汝、子等を愛せよ



 何かあった訳でもない。至って普通の一日だ。朝、目覚ましで起きて顔を洗い、トーストを齧り、化粧をして、スーツを纏い、満員の電車に揺られ、終業までデスクワーク。大きな仕事があった訳でもない。上司から叱られてもいなければ、最近出来たばかりの部下がミスをした訳でもない。ランチは別部署の同期と共にして、他愛のない話で盛り上がったし、なんなら今度以前から気になっていた喫茶処に出掛ける約束まで取り付けた。それなのに、何故だろう。どうしようもなく疲れてしまった。
 今日は華金。これから飲みに行かないかと云う同僚の誘いを尤もらしい理由で断り、スーパーで買った食材の詰まった白のビニール袋を揺らし乍ら帰路につく。ああ、買い出しをしたのはいいものの最早夕食を作る事すら面倒臭くなってきた。もうコンビニかお惣菜屋にでも寄って弁当でも買おうか。マンション近くの公園を通りかかり、私は足を止める。コンビニやお惣菜屋へ戻ろうとしたのではない。それどころか夕食の事など一瞬で何処かへ消え去った。そのくらいの衝撃の中に私は居た。

 名のある画家が芸術への道を志したのは、こんな光景を見てからではないだろうか。仮令ば、ありふれた公園の、春先にはありふれた桜の木の下、真っ白い肌を持った異国の少年がボンヤリとした顔をして立っている。こんな、こんな、光景を見たから筆を取ったのではないだろうか。
 とは云え、私に画家の素質はなく、キャンバスも持っていなければ筆も絵具だって持ってはいない。ただ、どうしようもなく、其れこそ突如として湧いて来たあの疲れすら忘れる程の焦燥感に駆られて、私は芸術品の一部である少年の手を取った。小さくて白い、冷たい、ふにふにとした幼い手に触れてしまった。少年は、キョトンと私を見上げる。人形のように長い黒色の睫毛がふわりと揺れて、小さな唇がにんまりと笑みを作る。紫水晶のような瞳に見つめられて、異様に喉が渇いた。ああ、そうだ。早く家へ帰らないと。熱に浮かされたような覚束ない脚取りで、公園を出る。少年は、笑みを崩さぬまま私の後について来た。





 肩ほどの長さの艶々とした黒髪と、紫水晶の瞳。青白い迄の肌を持つ美しい異国の少年。異質な存在が、私の家に居る。玄関扉に鍵を掛けた途端、正気に戻った。過呼吸を起こして斃れてしまうのではないかと不安になる程の動揺。スーパーの袋を落とし、其の場に座り込んだ私の前に立つ少年は、少しだけ驚いた顔をした。距離にして僅か10センチ。たった其れだけの距離を空けて、少年が囁く。突然知らない女に拉致されたのに。知らない家に閉じ込められたのに。なんて事ない顔をして、可愛らしく微笑んだ。

「Федя」
「え……?」
「Федя」
「ふぇー、じゃ?」
「да」

 自分の胸を指先でトントンと叩き乍ら頷く。多分今の「だ」は「はい」って意味だ。

「貴方の名前?」
「?」
「えっと、貴方、貴方ね……フェージャ?」
「! да」

 少年を指差して復唱する私の首に、細っそりとした腕が回される。ギュッとしがみ付かれて、咄嗟に腕を背中へ回してしまった。本日二度目の失態だ。一度目は勿論少年を此処へ連れて来てしまった事である。回してしまった腕を解こうにも、そうするとフェージャはイヤイヤと首を横に振って抱っこをせがむ。言葉は判らないけれど、力を緩めると癇癪を起こしたように何かを叫ぶので多分そう。
 途端に非道い眩暈がして、早く眠ってしまいたかった。だから私は思考する事を放棄した。何の迷いもなく一瞬で、あれ程の動揺を忘れてしまった。しがみ付いたフェージャを抱き上げてベッドへ運び一緒に転がる。フェージャはまた、少し驚いた顔をしたけれど、直ぐに微笑んで私の腕の中に自分から収まった。億劫に釦を解いた胸元に、幼く吐息が触れる。先程迄は芸術品の一部だった筈なのに、この子は私の腕の中で慥かに息をしていた。

 驚く事に其れから数日が経ってしまった。フェージャは未だに家に居る。部屋の隅っこだったり、台所だったり、ベッドの上だったり、窓辺だったり、色んな所に座って何をするでもなしに私を見ている。
 どうやらフェージャは露西亜人らしい。ネットで「フェージャ」と検索を掛けてみたら判った。フェージャはフョードルの愛称。露西亜人の男性名で、意味は神の贈物。慥かに神様が大事に大事に作り上げたような容姿をして居る。納得の名前だった。嘸かしご両親は美男美女に違いない。そう考えて、また私は怖くなった。屹度フェージャのご両親は、この美しい少年を捜している。私がした事は立派な犯罪だ。小児誘拐の容疑で逮捕されても可笑しくない。地元の両親は泣くだろうし、会社にも迷惑を掛ける。気が付けば、私の手は携帯端末を持っていた。かけるべき番号は知っている。常識だ。悪い事をした人は、軍警に罰せられる。子供でも知っている。

「だーめ」

 其れなのにフェージャは、私の指を止めてしまうのだ。覚えたての日本語で私を止めて、端末を後ろ手に隠してしまう。

「フェージャ、返して」
「Я не хочу」
「なに? お願い、ちょうだい」
「やー」

 再三お願いしたって訊いてくれないフェージャは、首を横に振って寝室へと隠れてしまった。何時もこう。私が正気に戻ると、其れを止める。そして私が諦めた頃、漸く顔を出してにっこりと愛らしく微笑むのだ。
 フェージャは、とても利発な子供で日本語を覚えるのも早かった。テレビとネット、私との会話。様々な方法で知識を蒐集し、実践に移した。一週間も経てば簡単な日本語なら話せるようになり、私の事も名前で呼ぶようになった。今日も、仕事から帰った私を待っていたフェージャは、台所で夕飯の支度をする私の後ろに立ってニコニコと笑っている。フェージャは、同い年の子供に比べてとても細いから、私はなるべく栄養のある物を食べさせようと料理のレパートリーを広めた。私の端末の閲覧履歴は子供向けの栄養のあるレシピばかりである。フェージャは、容姿の印象通りとても食が細い。残さないよう頑張ってくれているのは伝わるから、無理させる事はしないし、残った分は明日のお弁当にする心算だ。

「ねー」
「なに? どうしたの?」
「ん」
「ああ、髪ね。はいはい」

 お風呂から上がったフェージャは、自分で髪を拭くのが得意ではなかった。毎回ポタポタと水滴を垂らしてリビングへ戻って来るものだから、見兼ねて一度世話をして以降、毎回タオルを持って来るようになってしまった。促す迄もなく私の膝に座ったフェージャの髪にタオルを掛けて、先ずは水分を拭き取る。この時少し荒くするとフェージャはちょっと楽しそうに笑い声を上げる。だからこれがお約束になってしまって、今日も「おりゃ」と忙しなく指を動かすと、彼はきゃっきゃと弾むような笑い声を上げて肩を揺らした。

「フェージャは髪が綺麗だねー」
「?」
「綺麗。フェージャは美しいねって」
「……」
「あ、ちょっと嫌そうな顔した」

 まあ、男の子だし綺麗とか美しいって云われるのも嫌か。でも髪も顔も本当に美しいと思う。幼稚園で白雪姫の演劇があったら性別の垣根を超えて主役に抜擢されそうだ。大人になれば嘸モテる事だろう。勿論そんな事を云えば、意味は判らなくとも雰囲気で伝わって機嫌を損ねてしまうので口にはしない。
 ドライヤーを終え、髪を櫛で梳いて肩を軽く叩く。終わりの合図だ。今日のフェージャは膝から退けようとしなかった。其れどころか体を反転させて、私の胸に顔を寄せて目蓋まで閉じる始末である。

「眠いの?」
「да」
「ならベッドに行かないと。私、まだ片付けあるから先行ってなよ」

 促すように背中を撫でれば、ぐずるように鼻を鳴らして額を擦り付ける。しがみ付く力も強くなって絶対に離れないと云う強い意志を感じた。こうなったら最後、フェージャは手子でも動かない。これ迄の経験則が私に諦めろと告げていた。
 溜息をついて、しがみ付くフェージャを抱き上げたまま立ち上がる。片付けは明日やればいいしお風呂にも朝から入ろう。私が諦めた事を悟ったフェージャが嬉しそうに笑ったので、軽く頬を突いておいた。この子は、大人しく見えて意外と我を通す子供なのである。

 フェージャが家に居るようになってからと云うもの、私は今迄以上に会社が嫌になった。案件が片付いて上司から褒められたって嬉しくない。以前素敵だなと思っていた男性を同僚が紹介してくれると云うのも断ってしまった。どうしようもなく疲れる。体が泥のように重くって、周りの話し声が凡て雑音に感じてしまう。私は屹度可笑しくなったのだ。ああ、でもフェージャを連れ帰ったあの時から既に歯車は狂っていたのだろうけど。

「ねえ、フェージャ」
「?」
「私が、」
「……」
「あー……ずっと、ずっとね。一緒に、二人でいたいって云ったらどうする?」

 歯車が更に軋む。回路が壊れて、ピン。変わりに点と点が線で結ばれる。同時にフェージャの白すぎる頬に赤色が差す。多分、花が咲いたような微笑みとはこの事を云うのだろう。矢張りこの子は芸術品のようだ。抑えようのない喜びを前面に押し出して、フェージャはボンヤリと考える私の手を握った。そして何度も何度も頷く。其れが嬉しくて、申し訳なくて、私は少しだけ泣いた。フェージャは笑顔のまま私の涙を指先で拭った。年齢にそぐわぬ大人な仕草だった。
 翌日、私は急いで認めた退職届を提出した。上司や同僚、部下は必死に引き留めてくれたけれど気持ちはもう固まりきっていたから、決して首を縦には振らなかった。夜遅く、引継ぎを終え、大学を出て数年世話になっていた会社を出ると体が一気に軽くなった。凡てから解放された気がして、疲れた体ですら心地いい。
 大丈夫、貯金はある。一先ずこの街を出よう。貯金が尽きる前に次の仕事を探せばいい。大丈夫。私にはあの子がいる。

 家の電気は消えていた。リビングを通り、寝室の扉をそっと開くと、小さな体がベッドの上で丸まっていた。云いようのない幸福感に頬が緩む。ベッドの傍へ寄ってフェージャを見下ろせば、愛らしい寝顔が視界に映る。小さな唇は薄く開いていて健やかな寝息が静寂に響いていた。
 可愛い、好き、好き。美しい、私の大切な少年。最早何も恐ろしくはなかった。私は列記とした犯罪者になった訳だけど、其れでも構わない。追われるのなら逃げればいいだけの話だ。そう、何処までだって、仮令地の果てだとしても、フェージャは必ずついて来てくれる。
 頬を撫でると、フェージャの長い睫毛が震えて潤んだ紫水晶が白い目蓋の下から覗いた。起こしちゃった、ごめんね。そう云おうとしたのに言葉にはならない。フェージャが小さな手を伸ばして私の首に指を這わせたからだ。

「Будь моей женой」

 私には露西亜語は理解出来ない。けれど、フェージャは微笑んでいたから、屹度嬉しい言葉を云ってくれたのだと思う。だから次の行動も拒否したりしなかった。フェージャは背伸びして私へ顔を近づかせ、目蓋を伏せた。長い睫毛が至近距離で揺れて、唇の端に柔らかい感触が触れる。数秒間触れて、離れた先で、フェージャはうっとりとした目をして私の手を自分の頬へ中てた。時計の針の音がやけに大きく響いていた。





 翌朝、目が覚めるとフェージャはベッドに居なかった。慌てて飛び起きてリビングを見る。其処にあの美しい少年はいない。ギュウギュウに抱きついて寝ていたくせに、風のようにすんなりと抜け出してしまうなんてそんな莫迦な。ベッドから立ち上がるとリビングと玄関の間の扉が開いている事に気がついた。心臓がドクンドクンと、嫌な音を立てて軋んでいる。開けては、いけない気がした。其れでも私は、フェージャの姿を捜して取手に指を掛けてしまった。ガチャ、中途半端に開いていた扉を更に大きく開く。

「あ……」

 玄関は開いていた。其処に居たのは男の人が二人。一人は水色の長い髪をした長身の男性。もう一人は、艶やかな黒髪をした男性。私の視界に収まるのは後ろ姿だけど、此の儘振り返ってほしくないと、思った。
 そうだ、扉を閉めればいい。これは夢だ。ベッドへ戻って眠れば屹度フェージャが居る。あの、可愛くて美しい少年が私の胸で寝ている筈なのに。其れなのに、黒髪の男性は振り返ってしまった。

「ああ、起きたのですね。おはよう名前。ぼくの大切な人」

 艶やかな黒髪と白すぎる肌に紫水晶の瞳。でも違う、絶対に違う。この人は私のフェージャじゃない。だってフェージャはこんなに大きくない。私よりずっと身長が高くて、大人の骨格なんてしていない。然し、私の直感が告げていた。

「よかった。子供のふりをするのはそろそろ限界だったのです。これでも結構恥ずかしかったのですよ?」

 死人のような容貌の男性は、近づけば近づく程フェージャに酷似していた。目の下には黒々とした隈があるけれど、其の顔立ちは芸術品のように美しい。点と点が、またピンと繋がってしまった。脚が崩れ、フローリングに座り込んだ私の首にもう小さくはない指先が這う。

「偶にはいいかと興味で異能に掛かってみたのですが、ぼくを拾ってくれたのが貴女でよかった。ふふ、ありがとう名前。ぼくを大切にしてくれて、愛してくれて、感謝しています。安心して下さい。これからはぼくが貴女を愛して差し上げます」

 男性が、フェージャが身を屈めて私の唇をそっと塞いだ。柔らかくて、冷たい感触は、昨晩唇の端に触れたものと同じで、胸に強く突き刺さる。

「ずっと一緒です。二人でいましょう。だって、」

 約束しましたものね?



補足
「Федя」フェージャ(フョードルの愛称)
「да」はい
「Я не хочу」嫌です
「Будь моей женой」ぼくの妻になって下さい