そして世界は産声を上げる



20201111


 頭の中がふわふわとしている。最早考える力もなくて、ただ自らの腹を撫でた。

 彼の誕生日を聞いた時、私は心底驚いた。まるで人間でないようなこの人にも、普通の人のように生まれた日が存在するのかと。
 多分驚いた表情をする私が面白かったのだろう。珍しく屈託もなく笑った彼は、傷だらけの細い指先を青白い唇に添えて「失礼な人ですね」なんて呟く。咄嗟に謝罪を口にして視線を逸らした。そうか、誕生日。今年は既に過ぎているから祝えるとしたら来年だけど、この人何なら喜ぶのだろう。思考する私の髪に、細い指先が伸びた。顔に掛かった髪を耳に掛けて呉れる。

「貴女は馬鹿ではあるけれど真に愚かではない。そんな処をぼくは気に入っているのです。だからこそ選んだ」

 白い顔が近づく。長い睫毛を伏せるように瞳が弧を描いた。

「忘れないで下さいね」

 唇が触れ合いそうな程、互いの呼吸が聞こえるそんな距離。其の時の彼の声色と響きを、よく覚えている。

 そんな彼は、如何やら日本で死んだらしい。否、正確には遺体も上がっておらず、行方不明だそうだがもう二度と会う事はないだろうと確信していた。だから、死んだ。そう思う事にした。
 彼と共に日本へ往き、作戦の最中異能特務課に捕らえられたと云う侍従長――ゴンチャロフは、たった独りこの露西亜の地へ帰って来た。相変わらず頭に白い包帯を巻き、にこにこと歪み切った幸福そうな笑みを浮かべて、私の前に突然現れた。

「貴女様の世話をするようにと主様から申し付かっておりますので」

 そうは云うが、当の主様は二度と戻っては来ないだろう。正直云って態々私の身の回りの世話を続ける意味はない。何度も伝えた。けれど侍従長は「主様の命ですので」と云って訊かないのだ。
当初、広くもないこの部屋での共同生活は窮屈で仕方がなかった。とは云え、時間が経てば人は順応するものである。元より私の行動スペースは狭い。侍従長は、食事や部屋の掃除、細々した雑務を熟す以外は何処かへ消えてしまうので格段気にならなかったと云うのもある。約半年。長いようで短い月日を私は何の不自由もなく過ごしていた。

「主様は、貴女様の事を大切にしていらっしゃいました」
「はあ……ただの腐れ縁だったと思っていました」
「何を仰います。無関心な相手を傍に置き続けるような愚かな真似を主様がなさるとでも?」
「……ゴンチャロフさん、最近よく話しますね」
「失敬。話し相手もおらず、名前さんが寂しそうに思えたもので」

 其れなのに最近は、少し変だ。半年間、何も変わらなかった毎日が少しずつ変化しているように思えてならない。仮令ば、侍従長の私に対する対応。以前までは文字通り世話をするのみで会話らしい会話もなかった。其れなのに今はどうだ。こうして彼の思い出話のような会話をするのは今日が初めてではない。侍従長は事あるごとに、私に彼の話をしたがった。朝の挨拶をする時、紅茶を淹れて呉れる時、夕食の最後。繰り返していれば嫌でも思い出す。彼、フョードル・ドストエフスキーがどんな男であったのかを。
 人とは順応する生き物だ。けれど順応する為には相応の時間を要する。ドストエフスキーと初めて会ったのは二年前になる。何という事はない。裏社会では珍しくない出会い方だ。肉と血に塗れた地面の上に唯一立っていた彼が、気紛れで私を生かした。ただ、其れだけだ。其の筈だった。

「矢張り貴女は主様が認めたお方だ」

 そんな筈があるものか。彼のあれそれは凡て気紛れによるものだと信じて、行方不明だと云う彼を死んだ者として扱っている私の何処を彼が認めたと云うのか。
 不幸を感じる事のないよう頭の中を弄られた侍従長に何を云っても無駄だと判っていた。口に出したい文句を紅茶と共に飲み込み、さっさとリビングを出た。もう寝よう。明日はまたいつも通りの日になる筈だ。

 其れなのに現実は着々と変化を見せる。先ず、突然胸やお腹が張るようになった。腰痛や頭痛に悩むようになり、体の気怠さが常よりも非道くなった。体調の変化に伴い体温も上がりベッドで過ごす日が増えた。そして、ある日月経が止まった。
 こんな私でもれっきとした成人女性だ。疑うべきものは判っている。けれど頭は否定している。先ず、私は其のような行為を誰とも行っていない。この腹に命が宿るなどあっていい筈がない。思考が混濁する。目の前がぐるぐると回転して、あまりの気持ち悪さに両手で口元を押さえた。
 侍従長は何時もの笑みを浮かべて私を見下ろしている。答えを告げられているようだった。

 非道い悪阻を抜けると腹が膨らみ出した。季節は二つ程巡り、秋を越え、つらい冬が迫りつつある。気温が下がり、外は雪がチラついていた。私は変わらずこの狭い室内で過ごしている。侍従長は一層幸せそうに笑っている。今にも鼻歌を歌い出しそうで、そんな姿を目にしている私の気は滅入る一方だった。
 窓辺に置かれたウッドチェアに座り、窓の外を眺めていると睡魔が襲い掛かる。すると侍従長が毛布を掛けて呉れた。頭の中がふわふわとしている。最早考える力もなくて、ただ自らの腹を撫でた。そして、意識は遠のいた。
 明晰夢、そう呼ばれるものがある。自分で夢であると自覚し乍ら見る夢の事だ。今、私が見ているものは其れに近い。

「楽しい?」
「ええ、とても」

 窓辺に置かれたウッドチェア。前後にゆっくりと揺れる私の大きな腹に白い頬を押し付けた彼が鼻歌を歌っている。子供の頃聴いた子守唄だった。母がよく歌って呉れていたから覚えている。なんだ、彼にも母親が歌って呉れた子供時代があったのか。寂しい人だと思っていたから少し安心した。

「楽しみです、とても。もう直ぐ、もう直ぐですから」
「なんで態々私の中に宿ったりしたの」
「どうせ人生をやり直すなら貴女から生まれてみたかった」
「私、育てられるかな」
「大丈夫ですよ。貴女は愚かではないから」

 腹に押し付けていた頬を離した彼は、其の場に膝をついたまま私の頬へ指を滑らせた。至近距離に青白い顔が迫る。うっそりと微笑んで、そっとキスをした。

「ちゃんとぼくを育ててくださいね」

 そう云って熱は去る。フョードル・ドストエフスキーは消えた。私の前には見慣れた景色だけが広がる。夢は其処で終わった。


 一面の銀世界の広がる寒い冬の日、私の腹から一人の子供が生まれた。紫色掛かった黒髪に紫水晶のような美しい瞳を持った男の子の赤ん坊だった。無事生を受けたこの子を見るや否や、侍従長は神への感謝を叫び泣いて喜んだ。其の様子が少し怖かったので、抱かせるのは辞めにした。
 移動したせいで腕の中の赤ん坊が小さく泣き声を上げる。自然とあるフレーズが浮かんだ。私の口から発せられるのは、何時だったか聴いた子守唄だ。窓の外が見えるウッドチェアで前後に揺れ乍ら、そっと白い額に口づけを落とした。
 今日は十一月十一日。彼の誕生日だ。