「待ってる」



 そろそろ本格的に拠点を宗教団体の施設に移したいので一緒に行こう、そう誘われた時衝撃はまったくなかった。何時か必ずその日は来ると分かっていたからだ。
 十歳になった菜々子は、髪が伸びて年頃らしくオシャレに目覚めた。高専時代の夏油君のように後頭部でお団子に纏めた髪が可愛らしい。最近は自分一人で上手く結べるようになった。美々子は、黒髪のボブヘアーで菜々子に比べて大人しい性格をしているが優しくて良い子だ。最近では、夕食の手伝いまでしてくれるようになった。二人とも、本当に元気に、そして立派に成長してくれていると思う。例え、育てたのが特級呪詛師と高専所属の呪術師であろうと、彼女達は健やかに成長を続けていく。それが誇らしくも、何処か寂しくて、この複雑な心境は、あの日実感した母性と呼ばれるものなのかな、なんて考えたりもしていた。

「名前?」

 夏油君も二十二歳になった。恵まれていた体格はもっと立派に、元から長かった黒髪は更に伸びて、髪型は常にハーフアップになった。毛量も多いのでもう一つに纏めたりは出来ないのだ。彼が設立した宗教団体は、瞬く間に勢力を広げ、今では山のように非術師の信者を集める教祖様となった。次第に服装は和服が多くなって、あれほど違和感のあった彼の僧衣にも段々と慣れてしまった。
 二人は、当たり前のように私が頷くと思っているのだろう。勝手に荷造りの算段を立てている。箪笥からあれ以降一度も袖を通していない着物を取り出して来るのが見えた。せっかく奥に仕舞い込んでいたのにな、なんてどこか冷静な頭で考えながら、不思議そうな顔をして私の名前を呼ぶ夏油君に向き直る。

「私は行かないよ」

 美々子と菜々子が手に持っていた着物や帯を落とす音が響いた。夏油君は細い目を見開いて私の言葉を信じられないと言わんばかりの表情である。
 対して私は安堵していた。よかった、ちゃんと言えた。

「三人の事は私も大好きだよ。この縁を切るつもりもない。でも私はこの家から離れる気はないから。だから、」

 ここから先は三人で行ってね、と。
 これは、五年前に既に決めていた事だった。夏油君にとっての幸せの形、家族と言うそれを受け入れた時には既にこの答えを出していた。
 目に涙を溜めながら怒り出して私の肩を叩く菜々子と、その傍で不安そうにキョロキョロと私と夏油君を見比べる美々子。正面の夏油君は立てた膝で頬杖をつきながら仕方ない、と言いたげに苦笑した。了承の意だった。
 三人は、翌日には家を出た。最後まで菜々子は怒っていて声を掛けても振り向いてくれず、美々子は不安そうに私の袖を引いた。「たまに顔を見せに来てね」その手を優しく引き剥がして声をかけると美々子は見る見る内に綺麗な黒目に涙を溢れさせ、一度強く私の身体にしがみ付いた。抱き返す事はせず背中を撫でるに留まっていると、部下だと言う男性の運転する黒塗りの車に先に乗り込んだ夏油君が促すように優しく美々子を呼ぶ。涙を拭って後部座席に乗り込んだ美々子を目の端を赤くさせた菜々子が慰めている様子が見えた。その光景に胸を撫で下ろした。大丈夫、私がいなくてもこの子達は互いを支え合えるし何より夏油君がずっと傍にいる。この子達は、これかもすくすくと成長してくれる筈だ。

「じゃあね、名前」
「うん。身体に気をつけてね」

 最後に、助手席の窓から顔を出した夏油君がそっと私の手を取った。言葉を交わす間だけ指先を握り締め、どちらからともなく手を離す。
 走り去る車を見送り、家へ戻った。こんなにもシンと静まり返った家を見るのは、五年振りだろうか。毎日騒がしかったせいで思い出しもしなかったが、家ってこんなに広かったんだな。
 サンダルを脱いでそのまま廊下に寝そべる。冷たいフローリングの感触にそっと目蓋を閉じた。夕食は、簡単に済ませよう。そして今日からはまたベッドで寝よう。寝心地が変わって逆に寝付けないかもしれないなぁ、なんて。



「名前、おやつ!」
「ホットケーキがいい」

 おかしい。何故こんなにも我が家が騒がしいんだ。
 台所で所望されたホットケーキを黙々と焼きながら内心首を傾げる。フライ返しで裏返すと綺麗な焼き色が見えた。左右から覗き込む菜々子と美々子が歓声を上げる。可愛い。沢山食べなさい。じゃなくて、何で君たちはこの家に居るのか。

「あれ? 名前、コップの場所変えた?」
「あー、食器棚の左側に移動したの」
「ああ、あった。紅茶にする? それともコーヒー?」
「紅茶の気分かなぁー」

 ケトルでお湯を沸かし、着々と準備を進める夏油君も何故この家に居る。しかも当たり前のように仕舞い込んだ食器を元の位置に戻さないでほしい。一週間前、私がどんな思いで片付けたと思っているんだ。
 そう、夏油君が美々子や菜々子と共に家を出て今日で一週間が経過した。始めこそ夕飯を多く作ってしまったり、洗濯洗剤の量を間違えたり、一人で寂しく子供向けのテレビ番組を見たりなどしていたが、段々と一人に慣れて昔の生活を取り戻しつつあった矢先、彼らは「ただいま」と当然のようにこの家に現れた。
 焼き上がった三段重ねのホットケーキを美味しそうに食べてくれる美々子と菜々子は、冷凍庫にあった某高級アイスを見つけアレンジを始めている。ああ、それ私がお風呂上りに食べようと思っていたのに。心の中で泣きながら自分用の皆より少し焦げたホットケーキを口に運ぶ。横から同情するようにそっとミルクティーを差し出された。

「で、なんで家にいるの?」
「週末だし。帰省だよ」
「あっちが家になったのでは?」
「そうだけど実家はここ」
「はあ?」
「名前その顔やめな。皺がつくよ」

 混乱する私を置いて、優雅にストレートティーを飲む新興宗教団体の教祖様は「実家」ともう一度同じ単語を口にした。なお服装は僧衣ではないが黒の着物姿である。紅茶よりも緑茶が似合いそうな落ち着いた服装だ。
 そんな私達の会話を聞いているのかいないのか、アイス乗せのホットケーキをぺろりと完食した二人は、意気揚々とリビングを出た。きっと庭に出たのだろう。去年、日差し避けに植えた苗木の調子が気になったに違いない。
 納得はしていないが理解はした。もう反論する気も起きず、釈然としないまま空になった食器を手に立ち上がる。多分、今日はこのまま泊まるのだろうから夕食の準備と布団や着替えの用意もしなければならない。食器を洗い終えたら買い物に行こう。そう決めてスポンジに洗剤を垂らすと背後から二本の逞しい腕が私の腹部へと回された。

「ビッ……クリしたぁ」
「そんなに怯えなくてもいいだろ。取って食ったりしないよ」
「いや、そんな心配はしてないけど」

 夏油君が家族としてハグを求めるのは今日が初めてではない。この五年間幾度となく行われたハグに、今更怯えるも何もないが突然背後から抱きすくめられれば誰だって驚く。
 とりあえずそのまま放っておく事にして洗い物を再開させる私の肩に顎を乗せた夏油君は、楽しそうに鼻歌を口ずさむ。学生時代流行った洋楽である。

「夏油君、そう言えば洋楽好きだったね」
「え、歌ってた? やだな、もう忘れたと思っていたのに」
「毎日着物着て説法説いてるのにね」
「教祖様なんて張りぼてでしかないからね。実際、着物も堅苦しくてあまり好きじゃないし」

 意外だ。私服にまでしているから気に入ってるのかと思っていた。

「秘書が「何処で信者に会うか分からないからそれらしくしていて下さい」ってさ」
「はあー、秘書までいるんだ。すごいね教祖様」
「ふふ、これでも忙しいんだよ私。もう少し労わってくれてもいいんじゃない?」
「美々子や菜々子がいるでしょう」
「確かにあの子達も癒しには違いないな」

 最後の皿についた泡を流し終えると同時に腹部に回された腕は離れた。玄関が騒がしくなったから美々子と菜々子が戻って来たのだろう。
 予想通りリビングへ駆け込んで来た二人は、少し苗木が大きくなっていたと興奮した様子で語った。それに「そう、すごいね」なんて相槌を打っている夏油君の柔らかい声を聞きながら濡れた手をタオルで拭く。二人は元気が有り余っているようだし買い物について来てもらおうと決めた。
 そろそろ寒くなって来たので夕食はお鍋に決めた。渋々ながら買い物について来た二人とスーパーのレジ袋を手に人通りの少ない道を歩む。二人は見覚えのないスカートを履いていた。この一週間の間に夏油君に買ってもらったのだろう。彼は、二人にとても甘いから、おねだりされるまま何でも買い与える姿が簡単に浮かんだ。
 家に帰ると夏油君は黒のスウェットに着替えていた。髪もハーフアップでなく、緩く一つに纏めた状態になっていてリビングの炬燵の中で文庫本片手にだらけ切っていた。実家、と言うのはあながち間違いではないらしい。私は彼の母親になったつもりはないのだが。

「名前、一緒に寝よう」
「お布団座敷に運んだ」
「ええ、二人とも今は夏油君とも寝てないんでしょう?」

 夕飯のお鍋も〆の雑炊までしっかり完食して、入浴も終えれば後は各自の自由時間。アイスは既に昼間に食べられてしまったので冷たいお茶で喉を潤しながら、袖を引く二人を見下ろす。
 片付けの最中に夏油君から家を出てから二人が自分達だけで寝るようになったと聞かされていた。成長したんだなぁ、と感動を覚えていただけに二人の提案が意外でならなかった。しかも布団は既に座敷へ運んでいると言う。拒否権は端からなく、二人は私の腕を引っ張って座敷へ連れ込んでしまった。

「あれ、夏油君は?」
「夏油様は二階」
「今日は女子会」

 女子会なんて言葉いつ覚えたんだろう。スカートと同じくいつの間にか買い与えられていたスマホから得た知識だろうか。
 並んだ布団は二組。その上で正座した二人は畏まった様子で私を見上げる。つられて正座した私はその眼差しに圧されて少しだけ仰け反った。

「名前、一緒に行こう」
「私達、今日は説得しようって決めてたの」

 ああ、なるほど。それでわざわざ大好きな夏油君と別室を選んだのか。
 今回の二人の説得に夏油君は関わっていない。こうして緊張した面持ちで見上げているのが何よりの証拠だ。

「行かないよ」
「なんで!?」
「この家を出る気はないんだってば」

 それでも私の回答は変わらない。菜々子は身を乗り出して眉をつり上げた。美々子も腕に抱き締めた人形の向こう側から懇願するような眼差しを送っている。
 さて、どうしたものかと思案する。この子達に一番甘いのは確実に夏油君だが、私だってこの子達には甘い自覚があった。伊達に五年間も世話をして来ていない。特にこうやって寂しそうな眼差しでお願いされると折角の決心も揺らぎそうになってしまう。

「向こうには他にも家族がいるし何より夏油君がいるでしょう?」

 もし仮にこの子達が、私がいない事を寂しいと感じてくれているのなら不謹慎だが嬉しいと思う。二人の中で確かに私は特別の枠組みにいるのだと実感出来るためだ。そんな打算的な思考をしているとは知らず、二人は互いの顔を見合わせると、同時に眉をハの字に下げた。
 美々子が私の袖を引いて腕にしがみ付いて来る。一週間前、家を出た時と同じだ。今回は菜々子もそれに続いた。美々子より躊躇して、やがて意を決したように力一杯私の腹部に腕を回す。ちょうど膝枕をする形となり、流石にこれには私も驚いてしまった。菜々子はこんなあからさまに甘えて来る子だっただろうか。

「寂しくない」
「でも名前がいないのはやだ」

 夏油君のものとは違う細い腕だけど、力一杯抱き締められると多少は苦しい。空いた方の手で菜々子の長い髪を撫でてみた。振り払われる事はなく、彼女はスンと鼻を鳴らす。

「ありがとね、二人とも」

 二人は幼いながらに、それでも私の答えが変わらない事を悟ったのだろう。何度かの応酬の後、やがて何も言わなくなった。二人に挟みこまれる形で布団に転がる。両脇に抱えた二人は、大きくなった手で私のパジャマを掴んで離さなかった。

「今回、帰って来たのはね、二人が言い出したんだよ」

 翌朝、帰り支度を始めた二人の背を眺めつつ夏油君はぽつりと本当の事を教えてくれた。来た時と同じ黒の着物に袖を通した彼は、横目で私の表情を盗み見る。そっと着物の袖を引いてみた。当然のように彼の片手が私の手を捉える。

「寂しくなった?」
「少しだけね」

 一緒に来るかい、と問い掛ける声には首を横に振った。夏油君はそれ以上を口にはしない。私の意志を尊重してくれている。

「また帰って来るよ」
「うん」

 待ってる。

20210228