少しの温もりだけが残るのです



殺人・死ネタ、色々と注意


 フョードル・ドストエフスキーと云う男がいた。彼は、私の主であり、この長いようで短い人生で一番愛した人であり、一番憎悪した人であった。

 かの男は、非道く美しい人であった。紫色の掛かった黒髪は正に鴉の濡れ羽のようで、紫水晶を嵌め込んだような瞳はなんとも蠱惑的で見る者を惑わすようであった。常に青白い男の眼の下には、黒々とした隈があったけれど、其れが男の幸薄な雰囲気を更に香り立たせていた。腕利きの技巧師が精巧に創り上げた最高傑作。男が眼を細めて此方を見れば天にも登らん気持ちになったものだ。
 かの男は、悪癖を持つひとであった。虚弱な貧血体質なのだと自身で宣告する程に男は痩せ細り、其の指は骨と皮のみで形成され、女の私のものよりも随分と細っそりとしていた。男は、思案する時等によく指先を噛んだ。爪は常に深く削れ、歪な形をしており、雪よりも白い指先には不釣り合いな赤い血液が付着していた。血色の悪い薄い唇にほんのりと赤色が着いている姿は、男の容貌と相成って化粧をした何処ぞの令嬢のようであったが、男は其れを指摘されると直ぐに舐め取ってしまうので残念に思った。
 かの男は、愛情深い男であった。常に神の意志に忠実で、世界中人類凡てを心から愛していたひとであった。故に一使用人である私の事も気に掛け、よく話掛けて呉れた。男の声は、露西亜人にしては小さかったけれど、よく通る美しいものだった。芸術品のような男は、声さえも美しいのだと私は非道く感嘆した。男は、他愛のない話を私に振った。今日は、天気が善いので偶には購い物にでもいって来たら善い。今日紅茶についていたジャムは、貴女が作ったものでしょう。とても美味しかったです、有り難う。そうだ、今日取引相手から宝石を頂いたのですが、ぼくには必要ないので貴女に差し上げましょう。ああ、矢張り似合いますね。男の声は、まるで白い布に黒いインクが染み込むように私の頭の中にも濃い染みを残した。男から貰った指輪を、私はとても大切に思い、常に左手薬指につけ続けた。

 却説、かの男と私の関係が主と使用人でなくなったのは、或る夜の事であった。其の日は、非道く寒くて私は侍従長の命令に従い、男の部屋の暖炉に火を灯している最中であった。男は、ベッドに投げ出していた真白い脚をベルベットの床に下ろすと、音もなく私の背後に詰め寄った。そして、気が付かない私に嗤って、そっと細い腕を伸ばしたのだ。

「可愛い、可愛い名前さん」

 男の声は、玩具を貰った子供のように弾んでいたのに、私の身体を締め付ける腕は何処までも男の其れだった。私は、非道く驚いて、薪を入れる事も忘れ、暫し呼吸さえも忘れた。男は、そんな私の反応さえ面白いようで、クスクスと笑い声を溢し乍ら、そっと私の首を自身の方向へと曲げた。至近距離に男の絶望的とも云える美貌が迫る。押しつけられた其れは、想像していた以上に冷たく、矢張り男は人形ではないかと、私は男の生命を疑った。
 男は、始終愉しそうに嗤って私の身体を暴いた。暖炉の火は途中燃え尽きて、冷え込んだ部屋で絨毯に背中を預けたまま、冷えた男の痩身にしがみ付いた。この時、私は初めて男の顔が笑み以外で歪むのを目撃した。ぜえぜえ、と悲しくなるような醜い呼吸音を鳴らす私の喉に鼻先を埋めた男は、凡てが終わると、肩に掛かったままだった白いシャツに腕を通し、ふと私の左手に眼を留めた。そして私の薬指にスリスリと自身の指先を絡ませた。

「お莫迦さんですね。此処では指輪は、右手薬指につけるのですよ」

 そんな事、私だって知っていた。街へ出れば眼に入る幸せそうな男女は、右手薬指に揃いの指輪をつけていた。故に私は、敢えて右手薬指につける事はしなかった。遠い母国と同じ、左手薬指につける事で男への情愛を抑え込もうとしていたのである。男も、勿論其れを判っていたから意地悪くも指輪の位置を訂正させたのだ。

 かの男は、此方が悲しくなる程に愛情に飢えたひとであった。あの寒い夜を通り過ぎてから、男は、私を自身専属の使用人として傍に置くようになった。侍従長は文句の一つも云わず、幸福そうな笑顔で私を見送り、晴れて私は男の部屋の住人となった。男は偶に雑用を命じる以外は、何も云わなかった。ただ、寒い夜だけは私をベッドへ引き摺り込んで大して美しくもないこの身を暴いた。今夜は特に冷えるから、貴女の体温で暖めて下さい。なんて、異星人たる男にしては、何とも陳腐な誘い文句だった。男は、私と触れ合う時今にも泣き出しそうな程、幸せそうに美貌を崩した。甘え、甘やかす。子供のように、ただ身を寄せ合う事も、呼吸を奪い合うような口付けも、凡てが愛おしいのだと男は云った。
 そうして人類凡てを愛する男が、私を特に愛するようになって数ヶ月が経った頃、この時を待っていたかのように月経が止まった。意味するものは教育を受けた者凡てが判る。例に漏れず、理解した私は歓喜した。愛した男の分身とも云える存在が自身の中で息をしている事実は、仮令ようのない程に私に歓びを齎らした。私は、其の晩、男に報告をした。男は、屹度驚いた後、何時ものように泣き出しそうな笑みを見せて呉れるだろうとドキドキし乍ら告げた。然し、男は予想と反した反応を見せた。

「ああ、名前……なんという事でしょう……」

 男は、涙こそ見せなかったものの、声を震わせ、長い睫毛を苦し気に伏せていた。そして、驚く私の肩を乱雑に押すと、ベッドシーツに転がった私の身体に乗り、腹の辺りを震える手で撫で乍ら云った。

「こんな事になるのなら、あの時貴女の子宮を取り除いておけばよかった……貴女の身体に傷を付けたくない私の依で真逆こんな……ごめんなさい、名前。貴女の腹に居るのは、罪の子です」

 かの男は、超人的な頭脳を持っていたから、凡人の私では理解出来ない事が屡々あった。今、この時がそうだ。男の言葉の何一つ、一寸足りとも私は理解出来ない。したくはない。男の手が、腹を、乳房を、鎖骨を通り、頸に止まる。ゆっくりと力が篭った。

「神は、仮令まだ人の形を成していないとしても我が子を殺す事を御赦し下さらない。愛する貴女に子殺しの罪は負わせません。大丈夫、心配は要りません。ぼくの『これ』は救いです。どうせ、何れ異能者は全て世界から消え失せる。ええ、そうですよ。ぼくは貴女を連れて行く心算でいました。其れが少し早まっただけの事です。寂しくはありません。大丈夫。ぼくも役目を終えれば直ぐに神の元にいきますから、ね?」

 かの男は、非道く美しく、悪癖を持ち、愛情深く、此方が悲しくなる程に愛情に飢えたひとだ。其の認識は今も尚、変わりはしない。けれども、如何した事だろうか。歪む視界に映るこの男は私の愛したひとなのだろうか。
 男は、ドストエフスキーは、魔人である。同時に悪魔であり、吸血鬼であり、異星人でもある。何時か処分される構成員の男が死ぬ間際に叫んでいた台詞が脳裏に蘇った。走馬灯、そう呼ばれるものだと直ぐに気が付いた。今、私は男の言葉に同意する。ドストエフスキーは、決して綺麗な人間ではない。神を心より信仰し乍らも、心には私の知る神とは別の何かが住み着いているのだ。何故、私は其の事実にもう少し早く気が付けなかったのだろうか。

「ああ、でも矢張り」

 私を愛おしいと告げた唇で信じられない言葉を吐き、私を愛した荒れた指先で私の首を絞める男は、細い黒髪を揺らして微笑んだ。一筋の束が男の紫色の瞳を隠し、蠱惑的に、ぞっとする程の美しい笑みを、其の顔に乗せた。

「貴女が居ない日々は、少しだけ寂しい……かな」

 若し、若しも私の願いが叶うのならばこの腹に居る胎児がこの世に生を受ける未来が何処かに在りますように。この男に、愛情深く、愛情に飢えた男が我が子を慈しめる未来が何処かに存在しますように。願う傍らで意識が遠のく。男は、悲しそうに微笑んで私の名を一度呼んだ。

 フョードル・ドストエフスキーと云う男がいる。彼は、私の主であり、この長いようで短い人生で一番愛した人であり、一番憎悪した人である。其れは、其れだけは今も変わらない。