うろんな愛だった



夢主嘔吐表現有



「君の気持ちは判る気がするよ」

 吐き出した汚物で口を汚し乍ら肩で息をしていた。口の中が気持ち悪くて、次々に溢れる涙が頬をぐちゃぐちゃに濡らして、屹度私の顔は直視出来ない程に汚い。其れなのに彼は、私の背中を優しく撫でて笑う。奇抜な格好に不釣り合いな、悲しい笑みに何故か非道く心を奪われた。春も間近の冬の夜。血で汚れた道の上、私は人生で初めての恋と云うものをしたのだ。

 両親は居なかった。本当は居たのだろうけど、物心ついた頃には孤児院で生活していたから彼らの顔すら覚えてはいない。父と呼べるのは、孤児院を運営する神父様で、母は聖母マリアであった。神父様は、神職に相応しく聡明で心優しい方で子供達を皆平等に愛して下さっていた。寒い夜に与えて下さったホットミルクの味を今でもよく覚えている。
 決して裕福ではないけれど幸せな生活は、私が十八の誕生日を迎える前に終わりを告げた。先ず、神父様が死んだ。その後を追うように弟や妹達も。皆血を噴き出して、其れなのに安らかな表情をして天の国へと旅立ってしまった。彼らを埋葬した後、唯一生き残った私を引き取ったのは、長身痩躯の死神のような風体をした露西亜人であった。

「貴女には、この潜窟で雑用を担当して貰います。後の事は侍従長の指示に従いなさい」

 主様、フョードル・ドストエフスキーとは其れ以来会っていない。彼の云う通り、私に仕事を与えたのは薄っすらとした笑みを絶やす事のない侍従長であり、潜窟と呼ばれた古い屋敷が唯一の私の居場所となった。
 ニコライ・ゴーゴリと云う青年と出会ったのは、潜窟に来て半年が経った頃だった。奉仕として孤児院にマジックを見せに来ていた道化師を思い出させる風貌の彼は、この潜窟に不釣り合いな程明るく笑った。如何やら主様のご友人のようで、その友人が引き取ったと云う孤児に興味があったらしい。独特な笑い声や大きな声に始めは驚き、苦手意識を持っていたが時間が経てば慣れるものである。何時しか潜窟の中でニコライ・ゴーゴリを見かけても身構える事はなくなった。

「貴女にこの者の始末をお願いしようと思います」

 侍従長は微笑みを絶やす事なく私に小型拳銃を差し出した。呆然とする私の手の上に乗せられた其れはずっしりと重たい。目の前には既に虫の息の男性が転がっている。濁った眼が立ち竦む私を見上げ、乾ききった唇は恐怖に震えているようだった。やめてほしい。そんな目で見ないでほしい。震えたいのは此方の方だ。
 縋るように見上げた侍従長は矢張り微笑みを絶やさない。其れ処か、背中を押して事を急かす始末だ。拳銃を持つ手が震えていた。侍従長の命令に従うようにと主様に命じられている私は、この命令を拒む事は出来ない。けれど、若しこのまま拳銃の引き金を引いたらこの男性は如何なってしまうのだろう。

「い、いやです」
「何故? これは主様の命令です。拒めばどうなるか判っているでしょう?」
「それでも……私には出来ません……」

 侍従長は呆れたように溜息を零して部屋を出て行ってしまった。鍵が掛けられる。命令を遂行しない限り、この部屋から出られなくなってしまった。
 コツコツコツ、革靴が冷たい床を叩く音が響き、私と男性の荒い息遣いが室内に響き渡る。時間を掛けてはいられない。若しこの事が主様に知れれば、私は殺されてしまうからだ。迷っている時間は既になかった。涙を耐えて男性の前に立つ。震える拳の中、嫌な音を立てる拳銃の引き金に指を掛ける

「はい、これで終わり」

 銃声が響く事はなかった。室内に不釣り合いな明るい声と共に空間から伸びた腕が消音装置のついた小型拳銃を握りしめていた。男性の頭から血が流れて、岩の床に染み渡って行くのが見える。ぐるぐるぐるぐる。世界が回転する感覚がしてもう立っていられなくなった。其の場に膝をつき、込み上げて来る物を両手で塞ぐ。重なったのだ。事切れた男性が、孤児院の神父様や子供達に。あの時の悲しみや怒り、様々な感情がまた溢れ出そうとしていた。

「凡て吐き出せば善い」

 背中に温かい掌が触れて、優しく摩られる。ニコライ・ゴーゴリらしくない神妙な表情をして、彼は、吐き出した其れを見ても嫌悪する事なく私の背を摩り続けた。

「もう直ぐ侍従長が様子を見に来る筈だから、自分がやったと云うんだ。この事は絶対に黙っているんだよ。いいね」
「うん……」

 落ち着いて来ると、ゴーゴリはぽつりぽつりと語り出した。人を殺す事に対する感情の揺れ、苦しさについて。噛み締めるように、反吐を吐くように、先程の私のように吐き出して、其れから汗ばんだ私の額を軽く撫でて空間に消えた。
 彼の言葉通り直ぐにやって来た侍従長は「上出来です」と微笑んで、ホットミルクを淹れて呉れた。悲しくなる程美味しかった。

 ニコライ・ゴーゴリは時折顔を見せに来て呉れるようになった。主様への用事のついでではあったけれど、彼との会話で安らぎを得ていた。私は、あの日を境にこの青年に恋をしているようだった。告げる事等一生出来やしない感情を抑え込みつつ、彼の話に相槌を打つ。名前の国の事を教えてよ。この前、街で善い喫茶処を見つけたんだ。ドス君から許可が貰えたら今度連れて行ってあげよう。新しいマジックを思いついたんだけど見て呉れないかな。ハハハーハハ、名前の驚いた顔は最高だね。恥ずかしくて嬉しくて、ずっとこの時間が続けば善いと願っていた。

「今度日本へ往く事になりました。名前さん、ゴーゴリさんと仲が宜しいようですね。ならばお別れを云っておきなさい。計画上、彼は日本で死ぬ事になっていますから」

 何時だって幸せな日々は突然終わりを告げるのだ。久々に会った主様は、侍従長の淹れて呉れた紅茶を傾けている。世間話を済ませた彼は、幸薄な笑みを浮かべて私に退室を促した。
 主様の部屋を出た私の脚は、一直線に玄関へと向かっていた。この潜窟に来て初めて、自分の意志で外に出た。今日は彼がこの潜窟を訪れる日だった。僅かに雪の残る道を必死の思いで直走る。麓の街が見えて来た頃、突然目の前の空間が歪んだ。
 空間の歪みから突如現れた道化師は、私が居る事に非道く驚いているようだった。金色の目を大きく見開いて帽子を押さえた彼は、不思議そうに私の名前を呼んだ。

「しぬ、ん、ですか」
「ん?」
「主様から訊きました……日本で、死ぬ気なんですか……?」

 これだけ単刀直入に訊かれたのだ。もっと驚いても、怒っても善い筈だ。けれど彼は、穏やかな表情をして「そうだよ」と事も無げに頷いた。
 其の返答に私は堪らなくなった。今回込み上げて来たものは、怒りと涙だ。この数年間耐えて来たものを凡て吐き出すように叫んで、目の前の体に縋り付く。彼は、拒否したりしなかった。小さく体を震わせたけれど、直ぐに背中に腕が回る。上下に揺れる掌は、あの時と変わらない。私が恋した優しい温もりが其処にあった。

「なんで、いやです、しなないでください」

 貴方に恋をしているのだと、云ってしまえば彼は困るだろうか。自分にそんな心算はなかったのだと冷たくあしらうだろうか。今迄、様々な予想を立てて来た。けれど現実は、どれも違っていた。彼は、私の告白に悲しそうな表情をして微笑んだ。肩に手を置かれ、引き剥がされたから表情がよく見える。

「こうなる気はしていたんだ」

 彼は、苦しそうに呟いて顔を俯かせた。肩に置かれた両手が、彼らしくもなく震えている。絞り出すような声が木々の間で木霊して、泣いてボンヤリとする私の頭の中で響いていた。

「私は鳥に憧れる。感情は檻だ。縛り付けるものは凡て嫌いだ。私は、自由になりたいんだ」

 彼は、そっと私の肩から手を離し、仮面を取った。金色の双眼を真正面から見据えるのは、これが初めてだ。宝石のように澄んだ瞳に薄っすらと涙の膜が見えていた。「名前」彼が呼ぶ。

「恋愛感情なんてものは束縛にしか過ぎないんだ。僕が最も忌み嫌うものを君は、僕に求めているんだね。嗚呼、こんなに動揺しているのは初めてだ」

 あの日、拳銃を握りしめ震える私を助けたのは唯の気まぐれであったのだと彼は告げた。震える私があまりにも哀れで弱々しくて、一度くらいならば善いだろうと魔が差したのだと。決して其処に好意的な感情は存在しなかった。其れを訊いても私は驚いたりはしなかった。道化師とは本来気まぐれな生き物だ。マジックと同じ。私の思惑通りに動いて呉れたりなんてしない。
 感情を吐露する姿は自棄に幼く映った。私よりも年上の男性なのに可笑しな話だ。涙はいつの間にか引っ込んでしまっていて、代わりに伸ばした両手は背の高い彼の頭に回された。銀色の柔らかな髪を引き寄せる。頬に中てて熱い息を吐き出す。今度は彼の両手が、縋るように私の汚れた衣服を握りしめた。

「嗚呼、嫌だよ名前」

 二人して地面に座り込んで、こんな光景主様や侍従長に見られでもしたら殺されてしまうかもしれない。一瞬死の恐怖が顔を覗かせる。けれど其れでも善かった。若し今この場で殺されるのなら本望とすら思えた。現実に引き戻すように腕の中の彼が、私の腕に爪を立てる。鋭い痛みに喉が鳴った。思わず下を見る。彼もまた私を見上げていた。

「其れなのに君の愛に報いたいと思ってしまう僕は如何したらいい?」

 手袋に包まれた指先が拳銃を握りしめているのが見えた。銃口が私の心臓の上に押し付けられる。引き金を持つ指先はあの日の私のように震えていた。
 屹度彼は私を殺すだろう。今でなくともそう遠くない未来、引き金を引く事になる。彼が自由を求める限り、愛情を求める私も、其の感情に報いたいと云う彼自身の感情も唯の異物に過ぎないのだ。

「凡て吐き出して下さい。苦しみも、悲しみも、凡て私を吐け口に使えば善い」

 回していた手を離し、引き金に掛かった指先に手を添えると拳銃は音を立てて彼の手から離れ落ちた。私の頬に掌を滑らせ、眉を寄せて苦しそうに彼は笑う。

「其の言葉は、僕には綺麗すぎるよ」