防腐液に溺れる



澁澤妹夢主→←澁澤


 澁澤龍彦には妹がいた。何故過去形なのかと云えば当人が過去の事と割り切っている為だ。澁澤龍彦のような白い髪に紅色の瞳など持ってはいない、純日本人らしい容姿をした少女は、興味深く観察する紫色の瞳を睥睨するように云う。

「私に兄の話はしないで下さい」

 彼女がこんなだからドストエフスキーは、笑みを崩す事が出来ない。この会話も何度目か判ったものではなく、此処でふふっと笑い声を溢すのも毎度の事だ。

「何故? 貴女のお兄さん、澁澤龍彦さんは大切な妹君である名前さんに会いたがっていますよ」
「あれはもう兄ではありません。判っているのに意地の悪い方ね」
「如何して? お兄さんの異能は愛せない、とそう云う事ですか?」

 随分と薄情な噺だ。そう云って肩を竦ませてみれば少女の白い肌に紅が差す。兄妹二人の容姿は似てはいないが肌の色だけは似ていると思った。屹度二人を血縁として繋げる唯一の存在、彼等の父親に似たのだろう。
 澁澤龍彦と澁澤名前は所謂腹違いの兄妹だ。本妻は龍彦の母。名前の母は妾である。そんな二人が何故こうも仲の善い兄妹に育ったのか、その理由は超人的頭脳を持つドストエフスキーでも掴めない。多分、本気を出せば掴めるのだが、何故だかやる気が起きなかったので、少女を預かって数年が経った今でも謎のままだ。

「貴方が私達の何を知っているのです」
「ええ、知りませんし今後も知ろうとは思いません。ただ、そうですね……これは余興です。ぼく余興が好きでして」
「……貴方、性格悪いって云われるでしょ」
「友人達は皆、ぼくの事を理解してくれていますよ」

 ただ、判る事は妹は兄を愛していたし、兄もまた妹を憎からず思っていたと云う事だ。そうでもなければ、少女は今も包みを大切に持ってはいないだろうし、青年も定期的に連絡を寄越したりなどしない。貴女達は御伽噺のような世界で生きているのですね。心の中で呟くと、それに合わせるように少女は膝の上の包みをギュッと腕に抱いた。ドストエフスキーは、その様子が少し気に喰わなかったので、椅子から立ち上がると背後に回りスッポリと少女の体を自身で覆う事にした。
 ビクリと少女の細い体が震えて、その振動に頬が緩む。回した両腕で、片方は少女の顎を、片方は少女の包みを抱く手を捕らえる。そうすると、少女は、成す術なくドストエフスキーを意識する。そうせざるを得ないように躾られている。

「以前からお訊きしたかったのですが、貴女お兄さんと肌を重ねた事は?」
「……知ってる、くせに」
「はい、知っています。他ならぬぼくが貴女の処女を散らしましたから。だから先刻云ったでしょう? これは余興だと。偶には付き合って下さいな」

 この場で絡み合う二人共、肌の色は白かったけれど、ドストエフスキーの白は病的な迄に青白く、少女の白は白紙のそれだったから少し違う。
 少女の手から包みが離れる。机の上に置かれた其れに、口付け合い乍ら指を伸ばす。そして、荒れた指先で白い包みの結び目を解いた。

「集中して」

 其れに気付いた少女が非難の声を上げる気配を察知して、声になる前に唇で押し留める。冷たい肌からは想像出来ない熱い舌で口内を蹂躙する内に、少女の顔はすっかり女の其れになった。はあはあ、ん、ぁ、はぁ。呼吸の合間、お互いの口から喘ぎに似た吐息が溢れる。女の目は、とろんと溶けて、もう記憶に棲まう紅色に注がれてはいない。ドストエフスキーは、この触れ合いが愉しくて仕方がなかった。肉体的な快楽は二の次。少女が女になって、あれだけ愛し縋っていた兄の影を忘れ、自分が触れる度甘い吐息を溢す様は、非道く哀れで美しかった。
 女の指先が求めるように伸びて、ドストエフスキーの黒髪を梳く。兄の物とは違う、サラサラとした細い髪を大切そうに指先に絡める。顔を近づけた。額同士を擦り合わせると女の濡れた唇が目に止まったので、舌先で舐め上げる。そんな些細な触れ合いにも吐息を漏らすのだから、もうすっかり出来上がっている。

「ねえ、若しお兄さんが、澁澤さんが貴女を抱いていたら如何なっていたでしょうね?」
「……少なくとも兄はもっと無機質に私を抱くと思います。貴女のように吐息を溢したりなんて致しません」

 慥かに想像はつかない。

「あ、若しかしてぼくの声を聞くの嫌でした?」
「いいえ。女よりも美しい顔をして女のように艶めいた声を出すのに、体は確りと男の其れをされている……嫌いじゃありません。寧ろ好きです、貴女の声。もっと沢山聞いていたい」

 ああ、ああ……女の言葉に背筋が粟立つのが判った。屹度澁澤龍彦もこんな思いをしたのではないか。天性の人誑し。そんな素質を持つ少女に甘い言葉を掛けられて、すっかり妹を大切にするようになってしまったのではないだろうか。
 優秀過ぎる頭脳が知りたくもなかった結論を弾き出す。少しだけ興醒めしたような思いと、熱に突き動かされる体がミスマッチだ。女の体を両手で掻き抱いて、常に物腰丁寧なドストエフスキーにしては荒っぽい手付きで衣服を乱している最中、ふと視線を机へ向ける。二つの紅色がホルマリンの海で揺蕩い、乱れ、一つになる男女を観ていた。無機質で、凡てを睥睨するような瞳。それなのに其処には慥かな嫉妬があるように見えて、これがまたとても面白い。

「若し、ん、ぼくが……ぼくが先に死んだら、ぼくの瞳も、保管して下さいますか……?」

 衣服は乱れ切り、濡れた肌の凹凸が重なろうとする間際の問い掛けに女はうっそりとほくそ笑む。ドストエフスキーの双眼を縁取る長い睫毛を擽るように指先を伸ばし、濡れそぼった唇が勿体付けるように動く。

「私、紫色に興味はないの」