それは、はたして誰が言い出したのであったか。記憶は定かでないが、昔から春は出会いと別れの季節だ、とは良く言ったものである。しかし実際のところ春は、夏油に別れを持っては来たが出会いは連れて来なかった。正確には新入生と言う出会いもあったのだけど、三年にもなると下級生との関わりも減ってしまって、挨拶すらほぼ交わした覚えもない。

 二〇〇七年五月。気がつけば昨年初夏に下された星漿体護衛任務を失敗してから約一年が経とうとしている。五月は、呪術界の所謂繁忙期の始めにあたる。非術師の負の感情から生まれる呪霊は、例年人の精神が揺らぎ易いこの季節に大量発生するのだ。
 同級生である五条に少しばかり遅れる形で特級と言う最上等級を与えられた夏油もまた、繁忙期で忙しくしている呪術師の一人であった。本来ならば学生の本業である筈の勉学に励む時間はほぼない。反転術式を擁するもう一人の同級生、家入だけはちゃんと勉学に励めているようで、この間行われた抜き打ちテストでは、五条を抜いてトップに立っていた。そんな記憶を思い出しながら、目の前の呪霊を手持ちの呪霊で薙ぎ払う。尚も逃げようとする小賢しい頭に苛立ちが募り、つい腕が伸びてしまった。
 この一級呪霊が人と同じサイズの頭をしていて良かった。
 地面に全力で叩きつける。断末魔を上げて動かなくなった呪霊へ右手を翳せば、グロテスクな四肢は黒い靄のように変化し、最後は一つの球体へと姿を変える。黒色のそれを摘み上げ、大きく開いた口へ放り入れた。途端、味蕾が機能する。吐瀉物を処理した雑巾のような味。自分の力を理解した幼い頃より何度も口にした悍ましい呪霊の味だ。嘔吐きそうになるのを、口を片手で押さえる事でなんとか凌ぐ。口の中から呪霊の味は消えていないが飲み下す事には成功した。大きく呼吸をして顔を上へ上げる。身体に纏わりつくような温風でも少しは身体を冷やす事が出来た。

 二〇〇七年八月。その日は、珍しく同級生全員が高専内に揃っていた。茹だるような暑さの中、外へ行こうと二人を無理矢理中庭へ連れ出したのは五条だった。五条は、二人の正面に立つとそれぞれに消しゴムとペンを投げる。そして言うのだ。「これを思い切り俺へ投げてみろ」と。
 結果として無下限呪術を使い熟すに至った五条は、名実共に一人で最強になった。足元がぐらつく感覚がする。昨年自覚した目蓋の裏の塔に、またヒビが入った気がしていた。

「なあ、名前とは連絡取ってんのか?」
「……名前?」

 目蓋の裏にある塔の上には、自分が掲げ続けた理想が乗っかっている。今にも崩れ落ちそうな塔の上にあるそれは、誰も寄せ付けず不安に寂しそうにポツンと存在していた。そんな寂しさを、僅かでも忘れさせてくれる存在がいた筈だ。そうだ、目まぐるしい日々に忙殺されすっかり忘れかけていたが彼女は名前と言うのだった。
 隣を歩む五条は、この炎天下でも汗もかかず涼しげな顔をしている。対して夏油は、額に汗を滲ませて五条が口にした女性の名を復唱した。

「その様子だと、連絡取ってないな。何時から? まさか卒業式からとか言わないでくれよ」
「いや、その通りだよ。任務が忙しくてすっかり忘れていた」
「はあ!? あんだけ名前さん、名前さんって引っ付いてたくせに!?」
「失礼だな。人を犬みたいに」

 五条の言う事は八割方その通りである。
 一度名前を聞けば、嫌でも記憶を思い出す。名前の顔も、声も、全部思い出して、押し込んでいた感情が顔を覗かせるのが分かった。しかし、この敷地内に名前は居ない。高専から離れた一軒家で暮らしているのだ。そうそう会えるような距離でもない。
 ああ、クソ。こんな事ならば、その名前を聞きたくなかったな。
 顔には出さず胸の内で悪態を吐いた。制服のポケットに手を突っ込めば、カサと何かに指先が触れる。それが何かなんて一瞬で分かってしまって、すっかり忘れていたと言うわりに自分は存外未練がましいのだな、と自嘲した。



 たまに顔を合わせる五条が言うように、夏油は春から急激に痩せた。否、窶れたと言うのが正しい。元々骨格はしっかりしていたし、制服の生地が厚い事もあって悪目立ちするほどではなかったが、それでも体重は落ち続けている。
 睡眠の質が悪くなった。食事を取る事が億劫になった。特に出来合の物はダメだった。ならば自分で作るしかない。呪術師にとって身体は資本だ。優等生らしく頭ではちゃんと理解しているのに、身体は一切言う事を聞かないのだから何とも面倒だ。
 その日もまともな食事を取る事もなく、早々にシャワーを浴びた。その後は眠る気もしなかったので談話室へと向かった。後から灰原が顔を出した。夏油を慕う一学年下の後輩は、夏油が奢ってやったコーラで喉を潤しながら呪術師について語る。その姿が眩しかった。きっと、自分も一年前は同じように語っていた筈なのに。

「そう言えば苗字さん、お元気ですか?」
「え?」
「あれ? 夏油さん、苗字さんと親しかったですよね。今でも連絡取り合ってると思ったんですけど!」
「悟にも言われたよ、それ。残念ながら答えはNOだ。私も任務が忙しくてね、彼女を思い出す暇さえなかった」
「ええ、そうなんですか!? あんなに仲良かったのに」

 灰原からの言葉に、夏油は無言のまま苦笑を返した。

「でも僕、この間苗字さんを見たんですよね」
「任務先でかい?」
「いえ、高専敷地内です。夜遅くであまり顔は見えなかったですけど、なんか雰囲気が疲れていたような?」
「……そう」

 話題を変えるように、次いで灰原は次の任務の土産を聞いて来る。脳裏に浮かぶのは最強となった親友の顔で、彼に合わせて自分はあまり好まない甘い物を注文する。その時だった。突如として投げ込まれた第三者の声に重い視線を上げる。
 きっとここが、一種のターニングポイントだった。

 第三者、特級呪術師である九十九由基と会話した時間は三十分程度と少ない。ハーレーに跨って高専を後にした彼女を見送り終えた夏油は、重い足取りで寮へ戻った。
 呪術師、非術師、呪霊、マラソンレース、その事実から導き出された答え。九十九との会話の最中浮かんだ言葉に自分自身が一番驚いている。それでもなお崩れ落ちる寸前で留め、掲げ続けていた理想が、また一気にちゃちに思えた。
 現在時刻は二十二時を過ぎた。一応の決まりである消灯時間は過ぎて、よく問題を起こす五条もいない寮内は、すっかり静まり返っている。頭を始めとして身体は重いのに、眠れる気がまったくしない。額を親指で擦りながら一先ず自室を目指した。眠れないにしても横にはなりたかった。

「夏油君?」

 それなのに、その声が鼓膜を震わせた途端足が止まってしまった。恐る恐ると振り返る。どんな呪霊を見ても動揺する事のなかった心臓が強く脈打っていた。

「名前……?」

 ここは東京高専学生寮で現在時刻は二十二時。彼女は、今年の春にここを巣立ち、外で暮らしているはずだった。それなのに苗字名前は、確かにここにいた。大人びたパンツスーツ姿で、化粧を施した顔を心配そうに歪めて、まっすぐに夏油を見ていた。
 指先が震えて喉が渇く。目蓋の裏にある理想がほんの少し顔を上げた気がした。

20210604