幸せの終わらせ方をまだ知らない



 真夜中、午前三時くらい。寝返りを打った拍子に足が当たった壁が小さく声を上げたので目が覚めた。ぼやける視界に映り込んだのは黒い塊だ。大きくて、窮屈そうに長い足を丸めている。ああ、なんだ夏油君か。つい数秒前、眉根を寄せて小さく唸り声をあげていたのに既に夢の中へと旅立ったらしき彼にずり落ちていた掛布団をかけてやる。青色のシーツをかけた掛布団は私の物とは別に先日新しく買ったばかりで、まだ中の羽毛はふわふわとして暖かい。寒い季節には重宝する品物である。
 夏油君は、宣言通り週に二回程この家に帰って来る日を増やした。私が寝付く前に来ればいい方で、大抵はこうして真夜中にこの狭いシングルベッドに忍び込む。翌朝、真横にいる確率だって低い。ああ、来ていたんだな、とシーツの乱れで確認する朝を私は何度体験しただろうか。

「名前、見て! これ超可愛くない!?」
「可愛いけど少し派手じゃない?」
「そんな事ないし! 美々子も可愛いと思うでしょ?」
「私はこっちのワンピースの方が好き」
「ええー!? 美々子、黒ばっかじゃん!」

 週に二回ベッドに忍び込むのに加え、土日になると夏油君は、相変わらず美々子と菜々子を連れてこの家へ帰って来る。教祖としての仕事が忙しいのか、たまに二人だけ送ってひとり教団へ戻ったりもするけれど夕飯時には必ず顔を出した。
 夕食を取り終えて食器を洗っている間、美々子と菜々子は決まって私の両脇を固めた。どうせならお手伝いしてくれると嬉しいのだが、率先してはしてくれない。私が「食器、拭いてくれたら嬉しいなー?」と言うと仕方がないなあ、と唇を尖らせながら手伝ってくれるので良いとしよう。
 今日はメニューもあって洗い物も少なかったからお手伝いしてもらう必要がなかった。菜々子はスマートフォンを操作して、アパレルブランドの商品ページを私に見せては共感を求め、落ち着いた色を好む美々子に不満そうにする。来年には本来なら中学校に上がる年齢になるのだし、菜々子はもっとオシャレに目覚めるに違いない。

「なに? 菜々子は、この服が欲しいのかい?」
「夏油様! 買ってくれるの?」
「そうだなあ……明日の朝、早起きして名前のお手伝いをするなら買ってあげる」

 交換条件を出してはいるがやっぱり夏油君、この子達に甘いなあ。最後の一枚、皿についた泡を洗い落として蛇口を捻り閉じる。
 その間に、どうやら菜々子は交換条件をのんだようで、明日は朝からお手伝いしてくれる事になった。包丁を持たせるのは怖いし洗濯物でも干してもらおう。それを告げると菜々子だけでなく美々子までもが渋い顔をした。その後ろの夏油君なんて呆れたように目を細めている。

「名前、私に甘いとか言えないからね」
「なんでよ」
「過保護」
「ええ!?」

 夏油君に続くように菜々子が呟き、美々子が視線を逸らす。私へ白けた視線を投げていた夏油君が表情を一変させて美々子の顔を覗き込んだ。

「それで、美々子は何が欲しいの?」
「やっぱり夏油君の方が甘いじゃない!」



 あちらでは自分達だけで寝ていたという美々子と菜々子も、やはり寂しいのか、こちらへ帰って来ると以前のように揃って寝る事を望んだ。今日もまた何の疑いもなく四人分の布団を準備していると、背後から視線を感じて振り返る。座敷の障子横に、美々子と菜々子が互いの手を握り合って立っていた。

「どうしたの、二人とも。もう眠い?」
「違うし」
「えーならなに。アイス?」
「違う!」

 全力で否定する菜々子と、何時も抱き締めている人形に顔を埋める美々子に内心首を捻った。どうやらこの子達は私に何かを訴えたいらしい。何かと正直な菜々子が言い淀んでいるなんて珍しく、出来る事なら察してあげたいが、私の発言は悉く否定されてしまった。さて、どうしたものか。唯一、察しがつきそうな夏油君は今入浴中で頼れない。
 悩んでいると黙っていた美々子が意を決したように顔を上げた。ほんの少し頬が赤い。もしや熱があるのかと腰を上げようとして止まった。美々子が声を張ったからだ。

「今日から私達、名前の部屋で寝るから! いこう、菜々子」
「お、おやすみ!」

 混乱しながらもちゃんと「おやすみ」と口に出来た私を自分自身で褒めてやりたい気持ちに駆られる。座敷を出て廊下を覗けば、菜々子の手を引っ張って階段を駆け上がって行った成長期真っ只中の背中は既にそこにはない。ふと、振り向けば四つ並んだ布団が寂し気に敷かれていた。
 入浴を済ませリビングに顔を出した夏油君は、室内と廊下を挟んだ座敷を見渡して美々子と菜々子の所在を問う。そうだよね、まさか二人で寝に行ったなんて思わないよね。私もまだ混乱の最中で、ところどころ躓きながら状況を説明した。
 全てを話し終えると、示し合わせたわけでもなくその場から立ち上がった。足音を殺して二階へ上がる。私の部屋の扉は古く、音が鳴りやすいので慎重に小さく隙間を作らなければならない。

「寝てるね」
「うん」

 部屋の中は既に真っ暗で、シングルベッドの上の二つの膨らみは穏やかな呼吸に合わせて上下に動いている。屈み込んだ私と中腰の夏油君は互いの顔を見合わせて頷き合うと、来た時同様慎重に扉を閉めて一階へと戻った。
 階段を下り、二人揃ってリビングへ。そのままソファに座り込み、ほぼ同時に深い息を吐く。

「これが成長かぁ」
「だね」

 客観的に聞いて、私の声はもちろん夏油君の声も実年齢以上に老いて聞こえた。首を伸ばして天井を仰ぎ見る。リビングの真上は私の部屋で、あの子達はすっかり寝入って物音一つ立てやしない。入浴まではあれだけ騒がしかった我が家が一気に静まり返った感覚に、どうしようもない程私は参っているようだった。

「二人とも、もう十二歳だからね。いい加減自分達の時間を持ちたいのさ」

 片手で額を覆ってショックを受ける私を宥めるように夏油君がそう口にする。向こうの家であの子達は二人だけで寝ていると言うし、私と違って彼は既に心構えが出来ていたのかもしれない。

「分かってはいるんだけど……あの子達の事、まだ小さいって思い込んでたんだな、私」
「まあ、それだけじゃないと思うけどね」
「え?」
「こっちの話」

 夏油君は、膝で両手を組んでにっこりと笑う。これ以上話してくれるつもりはないのだと悟らせるには十分な笑顔から視線を逸らし、ソファの背凭れに深々と身体を預けた。
 考えてみれば当たり前の事だ。私や夏油君が歳を取った分だけあの子達も同じように成長するのだから。もう抱っこを求めて手を伸ばして来る事はないし、顔が濡れる事を怖がったりもしない。
 これから先、あの子達は一人で出来る事がもっともっと増えて行く。そして、何時かは自立してそれぞれの道を歩んで行くのだろう。

「あーなるほど」
「ん?」

 私はきっとこの生活が終わる事が寂しいのだ。
 七年前、夏油君が盤星教の母体を乗っ取ったあの日感じた厄介な母性は、確かに私の中に根付いているらしい。
 理解した途端、猛烈に自分が恥ずかしくなった。なんだ君、あの子達の母親にでもなったつもりか。
 額にあてていた手をそのまま下へと動かして口元を覆い隠す。どうかそうやって顔を覗き込んで来ないでほしい。強烈な羞恥に襲われる今の私に、何かと鋭い夏油君と顔を合わせる余裕はない。

「はは、顔真っ赤だよ」

 予想と違わぬ鋭い指摘に勢いよく顔を逸らした。片手では口元を覆い隠せても頬や目元は隠す事が出来なかったらしい。夏油君の視線が外れる気配はない。少しでもそちらへ視線を向けたが最後、確実に最後の砦さえも崩されてしまう。
 私は早々に逃げを打つ事にした。覗き込んで来る彼を振り払うように立ち上がり、一切視線をやる事もなくリビングの扉へと向かう。寝てしまおう。明日になればこの恥ずかしさも多少は薄れているはずだ。と、扉の取っ手に指を掛けて気が付いた。

「夏油君、どこで寝るの?」

 座敷に敷かれた布団は四組。私、美々子、菜々子、夏油君の順で用意されたそれらを今日使用するのは私と夏油君しかいない。間の布団は片付けるとして、問題はその後だ。

「私? 何時も通り座敷で寝るけど」
「じゃあ私はリビングで寝るね。布団持ってくるから夏油君も、もう寝なよ」
「何でリビング? 名前も座敷で寝ればいいだろう」
「……」

 そう言われる事は分かっていたのに何でもっと上手い言い回しが出来なかったのだ、私は。
 今の私には、リビングを出ていく事も振り向く事も許されていない。否、後者は赦されているだろうが、私個人の感情としてそうしたくなかった。
 口を噤んだまま指を掛けたままの取っ手を見ていた。何か言わなければならない。そう焦れば焦る程、状況を打破できる言葉は出て来なくなってしまう。

「今更恥ずかしがるか、普通」

 迷走している私に対して慈悲はない。更に強力な攻撃に襲われて、思わず肩をビクリと跳ね上げた。ソファのマットレスが軋む音がして、次いでフローリングを踏みしめる音がやけに大きくゆっくりと響く。
 夏油君は、私より頭一つ分以上大きいから背後で身を屈められるとすっぽりと覆われてしまいそうだと思う事が間々あった。実際そうなるのだとたった今知る。私の手を隠すように大きな掌で包んで、彼は私の身体をすっぽりと覆い隠した。

「何を考えているかは大体想像がつくけど駄目だよ。一緒に寝よう」
「今日はひとりで布団に閉じこもりたい気分」
「そこまで言うなら別にいいけどさ、美々子と菜々子が悲しむよ。私達が喧嘩したんじゃないかって、あの子達絶対に心配するけどいいの?」
「うっ」

 その美々子と菜々子の事が切っ掛けで猛烈な羞恥に襲われ、鋭い指摘を繰り返す夏油君と一緒にいるのが気まずくてひとりで寝ようとしているのにこれでは本末転倒も良いところである。
 昔から大人びていて後輩らしくない後輩だったが、年齢が伴って来たと言うべきか、ここ数年で更に大人になったように思う。最近では私のコントロールまで覚えてしまったようで、もはや口でも勝てる気がしない。
 包み込んだ私の手を、強弱をつけながら上から握りしめる彼は私の「はい」を待っていた。心の中の天秤がぐらぐらと揺れる。そして、美々子と菜々子の精神的安定の方へと大きく傾いた。完全なる敗北の瞬間である。

「それにね、確かにあの子達は大きくなったし、君ではもう抱き上げる事は難しいかもしれないけどこうしてハグはしてあげられるだろう。効果だって勿論分かっているよね?」

 胴回りに回された腕に力が籠り、心地いい程度の強さで締め付けられる。彼のいう家族になってから幾度となく体験したハグは、あれだけ拒否していたにも関わらず何時しか安心材料へと変わりつつあった。
 苦い胸の内を溜息と共に溢して逞しい腕を軽く叩くと、私の心境の変化を悟った夏油君が「じゃあ寝ようか」と満面の笑みを浮かべて顔を覗き込んで来る。その笑い方だけは、昔からあまり変わりがないのだな、なんて諦めにも似た気持ちで首を縦に振った。
 結局その日は一緒に布団に入ったし、朝はまんまと寝坊した。腹の上に乗る夏油君の腕を跳ね除けて起き上がった瞬間、目に入ったのは約束通りお手伝いをするために先に起きていた美々子と菜々子の顔である。二人は障子を薄く開き、その隙間からジッと起き抜けの私とまだ夢の中で漂っている夏油君を見ていた。大きな瞳はキラキラと輝き、心なしか二人の頬は赤く染まっている。過ぎった予感に気のせいであってくれと願いながら、駆けるようにして十二歳の二人の身体を抱き締めた。

20210318