行ったり買い物したりする気力が起きないくらい仕事で疲れきってしまっていたら、お金を使えないのだ。増える貯金残高、それと共に増すストレス、疲れと嫉妬。ごちゃごちゃと黒い感情が渦巻いて、何度いっそ死んだ方が楽じゃない?と血迷ったか。
そんな私を支えてくれたのは、同棲している彼氏、賢二郎だった。
賢二郎は医学部の五年生。私は医学部のカリキュラムには全くの無知だから、賢二郎が何をやっているのかよくわからないけど、多分実習とかで忙しくしているんだと思う。それなのに社会人になって大荒れに荒れる私のメンタルケアまで担ってくれているから、もう既に賢二郎は立派なお医者さんだと思う。
そんな賢二郎にもたれっぱなしだった私が全面的に悪い。
そう、私が全面的に悪い。
自分自身のことで精一杯になっていて、私は賢二郎の異変に全く気がついていなかった。賢二郎もお医者さんになるために色んな勉強をしなきゃいけなくて、とっても苦労しているのをわかってるつもりでわかってなかった。
ある日、会社でいつものように辛いことがあった私は賢二郎に抱きついて愚痴を零していた。すると、突然ぐい、と体を離された。
「あのさ、名前。そうやっていっつもグチグチ言ってるけど、名前が仕事もっと出来ればそんなこと言われないんじゃない?」
急なことにびっくりして、何も言えなかった。
いつも優しく聞いてくれて、慰めてくれて、頭を撫でてくれて、それから抱き合って一緒に寝てくれる賢二郎が、冷たい目で私を見ていた。
「俺に愚痴る前にさ、名前は努力したの?」
ぴしり、と何かがひび割れる音がした。
頭に血が上って、賢二郎の頬を叩いた。髪も目も肌も色素の薄い賢二郎の頬が赤くなって、とても痛々しく見えたのが気持ちよかった。
「なんで、そんなこと言うの」
とても怒っていた。それと同時に、唯一の理解者、共感者、そして味方が急に敵になったように感じて、悲しくて寂しくて、とても痛かった。
でも、感情の激流を上手く言葉にするだけの処理能力を私の脳みそは有してなくて、ぼろぼろと零れる涙をそのままに、賢二郎の体を精一杯押した。私を傷つける賢二郎の近くになんていたくない。
「もう、知らない、どっか行って。賢二郎なんて知らない!」
「そう、じゃあ出ていくよ」
賢二郎はすっと立ち上がって、最低限の荷物を抱えてそのまま家を出ていった。
二人暮らし用の広さの部屋に取り残された私は、しばらく呆然としていて、そのあと子供みたいに声を出して泣いた。泣いて泣いて、枕カバーがぐしょぐしょになるころに疲れて寝落ちて、目が覚めたら翌日の昼だった。
最悪の気分だった。会社に体調不良の連絡をして、お休みを貰った。明日出社する時が怖い。何て言われるのか。でもそれよりも、確かな痕跡が部屋に散らばったまま忽然と消えた賢二郎のことを考えると、寒くて寒くて仕方ないような気持ちになった。
だんだん冷静になってくると、自分の悪かった点なんて山ほど考えついて、余裕がなかったとはいえ賢二郎を追い出したのは理不尽だったと頭を抱えた。それでも、やってしまったことは元に戻らない。そもそも別に私は賢二郎の発言を許すつもりもない。ずたずたになっていた私の心にトドメをさしたのは確かに賢二郎の言葉だったから。
泣きすぎて人相が変わるほど腫れた瞼に、乾いた笑いが零れた。情けない。仕事も出来ないし男にも捨てられた女の顔だ。捨てられたっていうと被害者ヅラしすぎかな。あくまで自業自得で男を失った女だ、私は。
冷たい水で顔を洗って、フラフラとした足取りでデスクに座ってパソコンを起動した。もうヤケクソだった。使う暇のなかった貯金は今この時のためにある気がしていた。
ブックマークしてあったショッピングサイトを迷いなく立ち上げ、気になったものを片っ端からカートに入れた。値段なんて見ない。スクロールして気になったら止めて、クリックしてカートに入れる。その動作にはほとんど思考はなくて、もはや本能で動いているだけだった。クレジットカードの番号を打ち込んで決済を完了させた。明日には届くらしい。明日届けられても仕事で家にいないけどな、と思ったけど、奇跡的に早く帰ることができて、受け取ることができるかもしれない、なんていう希望的すぎる観測に縋ることにした。
翌日、いつも通り遅い時間の帰宅に、希望的観測なんていうものはあくまで希望であって、たいていの場合は思い通りになどいかないと実感した。
しかし、マンションの扉を開けると、確かに消したはずのリビングの電気がついていて、恐る恐るドアを開けるとたくさんのダンボールの空き箱のなかに佇む賢二郎がそこにいた。
「…賢二郎?」
ゆっくりとこちらを向いた賢二郎、すごく睨まれた。
「馬鹿だろ。なんなんだよ、とうとう頭おかしくなった?」
「え、や、なんで、戻ってきてくれたんだ」
「んなわけないだろ。俺の荷物、足りないものを名前がいない間に取っていこうとしたらバカみたいな量の宅配が届いて、そんな、放置できないだろそのまま」
「あ、そう、だね、ほとんどクール便だもんね」
「一体何のつもりなんだよ」
「…美味しいもの食べたら、なんか、なんとかなるかなって」
国産和牛のテンダーロイン、サーロイン、頬肉、スジ、イベリコ豚にブランド地鶏。海鮮は大トロ中トロ赤身にサーモン、ほたてにいくら、ウニ。季節のフルーツ盛り合わせにイタリア直輸入ジェラート、プリン、ロールケーキにオペラ。ウィンナーや缶詰など加工食品もある。それから、洋酒日本酒果実酒焼酎にビール。割り物も少しいいものを買ってある。多分今言ったの以外にも色々買ってる。冷凍庫も冷蔵庫もいっぱいで、常温保存のものはキッチン前の床に置きっぱにされてるから。
質のいい食材を扱う通販サイトで私は片っ端から目に付いたものを全て買った。
「あ、しらすも買ったよ。賢二郎、食べようよ」
「………はぁーーー…」
大きな溜息をついた賢二郎。冷蔵庫からしらすを取り出して、こっちをひと睨み。
「ご飯、冷凍のでいい、早く解凍して」
あ、食べてくれるんだ、って安心して、私は力なく微笑んだ。
冷蔵庫、冷凍庫どっちも漁って食べるものを決める賢二郎の横から冷凍してあった白米を取り出して電子レンジに突っ込んだ。
賢二郎はステーキ肉を大胆に取り出して、フライパンを火にかけた。塩コショウを振ってからさっと加熱。中まで火をちゃんといれるけど結構レアな焼き加減。
大皿にステーキをどんと乗せて、同時に調理していたハーブが入ったヴルストを添える。野菜がないな、と思ったけど気にしないことにする。
ご飯を持って、食材がいろいろだから何を用意するか迷ったけど箸もフォークもナイフもスプーンも並べた。きっとこの後デザートも食べる。
「いただきます」
2人で手を合わせて食べ始めた。真っ先にしらすをご飯に盛った賢二郎。しらす丼、美味しそうだ。
私はステーキにそっとナイフを入れると、お肉が柔らかくて抵抗なく切れて、そこから肉汁が溢れた。塩コショウだけの簡単な味付けで十分すぎるくらい美味しかった。
会話がないまま、食卓に並べた食べ物は全て私たち二人の胃に収まった。賢二郎はお酒をお代わりした。私はお酒にそれほど強くないから、デザートと一緒に少し飲むだけにしようと思ってまだ飲んでいない。
私はミルクジェラートにすこしブランデーをかけた。賢二郎は日本酒とチーズケーキ。あうのかなって思ったけど、賢二郎はそういうセンスがいいからきっとあうんだろう。
「あのさ」
ジェラートを口でとかしてから、ゆっくりと口を開いた。
「いつもいつも、本当にごめんね」
「…」
「つらいつらいって言ってばかりで、私、賢二郎の話聞いてこなかったよね」
賢二郎は何も言わないで、日本酒をすこし飲んだ。
「私、ちゃんと反省した。仕事で求められてるラインに答えられてないのは、賢二郎の言う通り私だった。でもうちの会社がブラックなのは紛れもない事実だから、どうしてもダメそうなら転職する。こういうとき、資格取っておいて良かったって思うよ。ちょっと調べたけど、転職するにしても働き口は見つかると思う」
甘くて濃厚なミルク味が、ブランデーの香りで大人っぽい味になる。病みつきになりそう。てかこのブランデー、値段みてないけど一体いくらしたんだ?めっちゃ美味しい。
「もう社会人なんだから賢二郎にもたれっぱなしはやめる。でもどうしても辛かったら、私には賢二郎しかいないから頼らせて欲しいの。本当にごめん。でもその分、私も賢二郎のこと支えてあげられるようになりたい」
下を向いてしまった賢二郎をはらはらしながら見つめていたら、チーズケーキのお皿の横に、水滴がぽたりと落ちた。
賢二郎、泣いてる。
賢二郎が泣いているのを見るのは、それこそ高校生ぶりくらいで、びっくりして言葉が出てこなかった。
賢二郎がゆっくりと顔を上げた。ぽろぽろと落ちる涙がまつ毛の上で光って綺麗だった。微かに私が叩いた跡が頬に残っていて、罪悪感で胸が少し痛んだ。
「…俺も、つらい」
賢二郎がくしゃりと顔を歪めて、それを見た私まで急に涙が込み上げてきた。
賢二郎は、お医者さんになるのだ。人の命を預かる仕事。そのための勉強や実習が大変じゃないわけがなかった。賢二郎は努力する才能を持ち合わせすぎていて、人一倍、たった1人で努力して、辛くても誰にも話せないでいたのだ。だって、一番近くにいた私があんな調子だったから。いや、あんな調子じゃなかったとしても、賢二郎は自分が辛いことを話そうとはしなかったと思う。そういう人だ、賢二郎は。きっとそれを汲み取って、支えてあげるのが私の役目だった。
2人でデザートを前にしてただ泣いているのは少し滑稽だった。目を赤くした賢二郎が酷く弱々しく見えて、たまらず私は席を立って賢二郎を抱きしめた。
2人で泣いて、泣き止んでから歯磨きをして、明日絶対瞼が腫れるだろうなって思いながらそのまま2人でベッドに入った。
賢二郎を抱きしめて、胸に顔を埋めた。賢二郎のにおいがした。
結局私には賢二郎しかいないし、賢二郎じゃなきゃ嫌だ。そして、賢二郎もそう思ってくれていたらいいと思った。