※暗い




傑先輩が集落の人間を皆殺しにして行方をくらませたあの日、呪術規定9条に基づき、傑先輩は呪詛師として処刑対象となった。




「やあ」

底抜けに明るい笑顔で私の前に現れた傑先輩は、どこからどう見ても普通の傑先輩だった。

「元気にしてた?」
「…犯罪者先輩がこんなところでどうしたんですか?」
「君に会いに来たんだよ」


傑先輩は、呪術高専のひとつ上の先輩で特級呪術師。先日の任務で大事件を起こして、呪詛師になってしまった。


「先輩はどうしてあんなこと、したんですか」
「それを話したら君は理解してくれるのかな」
「…私は途中式を知りたいだけです」
「はは、そうだね。君はそういう人だ」


平日昼間の大きな都立公園、公園内にある大きな池を臨むベンチ。ここは私の好きな場所。嫌なことがあると、よくここに来てぼんやりと池に浮かぶ葉や波打つ水面、泳ぐ水鳥なんかを眺めるのだ。

隣に腰掛けてきた先輩は、男の人にしては長い髪をハーフアップにしてお団子に纏めていた。
真っ黒な髪、真っ黒な服は重苦しい印象を与える。いや、重苦しい、なんて思ってしまうのは、私の心がそうだからかもしれない。


「呪霊が何でできているかは知ってるね」
「人間の呪力が形を成したもの、です」
「うん。じゃあ、術師からは呪霊が生まれないことも知ってる?」
「…」
「非術師をみんな殺して、呪霊のいない世界を作りたいんだ」


…どこからどう見ても、いつも通りの傑先輩だった。
表情も、声も、話し方も、私を見る目も。
それなのに、言っていることが全く以前の傑先輩とは一致しなくて、頭の中が真っ白になった。傑先輩が、私の理解の及ばない遠くに行ってしまったように思った。


「弱者生存、それがあるべき社会の姿さ」
「呪術は非術師を守るためにある」
そう教えてくれたのは、高専の先生じゃなく、ひとつしか歳の違わない傑先輩だ。

そうやって言いきれる先輩のことを、心から尊敬していた。
呪術師として、守るものを明確に捉えて、その為に力を注ぐ。そんな在り方を貫く先輩はすごくかっこよくて、眩しかった。先輩みたいになりたかった。


高専に入学してからずっと、傑先輩の背中を見てきた。追い付きたくて、あわよくば隣に並びたくて、今まで走り続けてきた。
やっと最近、少しは近づけたと思っていた。
呪術師としての実力が付いてきて、ほんの少しは傑先輩と同じ景色が見られるようになったと思っていた。

それが、今は何も、見えない。
先輩がどこに立っているのかすらわからない。
…あまりに、遠い。



「…対処療法じゃダメなんですか」
「それで解決するかい?」
「解決なんて目指す必要がありますか。私たちはただ、少しでも呪霊の被害を減らせればそれでいいんです。そうすれば喜ぶ人がいて、私たちはご飯も食べていける」
「…」
「呪術師って言っても一人の人間ですよ、それ以上を目指して何になるんですか」


そこまで言って、はたと気がついた。
悟先輩、悟先輩なら、もしかしたら。あの人は「最強」だから。
私のその思考に気がついたのだろうか、傑先輩は悲しげな笑みを浮かべて、私の頭を撫でた。

「名前は頭がいいし、ちゃんと割り切ることができていて、本当に凄いと思うよ」

大きくて温かい手が私の髪を梳く。


「…ねえ、名前。名前は私のことをどう思っているんだい」

抽象的な問いだと思った。


「…心から尊敬する先輩、でした」

先輩の手がするりと髪を滑って離れた。
僅かに瞳が寂しそうに揺れた気がしたけれど、ほんの少し俯いたあと顔を上げた先輩はやっぱりいつも通りの優しく微笑んだ顔だった。


「私は名前のことを、好きだったよ」











「傑が死んだよ」



そう言われて、涙は出なかった。




傑先輩は優しくて、強くて、真面目で、心から尊敬する先輩だった。

入学してすぐ一目惚れ。
恋心を隠して隠して、ずっとその姿を密かに眺めているだけで良かった。それでも、私みたいな大した力もない呪術師の端くれのことも気遣ってくれて、アドバイスをくれたり訓練に付き合ってくれたりするのが傑先輩だった。
本当に、憧れで大好きな先輩だった。

男の人らしい広い背中も、やんちゃしがちな悟先輩を諌める姿も、任務から帰ってくるとお疲れ様って優しく私の頭を撫でてくれる大きな手も、全部全部、全部、大好きだった。



私は一級呪術師になった。

先輩のことを追いかけていた学生時代はもう昔のことだし、最後に公園のベンチで先輩と話して、あれきり、一度も会うことはなかった。もちろん、お葬式なんてものは開かれないから、死体になってからも先輩の姿を見ることはなかった。


大好きだった、でも、先輩がいなくなってダメになれるほど、私は可愛くてか弱い女じゃなかった。

ちゃんと経験を積んで、呪霊を祓って、正しい努力に裏打ちされた強さで一級に昇格した。
迷いなんてなかったし、それが私の進むべき道だ。
でもそれは、在りし日の傑先輩をなぞってきたにすぎなかった。

私は傑先輩に何があったのか知らない。どうして、ああやって変わってしまったのかも知らない。少しずつ狂ってしまったのか、もしくは何か決定的な何かに歪められてしまったのか、何も知らない。
それでも、傑先輩は本当は素晴らしい呪術師になるはずだったのだ。学生にして特級呪術師、品行方正、真面目、優しくて、ちゃらんぽらんな悟先輩とは違って後輩にも気を配ってくれて。
そんな人が歪んでしまう世界を私は肯定しない。
だからといって私が何か否定するための行動ができるとは思っていないけれど、せめて私だけでも、傑先輩を肯定する世界になりたい。先輩が正しかったと、先輩がかけてくれた言葉を胸に刻んで、その通りにこれからも生きていくのだ。



ああでも、


「…あの日、ちゃんと私も好きでしたって、伝えられてたらな」



そうしたら、私の人生ごと歪めて、傑先輩は一緒に連れて行ってしまったのかもしれない。
ただ正しく先輩をなぞってその延長線を引くような人生じゃなくて、先輩のすぐ側、隣で、一緒に死ねたのかもしれない。

これから私は、傑先輩を肯定するために、私が憧れていた傑先輩になるために生きていく。
それでも、私は世界を否定するほどの行動力も勇気も何も持っていなくて、あの日、傑先輩が公園から立ち去ってしまった日に、私は最後のチャンスを無駄にしたのだ。
私は一生かかったって傑先輩にはなれない。

傑先輩の手を取って、一緒に破滅の道を歩けばよかったのだろうか。それとも、傑先輩について行けば、好きって言っていれば、また違った結末を迎えることができたのだろうか。




公園のベンチ、池から吹く風はやけに冷たくて、身震いして立ち上がった。

次の仕事に向かわなくてはいけない。

あどけない青が揺らぐような耳鳴


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