*暗い




一人暮らしの1Kの湯船は、大人一人が入れば足を伸ばすスペースなんてなくて、膝を抱えて手で掬ったお湯を肩にかけた。入浴剤で甘いミルクの香りに白濁したお湯が体を濡らす。

結んだ髪を解くと、水面に髪が広がってゆらゆら揺れる。ゆっくり体を倒して、頭のてっぺんまでお湯に沈めた。目をつぶって、頭皮をお湯が撫でる感覚と、頬を髪の毛が掠める感覚とを味わいながら口から息を吐き出した。こぽり、こぽりと空気が漏れて、そのうち吐き出せる空気がなくなって、それでも限界まで絞り出して、苦しくて苦しくて閉じた目に涙が滲むくらいまで息を吐く。

思考が白く霞んで、今度こそ、と思ったとき、誰かが私の体をお湯から引き上げた。


「何やってんの」

「…さ、とる」

急に空気が通った気道がひゅう、と音を立てて、噎せてけほけほ言う。前髪から垂れたお湯が頬を伝って、泣いてるみたいだと思った。

悟は何も言わないで、服が濡れるのも構わず私を湯船から引っ張り出して抱き締めた。抱き締め返しもせずに、私は素肌に触れる悟の服のガサガサした感触に居心地の悪さを感じていた。


「…名前はさ、生きてるだけでいいんだよ」
「そんなこと言うの、悟だけだよ」
「僕が名前を必要なだけじゃ、生きる理由にならない?」
「わかんない」

柔らかいタオルで体を拭かれて、前髪を掻き分けて額に口付けされる。軽々とお姫様抱っこされて、ベッドに寝かされて、悟は濡れた服を脱ぎ捨てると私に覆いかぶさった。



私は呪術師だった。

あるきっかけですっかり呪力を失ってしまって、呪術師を引退した。
そのまま、何もせず、何も出来ず、ゆっくり死を待つだけの生活をしている私を、悟は何故か必要だと言う。






明け方の薄いブルーの空を見上げた。
悟の瞳の色は、夜の終わり、朝になる前の僅かな時間の空の色に似ていると思う。その瞳にまっすぐ見つめられると、私は酷く悲しい気持ちになって、子供みたいに声を上げて泣きたくなる。才能を持って生まれて、なるべくして最強になった悟のそばにいると、絶望によく似た諦めで一杯になる。
ほんの少しだけ持ち合わせていた私の力も、今はもう無くなってしまった。
私が呪術師でいられなくなった日。呪術師はいつも人手不足だけど、私が抜けても業務は回り続けた。代わりなんていくらでもいた。
けれど、悟はそうじゃない。悟がいなくなってしまったら、呪術師の世界は大きく崩れてしまうだろう。御三家の関係も、呪霊や呪詛師との関係も、すべてぐちゃぐちゃに。

別に悟みたいになりたいわけじゃない。あまりに多くのものを与えられてしまった人生は、私には分不相応、難しすぎる。才能がある人間は、その才能以上のパフォーマンスをしなければ評価してもらえない。下駄を履いているぶん、高いところに手を伸ばさなきゃいけない。そうやって背伸びして、背伸びして、いつか転んでしまうのが怖い。才能なんていらない。期待されるのは怖い。それでも、何も持っていないのも怖かった。



「…もう、起きたの」

薄く目を開けた悟が寝起きで掠れた声で言った。金星が輝く空をぼんやりと見つめる私を後ろから抱き締める。


「僕には名前が必要だよ」
「…悟」
「名前が居てくれなきゃ、だめだ」
「…」


微かに震える悟の指にそっと指を絡めた。
彼も可哀想な人だと思った。私なんかのことが、本当に必要なんだろう。それは自惚れとかじゃなくて、ただの事実。悟は才能も力も持っていて、評価もされていて、本当なら何一つ苦労しないで幸せを享受できるはずだ。それが通りだ。
いや、全てを持ち合わせていたからこそ、帳尻合わせに私なんかを心の底から愛してしまったのだろうか。
私を愛したって、幸せになんかなれない。幸せになんかしてあげない。何も持っていない私が、悟にあげられるものなんてない。もし何か持っていても、既に沢山持ってる悟なんかにあげたりしない。
それでも、与えられる悟からの愛情を手放すつもりもない。それ以外に私が貰えるものがどこにもないから。
報われないのに永遠に生産性の無い愛を注ぎ続ける悟が、可哀想で可哀想で、なんだか笑えてしまって、小さく微笑みながら悟の長い指を弄んだ。

ああ、本当に可哀想な人。
私がもし悟からの愛と引き換えにもう一度呪力を手に入れることができるなら、私は迷わずそうするよ。
這いつくばって生きながらえて、立派に立っている悟からの愛を浴びて生きるくらいなら、孤独でもいい、私は自分の足で立っていたいのだ。
ああ本当に、私も彼も救えない。

可哀想なこと。

何だってあったけど、何にもなかった


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