幸せになれると思ったかい



幼少期捏造


 モスクワの住宅街。ありふれた交差点を抜けた先の小さな教会。寒い日、雪の降り頻る中、初めて会った其の少年の顔を、私は今でも鮮明に思い出す事が出来る。
 そっくりの容姿をした美しい母親に手を引かれ、毎週欠かさずお祈りに訪れた少年は何でもこの街のお医者様の息子さんなのだそう。慥かにお医者様の息子らしく利発そうな表情をしている。敬虔なクリスチャンである私の両親は、同じく敬虔なクリスチャンであるドストエフスキーさん一家とも親しかった。毎週教会で会い、偶に体調を崩してはお世話になっていたのだから当たり前か。故に、私とドストエフスキーさんとこの一人息子が仲良くなるのもまた必然であった。とは云え、お互いの両親に背中を押される形で作った友人関係だったのだけど、其れでも私達の仲は上手く行っていた。

「フェージャは将来お父様の跡を継ぐの?」
「どうだろ……あまりその気はありませんね……」
「えー他にやりたい事があるの?」
「まあ、一応」

 フョードル・ドストエフスキー、愛称フェージャは儚い外見のイメージを其の儘に、とても体の弱い少年だった。二人一緒に寄宿学校に入ってからも、体が丈夫になる事はなく、医務室の硬いベッドが彼の定位置となるまでに時間は掛からなかった。だからフェージャには、友人があまり居らず、必然的に彼に授業の内容を報せるのは幼馴染である私の役目となっていた。ただ、一度、一度だけ。私の友人の女生徒がフェージャの類稀なる美しい容姿に惹かれ、一緒について来た事がある。その時、フェージャは貧血を起こし、ベッドに寝転んでいて、白いカーテンから顔を覗かせたのが私でないと知るや否や、非道い剣幕で彼女を追い出してしまった。あの時の一連の騒動は教員のみならず、学生皆に知られる事となり、今となってはこの白く狭い空間を訪れる生徒は私一人となってしまった。

 ベッドに転がって、苦しそうにシャツの鈕を外すフェージャは歴とした男性なのに、矢張り何処か女性的にも見えた。彼の少しだけ長い艶々とした黒髪や、真っ白い肌と細い手足、其れに母親譲りの美しい顔があったからかもしれない。これでもう少し体が強くて、私以外にも愛想よくすれば嘸かし楽しい人生が送れるだろうに、実に勿体ない幼馴染である。

「ねえ名前、学校を出たら結婚しよう」
「は? なに云ってるのフェージャ。フェージャも私も大学へ進学するのよ。それに、私達別に恋仲でも……」
「いいから。うんって云って」

 そんなか弱く美しいフェージャは、偶にこうして強くなる。紫水晶を嵌め込んだような瞳が強い意志を持って私を見据える。頷かずには居られない、支配者の瞳だ。だから私は頷いた。此処で、彼に逆らってはいけないと、頭の中の警報がけたたましく鳴いていた為だった。

 寄宿学校を出た十八歳の年。私とフェージャは人知れず結婚式を挙げた。近所のよく通った教会で、神父様も参列者も、ウェディングドレスさえもない。名ばかりの簡単な結婚式だった。勿論其れは親に知られる事もなく、ただ相変わらず仲の良い幼馴染だと認識されていたように思う。暇があれば二人で過ごしたし、フェージャは其の優秀過ぎる知能で得た、私の知らない知識を沢山教えて呉れた。本当に楽しかった。指輪もない、籍を入れた訳でもない、御飯事のような夫婦だったけれど未だ十代の私には充分過ぎる幸せだった。

 けれど――

「フェージャが居ない?」

 フェージャは突然姿を消してしまった。ある日、朝起きると家に居なかったのだそうで、其の儘数日帰って来ていない、らしい。可笑しい。冷や汗がドッと流れて背筋を冷たくする。
 ドストエフスキーさんご夫婦は、体の弱い愛息子の失踪に非道く狼狽していて、私の両親は二人を宥めるのに必死になっている。警察も来た。フェージャの写真を手渡され、慌ただしく家を後にする。其の光景を、私は映画を見ているような気持ちで見つめていた。だって私は判っているから。フェージャの居場所を。だって昨日も、其の前の日も、私はフェージャと共に過ごしている。

 慌ただしかった其の日の晩、何時ものように小さな教会の裏口でフェージャは私を待っていた。黒い外套に両手を入れて、幸せそうに微笑んで、近寄る私を抱き寄せる。何でもないような、何時もの仕草に背筋が粟立った。可笑しい。フェージャは、可笑しい。今更になって気が付いた。

「名前。行きましょう」
「行くって、何処へ」
「ぼくらのお家にです。もう此処に用はない。ぼくらの邪魔をする物は凡て片付けて来ました」

 咄嗟に私は二本の腕でフェージャの胸板を押した。薄っぺらい体がよろめいて、数歩の距離が出来る。空から白い雪が降って来た。まるで初めて会った日のようだ。

「貴女の両親も、ぼくの両親も、お互い知りもしない別の相手との婚姻を考えていた……ぼくらを引き合わせて、ずっと一緒に居させた癖に随分と非道い所業だ」

 フェージャの声は、地面に積もる雪よりも遥かに重く、紫水晶の瞳は射殺さんばかりに私を見据えていた。逃げ出したいのに脚は動かなかった。だって予感していたのだ。若し今、背を向けたらフェージャは迷いなく私の背中に銀色のナイフを突き立てる。フェージャは、ナイフの使い方がとても上手いのだ。

「以前訊きましたよね。ぼくはね、父の跡を継いで医師になる気なんて毛頭ない。欲しい物は凡て手に入れます。この罪に塗れた汚らしい世界を浄化する為の組織、其れを創るのがぼくの夢でした」

 準備は整ったと彼は云う。真っ白な穢れを知らない雪を踏みつけ乍ら私へ歩み寄って、私の空っぽな右手を取る。

「後は貴女だけです。貴女がぼくの隣に立てば凡てが完成する。だから一緒に行きましょう。だって妻は夫に寄り添うものでしょう?」

 フェージャが袖から出したのは銀色の指輪だった。高価な宝石等ついてはいない、シンプルなデザインの其れは、やけに禍々しく見えて喉の奥で音が鳴る。フェージャは絶対気付いているのに知らないフリをする。私の右手薬指に指輪を嵌めて、同じように指輪を嵌めた右手で指先を絡めてしまう。繋がれてしまった。





 そんな昔を思い出す私の前には、何重にもレースをあしらった小さな揺籠があって、温かな部屋には穏やかなクラシック音楽が流れている。ふわふわの清楚なデザインのドレスワンピースを着た私が揺籠を優しく揺らして、其の中身を見下ろしている。自分の事なのに他人事だ。

「よく眠っていますね」
「うん、先刻寝たばかりだから起こさないでね」
「残念です……ぼくだってもっと世話がしたいのに……」

 私の背後に立った黒い影が私ごと揺籠を包み込むように長身を折った。白さを通り越した青白い指先が揺籠の中身の柔らかな白に触れる。愛おしい宝物に触れるような手付きに発狂しそうな私がいた。

「あ、でもこの子が寝ていると云う事は、今はぼくが名前を独り占め出来ますね」
「ええ、何でそうなるのよ」
「まあまあ。さあさあ、早くベッドへ行きましょう。この数日間ずっと我慢していたのです。この子が起きる迄は相手をして下さい」

 黒い影は私の夫で、私は黒い影の妻だ。見えない血で汚れた指輪のついた手を引かれ、揺籠から離れて大きな天幕つきのベッドに引き倒される。影が近づく。黒い肩程の長い髪の隙間から支配者の瞳が見える。美しい顔に、病弱な体。黒々とした隈のついた目元を心底幸せそうに細めたフェージャが、自ら与え、着せた私の服を乱雑に乱す。これも他人事だ。仮令全身に蛇のような指先が這って、熱い舌が触れて、熱の塊に体を揺さぶられようと、凡て壁の向こうの世界。嘗て二人で過ごした真っ白な狭い空間に、もう私は居ない。これは私自身が体験している事ではない。

「ね、ぼくの云う通りにして正解だったでしょう?」

 だって、そう思わないと私は自分の喉を掻っ切ってしまいそうだ。