透明なゆりかご



 目が覚めると辺りは夕暮れに包まれていた。どうやら玄関先で倒れ込むようにして眠っていたらしく、身体の節々が悲鳴を上げている。床に突き立てた両腕を頼りに上半身を起こし周囲を見渡した。目蓋が重くて上手く視界が開けないが、縁側から差し込む夕日の赤さだけは目に焼き付いた。男は居ない。私に用がある以上、あのまま出て行ったとは思えないので、きっと何処かにいる筈だ。

「おはよう。お目覚めは如何かな?」

 噂をすればなんとやらである。リビングに繋がる扉から姿を現した男の顔は、変わらず夏油君そのままで。それなのに笑い方が違うから気持ちが悪い。ギシギシと痛む四肢を無視するかたちで立ち上がる。男は壁に背を預けつつ腕を組み、そんな私を観察していた。

「もうすぐ十八時だし、そろそろ夕食を考えようか。そうだ、久々に外食でもする? 十年間ずっと君には自炊を強いていたのだし、お礼も兼ねて好きな店に連れて行ってあげるけど」
「……本気で言っているの」

 出来る事ならば、神経を逆撫でする言葉を繰り返す男の口を縫い付けてやりたかった。握りしめた拳には爪が喰い込んでいる。しかし、どんなに睨みつけたところで男の余裕が崩れる事はない。ふざけた仕草で肩を竦めた男は、ゆっくりと私の傍に歩み寄ると夏油君の大きな掌で私の頬へと触れた。ゾッとする。背筋に冷水を浴びせられたかのように全身が戦慄いた。

「けれど、ちゃんと栄養は取って貰わないと。君にはしてもらわなければいけない事があるからね」

 その言葉は、私自身の運命を悟らせるには充分な意味を含んでいたように思う。口の中はカラカラと乾いていて、視界は揺れて立っているのがやっとな程だ。心臓が大きく脈動を打ち、自身の危機を報せていた。

「夕食はもういいや。その様子じゃ君も食欲はないだろう。そうだな……少し早いけれど本題に移ろうか。ここではなんだし、とりあえずリビングに移動しない? 眠気覚ましにお茶を入れてあげる」

 いつの間にか回された手がそっと背中を押す。逃がす気は更々ないようで、私も逃げる気はまったくなかった。ただ、進む先にあるリビングがとても我が家のそれとは思えず、身震いが止められなかった。



「そうだなあ、順を追って話していこうか。まず、苗字名前、君、子供は好き?」

 テーブルを挟んだ向かい、何時も夏油君が座っていた位置に我が物顔で腰掛けた男は頬杖を突きながら人差し指と親指の間に小さな空間を作った。
 夕日は沈み、外は夜の帳に包まれた。電球の灯りに照らされたリビングでは、男の話し声だけが響いている。窓を閉め切り、外の世界と隔絶されたこの空間が、ひどく狭く思えた。膝の上で重ねた掌には汗が滲み、蟀谷がひくつくのが自分でも分かる。宣言通り男が淹れてくれたお茶には口をつけなかった。だから、まだ喉は乾いたままで「嫌いではないけれど」と返す声は掠れてしまっていた。

「だろうね。あの双子の少女達、あの子達を十年間育て続けたのだし返事は分かってはいたのだけど一応確認してみたんだ。しかし、本当に君、よくやったよね。十九歳から十年間、自分の一番大事な時を犠牲に彼と彼女達を支え続けて、恨み言の一つや二つあるんじゃない?」
「ないよ。ある筈ないでしょう」
「殊勝な事だね」

 男は、人差し指と親指で作っていた空間を閉ざすと、今度は節くれ立った指先でテーブルを叩いた。トン、トン、と規則正しく音を立てて目蓋を閉じる。

「うん。安心した。多少の難はこの際目を瞑ろう。彼、女を見る目は確かだったようだ。たまには良心で動いてみるものだね。うん、きっと上手くいく。君は、」

 トン、トン、トン、音は止まない。不規則ではない、規則正しく動く指先は、男の満足気な言葉とは裏腹に着々と私の中の不快感を積み重ねる。男が目蓋を開いた。一瞬私を射抜くように見て、次の瞬間にはにっこりと弧を描く。薄い唇が大きく開いたのが見えた。実に楽しそうに男は告げる。

「名前は、良い母親になるだろうね」

 感じた衝撃は動揺、困惑、恐怖、どの言葉でも表せない。針と糸がほしい。夏油君の身体に縫い目と言う傷をつけた男が使用したような強固な糸が良い。今、この場にあったなら私は急ぎ、その口を縫い合わせていた事だろう。ああ、けれど夏油君の肉体にこれ以上傷をつけるのは、やっぱり嫌だな、なんて――妙に冷静な自分がいる事実が、男の存在と同じように実に気持ちが悪かった。

「あれ、逃げ出さないんだ。君は察しが悪いわけじゃないし、理解した上で留まっている、と。利口な判断だね。もし逃げていたら足の一本でも折っているところだ」
「……」
「ああ、違うか。彼女達が家、とやらに帰り家族に会うまでの時間稼ぎかな? 既に数時間経過しているけれど無事会えたかどうか分からないものね。本当に弱いなあ、君。だから血の繋がりもない赤の他人に優しくいられるのかな」
「っ、違うっ」

 血の繋がりもない、その通りだ。私は、美々子と菜々子、夏油君誰とも血の繋がりもない。けれど赤の他人では決してない。男からすれば滑稽であろうと、この十年間過ごして来た時間は無ではないのだ。
 立ち上がった拍子にぶつかったテーブルが揺れ、お茶の入った湯飲みが倒れた。まったく減っていなかった中身がテーブルの脚を伝い、カーペットに染みを作る。男は、表情を消した。そして無関心にそれを見下ろし、ぞっとする程冷たい目で私を見上げた。

「座りなよ。まだ話は終わってない」

 きっと、ここで意地を張るのは得策ではない。たとえ弱くとも、それくらいは分かる。収まらない怒りを飲み込んでもう一度その場に腰を据えた。機嫌を損ねたかに思われたが、一連の私の反応に男は満足したようだった。頬杖をつき、小さく喉で笑う。

「気に障ったのなら謝ろう。けれどね、私は君の感情は重視していないんだよ。必要なのは君の身体、それだけだ。これから先、君の精神が死のうと狂おうと正直どうでもいい。まあ、健やかでいてくれるに越したことはないけれど、ね」

 男は不遜な態度を崩さない。言葉の通りなのだろう。必要なのは、私の身体であって他はまったく必要としていない。

「君も呪術師の端くれ。子供騙しは通用しないだろう。だから縛りを交わそう。私は、この肉体、呪霊操術のスペアがほしい。私が君に求める事はただ一つだ」

 そう言って男は、先程までテーブルを叩いていた人差し指を立てた。表情が歪む。およそ夏油君ではしないような醜悪な笑みを浮かべ、その指先を私の身体へと向かわせる。

「君には、この肉体の子を産んでもらいたい」

 君からの縛りは好きにしてもらって構わないよ、そう言って男の話は終わった。ようやく立ち上がった男は、私の背後へと回り込む。そして腕で私の身体を包み込み、腹部で両手を合わせた。

「どうせなら、この肉体が愛した女との子を成してやろうと思ってね」

 どう、私は優しいだろう?
 その言葉に返事をする事はしなかった。ただ、意識して呼吸を繰り返す。既に命運は決した。私に残された道は、数少なく、その内の一つを、私は既に選ぼうとしている。

「そうだ、今夜は十年前に贈った白の着物を着てよ。彼が渡したネックレスも着けて」

 ふと、棚に飾られた写真立てに目が留まった。美々子と菜々子が幼い頃に撮った振袖姿の物や、初めて制服を着たあの子達と撮った記念写真。小さな四角い箱の中、私は大人の顔をして幸せそうに笑っている。けれど、それすらもう遠い昔のように思えた。

『もう、いいんだよ』

 夢の中の声が脳裏に蘇る。穏やかな声が、恐怖に竦みそうになる心を安心させた。
 そうだね、夏油君。もう、いいんだよね。
 視線を下ろす。男の掌は、平べったい腹部を撫で続けている。私の心を殺すように揺れ続けるそれは、ひどく滑稽で、何より悲しく見えた。

20210515