※時間操作あり


朝ごはんは昨日の残り物だった。小さなお皿におかずをきゅっと詰めて乗せてレンジであっためる。お湯を沸かしてティーバッグをセットしたカップに注ぐと、ぷくうと膨れたティーバッグがお湯の中をくるくる踊った。
読みかけのハードカバーを開いて、ページを捲りながらおかずを咀嚼する。食べてお皿にできたスペースに抽出が終わったティーバッグを置く。ティーバッグが一緒に連れてきた水分がおかずを侵略しはじめるから、慌てておかずを口に詰め込んだ。出来上がった紅茶は熱くてまだ飲めない。

一人暮らしのワンルームはいつも静かだ。私が立てる僅かな生活音と、目の前の通りを走る車の音と、それからたまに聞こえる隣人が何かを落としたような鈍い振動の音。
大学生活はとても楽しいけれど、この一人の静かな時間を過ごしているときだけ、ふと、高専に通っていた頃を思い出す。


おにぎりの具しか語彙のない奇妙な同級生、狗巻棘と私が衝突したのは、卒業を控えた冬の事だった。


「棘はさ、いつまで語彙を絞るつもりなの?」
「…いくら?」
「それ。小さい頃と違って、もう呪言の制御が出来ないわけでもないでしょ。それとも何か別の理由がある?」


こんなことを言いながらも、私は知っていたのだ。

私は棘が語彙を絞っているのは、万が一にでも大切な仲間を傷つけることがないように、という棘の途方もない優しさからくることを。意思疎通が上手くいかないことがあっても、絶対に、傷つけることがないように。

机に肘をついて、横の席の棘を見つめる。隠された口元には、狗巻家の呪印が刻まれている。
舌にある呪印がごくたまにちらりと見えた時、見てはいけないものを見てしまったような気がして、いつも心臓が変に高鳴った。

私は自分の子供じみた欲望のために、意地悪にも棘に言った。

「私たちと普通にお喋りしたくないんだ」
「おかか」
「私たちにはおにぎりの具で充分?」
「おかか!」
「おにぎりの具に意味なんてないよ。相手に頑張って察してもらって、それで満足?」
「…」


棘はひどく傷ついたような顔をして、それからようやく私は自分の失言に気がついた。
私はただ、棘ともっと普通に話したかっただけなのだ。棘の声が好きだった。おにぎりの具でしか伝わってこない棘の気持ちを、もっとちゃんと言語化して欲しいだけだった。

小さくおかか、と呟いて俯いてしまった棘の旋毛を眺めた。

私は謝らなかった。



青春時代の思い出がちくりちくりと心を刺して、古傷が疼くみたいな感覚になる。
私は棘が好きだった。異性として、好きだった。
その恋を台無しにしたのも、修復しようとしなかったのも私だ。卒業して、私は大学に進学して、棘は呪術師として今も仕事に明け暮れているんだろう。連絡は取っていない。
時が経って傷は瘡蓋になって、今ではすっかり治ったように思えるけど、肌の下ではじくじくとあの時の後悔が渦巻いている。


ぱたんとハードカバーを閉じて紅茶に口をつけたら、思っていたより熱くて、仕方なく冷蔵庫の牛乳をカップの縁ギリギリまで注ぎ込んだ。やっと飲める温度になったそれを、一気に飲み干してから立ち上がった。
大学の授業に行く準備をしなきゃいけない。


授業は退屈だった。これなら硝子さんにくっついていた方がよっぽど有意義だと思うくらい。それでも大学に通っているのは、それが私に必要なことだと分かっているから。
骨と筋肉の名前、臓器の仕組み、代謝やらホルモンの働きやら、そういった事を丸暗記することから始めて、実習だとかいって動物の体内かっぴらいて弄って、授業は段々ととても専門的な内容に入っていった。


教科書と参考書と読みかけのハードカバーでずっしり重いリュックを背負って、引き摺るようにキャンパスを歩いていたとき、嫌な気配がぶわりと肌を撫でた。…呪いだ。
高専を卒業してから、何度も呪いに出会ったし、弱いものは自力で、不安なものは高専に連絡を入れて対処してきたけど、今日のは今までで一番嫌な気配がしていた。
これは早く何とかしなきゃまずい、と呪いの気配とは逆方向に歩を進めながら携帯を取り出した。


そのとき、見覚えのある顔が前から歩いてきて、私とすれ違った。

絹鼠色の髪、少し眠そうな目、顔の下半分は服の下に隠されている。

びっくりして慌てて振り返るけど、颯爽と歩いていってしまってもう見えなかった。



「………棘?」




そのあとすぐに呪霊の嫌な気配は消えて、ため息をついてから携帯を元通りリュックに押し込んだ。
誰か、きっとさっきすれ違った彼が祓ったんだろう。これなら高専への連絡は不要だ、というか高専は既に窓の報告か何かでこの呪霊の存在を知っていたんだろう。


授業は今日はもう無い。さっさと帰ってハードカバーの続きを読もうかと踵を返したとき、腕を掴まれた。
何となく、それが誰かは察していた。

ゆっくり振り返ると、高専の制服とは違うけど相変わらず口元をすっぽり服で覆った棘がそこにいて、気まずい思いを押し殺して笑顔を作った。


「久しぶり、棘。お仕事お疲れさま」




学内のカフェの窓際の席で隣り合わせに座った。人目をはばかりながらも口元を露わにしてコーヒーに口を付けた棘をちらりと盗み見る。久しぶりに見た、カップにつけた唇の横に伸びる狗巻家の呪印。まつ毛の影が、棘の白い頬に落ちていた。

なんとなく二人でカフェに来たものの、特に会話はなかった。居心地が悪くて、早く帰りたかった。それか、ハードカバーを取り出して読み進めたかった。隣に座る棘の側の自分の体が何だかじりじりした。


棘のことが好きだった。
高専時代の長い片思い。
こじらせて、私の青春は染みになった。肌の下に残るドス黒い炭みたいに、しっかり刻まれて消えない。

淡い純粋な好意が、いつしか執着と欲望に変わっていた。それが棘を傷つけてしまったのが怖くて、棘から離れた。蓋をした。

それなのに、今私は棘と二人、隣同士に座っている。


「…いくら」


ぽつりと棘が呟いた。答えに困って、唇を結んで少し俯いた。


「いくら」


聞こえなかったと勘違いしたのか、棘が繰り返した。棘がこちらを向いているのを視界の端で捉えてしまって、おずおずと、目を合わせた。
色素の薄い髪が窓際の光に透けてキラキラしていた。
真っ直ぐな視線に貫かれて、目を合わせたまま、私はぎゅっと縮こまって動けなくなった。棘はいつからメデューサになってしまったというのだ。


いつ戻るのか、と聞かれたんだと思う。

おにぎりの語彙と話すのは久しぶりで、少し、自信が無いけど。

戻る、とはきっと、高専に。
私は大学に進学した。反転術式が使えたものだから、硝子さんのようになるべく医学部で勉強している。でも、本当に高専に戻るかは決めかねていた。それは、未だに引き摺っている禍根のせい。

子供じみているとは思う。でも、今こうやって棘と目を合わせただけで私は上手く考えられなくて、言葉も出なくて、そのくらいあの出来後が尾を引いているのだ。とても優しい同級生の好きな人を、私の言葉で傷つけたこと。


固まっている私をよそに、棘は表情を曇らせて、私から視線を逸らした。

ああ、またやってしまった、と思った。

体の内側の温度がぐんぐんと下がっていくような気がした。
棘の姿が、傷ついた顔をして下を向いた、あの日の棘と重なった。

手指の感覚が無くなっていく気がして、両手の指を絡めて落ち着きなく親指を擦り合わせた。
すると、棘が不意に私の両手に自分の手を重ねて、弾かれたように棘を見ると、棘がゆっくり口を開くところだった。
ひゅう、と息を吸う音がやけに大きく聞こえたような気がする。


「はやく、戻ってきて」


棘が切なそうに、小声で紡いだ言葉には、呪力が籠っていなくて、だからきっと呪言ではなかった。
でもその言葉に、急に私は早く高専に戻らなきゃいけない気がした。
棘がどうして私に戻ってきて欲しいのか知りたかった。それは単に反転術式を使える稀有な人材をみすみす逃すわけにはいけないという高専側の思惑なのかもしれない。
それでも、なにより、棘が私のためにこんな表情でこんな声で、こんなセリフを吐くのに酷く心を動かされてしまったのだ。



コーヒーを飲み終わってから、棘は補助監督の人に連絡を入れて帰っていった。それかまだ仕事があるのかもしれない。

私はすっかり冷えてしまったコーヒーを流し込んで、また重いリュックを背負って家へ帰った。
部屋につくと携帯を操作して電話をかけた。メールとか、メッセージアプリとか、連絡手段は色々あるけど、今すぐに返事を聞きたかったから電話にした。コール音の後、はいもしもし、と聞こえた声に安心して息をついた。



「硝子さん、名前です。お聞きしたいんですけど、硝子さんってどうやって二年で免許取ったんですか」

Agave


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