男、五条悟は待っていた。
待ち合わせは二時間前。何度目かのドリンクのお代わりをして、ストローを噛んだ。男は待たされてナンボ、とまではいかないが、男として女をいくらでも待つことぐらいできる、素晴らしく良い男なのが五条悟である。それでもこの二時間は退屈であった。
どちらかというと、周囲を振り回すタイプである自覚はあるし、意図的に振り回している節もある。五条悟は最強であるが故に唯我独尊だった。しかし、それが崩れるのが女、名字名前相手の時であった。


女、名字名前は待たせていた。
いや、本人は待たせている自覚など全くない。海外産カタカナのなんだかよく分からない名前の生き物の羽毛布団にシルクの布団カバー、シーツも枕カバーも同じくシルクでマットレスは高級ホテルに採用される一流ブランドのものだ。そんな金に糸目を付けずに拵えた最高の寝床で、すやすやと、幸せそうに眠っていた。今この時も、五条悟が自分を待っていることなんて全く関係なく、ただ、深い深い眠りについていた。


ついに長い針が三周したとき、五条悟は諦めて席を立った。

洋風の御屋敷に顔パスで踏み入れる。ダークブラウンの床板をつるりと磨かれた革靴が叩く。螺旋状の階段を昇って、迷いなく一つの扉の前に辿り着くと、形だけのノックをする。返事など期待していない。躊躇いもなく扉を開けると、部屋で香が炊かれていたのか微かに白檀の匂いがした。
部屋の主が、真っ白な寝具に埋もれて安らかな寝息を立てているのを確認する。窓を少しだけ開けて浅く息を吐く。部屋の真ん中にあるソファに腰掛けた。
窓からの春風がレースのカーテンを微かに揺らした。中庭の薔薇の匂いが風に乗ってここまで運ばれてきたとき、掛け布団がもぞもぞと動いた。

「…名前?」

悟が控えめに声をかけると、布団はぴたりと動きを止めた。少しの時間静止したあと、いきなりがばりと起き上がる。

「さ、さ、悟だ!ねえ、ごめん、ほんと、ごめん!え、今何時?!」

シルクのパジャマが焦ってルームシューズを履いて、ソファに座る悟に飛び込んでくる。難なく受け止めた悟は、寝癖も絡まりもないさらさらの髪を優しく撫でた。

「おはよう、名前」





着替えて、髪は結って、薄く化粧を施した名前が、風に揺れるスカートの裾を押さえながら中庭のガーデンテーブルにティーセットを運んできた。二人は向かい合って座って、アールグレイの香りと庭に咲き乱れる薔薇の芳香、そして焼きたてのスコーンの香ばしい香りに頬を弛めた。

「どうぞ」
「ありがとう」

名前を待っている間、カフェで何杯もドリンクをお代わりして胃はたぷたぷとしていたけれど、名前の淹れる紅茶は格別だったので別腹だった。


「ごめんね、またデート寝坊しちゃって」
「名前のそれは仕方がないことだから、別にいいよ」
「でも悟、待ったよね」
「気にしないで」

しゅんとしてしまった名前の頭をぽんぽんと撫でる。ちゃんと綺麗に結われた髪を崩さないように気をつけて撫でている。そういう細かい女の子への気遣いができるのも五条悟という男であった。

「仕事は?順調?」
「うん、もちろん。寝坊して仕事もできてなかったら私の価値なくなっちゃう」

名前は優秀な呪術師だった。「最強」五条悟には勿論及ばないが、類まれなる呪力量を有し、適応範囲の広い一種の芻霊呪法を利用して多くの呪霊と呪詛師を葬ってきた。
その縛りのひとつが、常人を遥かに超える睡眠時間の確保だった。

「はは、寝坊したって仕事できなくたって、僕は名前が大好きだよ」
「もう」

頬を赤らめて、しかし満更でもなさそうな名前が愛おしそうに悟を見つめた。
そこに、使用人の一人が申し訳なさそうに近寄ってきて名前に耳打ちする。

「ごめんなさい、急なお仕事みたい」
「今すぐ?見ててもいい?」
「えぇ…別にいいけど」

お仕事の様子はあまり見られたくなかった。お上品じゃないから。でも、大好きな悟の頼みは断れない。

屋敷の一室、机に置かれた呪霊の肉片。それを赤子ほどの大きさの藁人形に埋め込んで、壁に立て掛けてあった金属製のハンマーを持ってくる。その白い細腕のどこにこんな仰々しいハンマーを持ち上げる力があるのかわからないが、慣れた様子でひょい、とハンマーを構えると、名前の腕ほどの太さがありそうな釘を躊躇いもなく人形に叩き込んだ。
ずどん。
屋敷が揺れたように感じたのはきっと気の所為ではない。
名前は呪術師の中でも珍しい、完全リモートワーク、在宅ワークの呪術師だった。強力で倒すことができなかった呪霊からなんとかこそげとった肉片や、呪詛師が残した手がかりなどが屋敷に運ばれてきて、そこに渾身の釘を打ち込む仕事。

仕事を終えて、力を失って倒れそうになった名前を悟が受け止めた。すやすやと寝息を立てはじめた名前を、愛おしいような、少し寂しいような曖昧な笑みで抱きかかえ、そのまま彼女の部屋のベッドに寝かせた。

可愛い可愛い僕の眠り姫。
白い頬に手を添えて、前髪をどかして優しく額に口付ける。

たくさん眠らなくては呪術が使えず、術式を使ったあとはそのまま眠ってしまう名前。そんな名前と、多忙な悟が会って話すことができる機会はほんの僅かだ。

次はいつ会えるかな。本当はもっとゆっくり話して、恋人らしいことだってしたいんだけれど。
高専に帰ろうと悟は踵を返した。

ながいながい君の夜


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