反抗期



※聖戦終了後設定
※冥界関係の神話など捏造多数



 享年二十歳。死因階段から落ちそうになっていた子供を庇った事による転落死。
 立派な娘さんでした、なんてよく聞く文言で私を褒め称える言葉の数々を残された家族はどんな思いで聞いているのだろう。いくら考えてもこんな場所で分かるはずもなく、私はただ果てもなく広がる花畑を眺め、ひとり頬杖をついていた。



 どうやら地獄と呼ばれる場所は本当に存在していたらしいと知る。

 打ち付けた身体に走る激痛から解放されたと思えば、赤黒い空に覆われた岩場に立っていた。
 前を見ても人、人、人、横を見ても後ろを見ても、人、人、人。皆一様に生気をなくした顔をしていて、話しかけても返事はない。それが、心底気味が悪かった。
 私の組み込まれた列は、裁判所のような建物へと入って行った。周囲には闇色をした鎧のような物を纏う兵隊たちが立っていて、彼らは私の前後の人々とは違い表情を変え、言葉を口にしていたから多分、所謂死人ではないのだと思う。
 私達の列はゆっくりと法廷へ入室していく。長い銀髪をした男性の凛々しい声が空間に響き渡り、死人の罪状を述べた後、行き先を決めているようだった。発せられるのは、聞き慣れない単語ばかりで行き先に検討はつかない。けれど、示されているのが天国と呼ばれる場所でない事だけは分かっていた。

「さて、貴女は……」

 前の人が兵隊に連れられて行って、とうとう私の番が回って来た。法廷のど真ん中に立たされた私を銀髪の奥の瞳がジッと見据えている。怖くてたまらなかった。二十年の人生で一度だってこんな危険な目にあった事はない。最期、子供を助けた時だってこんな風に恐怖を覚えたりはしなかった。
 両手を組んで身を縮める。もはや男性の顔を見る事さえ出来なかった。しかし、どうした事だろう。何時まで経ってもあの凛々しい声は降って来ないし、控える兵隊も動かない。それどころか前方はザワザワと騒がしくなって、口々に知らない単語を話し始める。魂とか、神、とか楽園、だとか。耐えられなくなって膝が崩れた。その場に座り込んで今にも止まりそうな呼吸をなんとか繰り返す。不思議だ。私は死んでいるはずなのに、これでは生にしがみ付いているようではないか。

 そうしてどれほどの時が経った頃だろう。周囲の音が一瞬にして止まった。俯く私の視界に白い布に包まれた大きな手が映り込んだ。その手は、私の横を通り過ぎるとそっと震える肩を抱き寄せた。ふわりと甘い花の香りがした。頬にあたる上質な布の感触に、今、私は誰かに抱き寄せられているのだと知った。
 気が付けば身体を縛り付けるような恐怖はどこかへ消えていた。弾かれたように顔を上げ、肩に回る手の持ち主の顔を見る。そうして私は、他の死人のように暫し言葉を失くした。
 そこにはこの世のものとは思えないほど美しい男性の顔があった。緩やかな弧を描く金糸のような髪に包まれた頬はどこまでも白く、同色の長く豊かな睫毛に覆われた瞳は月のような光を湛えている。唖然として見上げるだけの私に、男性は気分を害したわけでもなく無言のまま片手を私の目蓋の上へと添えた。視界が暗くなり、意識が遠のく。最後に、焦ったように銀髪の男性が声を上げた。ああ、そうか。納得した。私を抱き留めるこの人は、どうやら神様と呼ばれる存在らしい。

「名前、降りておいで」

 遠いようでまだ新しい過去の記憶を思い出していると、下の方から私を呼ぶ声が聞こえた。木の枝に両手をついて下を覗き込み、声の主を探す。解けた髪が肩から零れ落ちて、似合いもしない豪奢な耳飾りが心地の良い音を奏でた。

「お前を煩わせるニンフ達には私の方から話はつけた。だからそろそろ私の元へ戻って来てはくれないか」
「……本当に?」
「ああ、本当だ。今頃はタナトスに泣きついているやもしれんがな」

 タナトス。その名を持つ神の存在を思い出すと身震いしてしまう。私が今、見下ろしている金色の神と対を成す銀色の神は、どこか威圧的で私に対しても容赦がない。人間を嫌っているらしく、蛆虫だとか塵芥だとか、この楽園と呼ばれる地には相応しくない単語の数々をよく口にした。

「彼女達、怒ってなかった? 私、カッとなって水掛けちゃったから」
「さて、どうだったか。覚えていない」
「嘘ばっかり。ついさっき話をして来たばかりなんでしょう」
「私は、お前以外の女に興味はない。さあ、そろそろ降りておいで。見上げてばかりで首も痛くなってきた」

 まるで子供を嗜めるような口ぶりだけど、それが心地よく聞こえるのだから彼の声は不思議だ。眠りと言う権能を持っているだけあって、そのまま微睡んでしまいそうな、落ち着いた気持ちになる。
 木の枝に一度腰掛け、そのまま勢いよく飛び降りた。その拍子に取れてしまった耳飾りを、彼が溜息をつきながら拾いあげてくれる。

「木登りなど何処で覚えた。お前の身に傷がつくやもと心配する私の気持ちにもなれ」
「大袈裟だなあ。そんなドジじゃないよ、私」

 腰を屈めた彼が私の髪を耳にかけ、耳飾りをつけ直す。ひんやりとした指先が離れて行って、今度は背に添えられた。大切そうに、壊れ物を扱うような手つきだ。
 きっと、これがニンフ達の気を荒立てるのだと私は知っている。この楽園と呼ばれる場所へ来た時からそうだった。彼は、私の身の安全ばかりを図って、他の事に目もやらない。私を飾り立てる事にばかり熱中し、私の言動一つ一つに注視している。それが神々から愛される事だけを仕事とする、純粋で美しい彼女達からすれば我慢ならなかったのだ。
 だからと言って面と向かって悪口を言われれば私も腹は立つし、些細な嫌がらせと言えど積み重なれば相当なストレスになる。今日は我慢も限界で、思わず近くにあった水瓶の中身を彼女達に浴びせてしまった。やった後に少し後悔した。まさか私がやり返すと思っていなかった彼女達は、途端に大きな瞳に涙を溜めて彼やもう一神の名前を叫びながら部屋を後にした。残された私は、彼女達に引っ張られたせいで髪はボサボサ、床と着ていた服は水浸し。散々で、全てが嫌になって、だから無断で神殿を出てしまった。

「新しい服を用意しよう。髪も神殿へ戻り次第結い直そう」
「いいよ。もう乾いたし、結び直すのも面倒くさい」
「ならば歌は。天界にいるヘラ達がもう一度お前の声を聞きたいとハーデス様に伝令神を遣わしたそうだが」
「いい。歌なんて知らない。踊りも、楽器の演奏も、なんにも知らない」

 そう、散々だ。全てが嫌になったのだ。時折、頭を掠める正気が今日ばかりは力強く顔を覗かせている。
 何を提案されても首を縦に振らない私に、珍しく彼も困っているらしい。柔らかな金色の髪を垂らすように首を傾げると「何故だ」と聞きたくもない言葉を口にする。

「どれもお前が好んでいたものばかりだろう。何がそう不満なのだ」

 私は、貴方のそれが一番不満なのだと声を大にして言ってやれれば良かった。
 ニンフに水を浴びせた時のような衝動が私の中に走った。背に触れる手を振りほどいて、神殿とは反対方向へと歩みを進める。背後から草花と踏みつける足音が聞こえるから、ついて来ているらしい。

「ひとりにして!」
「そう言ってお前は先日も迷子になった。あの時、通りかかったタナトスに泣いてしがみ付き戻って来たのは誰だった?」
「ああ、そんな事はよく覚えてるんだから!」

 あの時ばかりは、何かと苦手な死の神が救世主のように思えたものだ。まるで塵を見るような目で見下ろされた挙句、首根っこを抓まれて運ばれたけれど。
 しかし、彼は、こうして私の事なら何でも覚えている。日頃ぼんやりとしているように見えるくせに、私の言葉、動き、全てを掌握していないと気が済まないらしい。それがどうしようもなく私は――怒りのまま大股に歩いているのがよくなかった。未だに着慣れない長い裾を爪先で踏みつけてしまった。あ、と気が付いた時にはもう遅く、受け身の一つも取れないまま花畑へと倒れ込む。直ぐに助け起こされたけれど、打ち付けた額が痛い。片手で押さえて、血の気が引く思いがした。ぬるついた感触は、この地ではまず見る事のない血に他ならなかったからだ。

「言わんことではない」
「っ、ただの掠り傷だし!」
「この地を血で穢す事の意味を忘れてしまったのか……それとも、私への反抗か?」

 額の血を見せまいと押さえる手は、彼の指に剥ぎ取られてしまった。花の香りを強く感じて、赤く擦れた患部に柔らかなものが触れる。忽ち痛みは去り、指先に付着した赤も空気に溶けるようにして消え失せた。

「神話の世からそうだ。お前をひとりにするとろくな事がない」
「……神話の世とか、知らない」
「そうか。それも良かろう」
「ねえ、私……」

 貴方がずっと探している女神なんかじゃないよ。
 そう口にしようとして止めた。言ったところで何になる。無闇に彼を傷付けたとして、私に対する利は何もない。ただでさえ神の指先で輪廻の輪から外されてしまったのだ。これ以上の縛りは欲しくなかった。
 すっかり口を噤んだ私の身体を彼は易々と両手で抱き上げる。顔を見上げる勇気もなくて、首に回した腕に力を込め肩に顔を埋めた。彼の体温は不思議なもので冷たいようでいて暖かく、けれど芯が冷え切っているように感じられる。それなのに、その温度が私の身体にはしっかりと馴染むのだから本当におかしな話だ。



 遠い神話の世。神々がまだ地上の人間達を見放さず、また人間達も神の存在を身近に感じ敬意を表していた黄金の時代。最高神ゼウスの正妻であり貞節を司る女神ヘラは美しい三姉妹を産み落とした。彼女達には美と優雅という権能が与えられ、いつしか姉妹は三美神(カリス)と呼ばれ信仰されるようになったそうだ。



 今日もまた、私はあの木の枝に腰掛けて果てのない花畑を見つめている。この楽園はあまりにも心地よくて、現実ではないかのように思える。地獄とは正反対、天国とも呼ばれる場所なのだから当たり前の事なのだけれど。
 ここまで駆ける途中、草で切った足首が痛む。血はとうに止まっていて、うっすらとした切り傷とヒリヒリとした痛みだけが残っているだけなのだが、一度気になるとどうにも忘れられない。幹に背を預け、ふうと大きく息を吐いた。
 この楽園へ連れて来られてもう何年が経っただろうか。地上に残した両親は既に亡くなって輪廻の輪を巡っているのかもしれない。あの日、助けた子供だってそう。私を知る人は、もうこの世にいないのかもしれない。そう考えると堪らなくなる。

「いい加減地理は覚えたからもう迷子にはならないよ」
「ああ、そうだろうな」

 見知った気配がしたから顔を見る事もなく声をかけた。つい最近知った事だけど、この気配は小宇宙と呼ばれるものらしい。生きていた頃は知る筈もなかった事を、ここに来て山ほど学んでいる。

「お前が気がかりで探しに来た。それだけだ」
「うん、そっか……うん、ありがとう」
「いい加減顔を見せたらどうだ。ずっとそこにいても退屈だろう」
「降りても退屈だよ」
「ならばどうしたい? 望みはなんだ。言ってみろ」

 望みなら何個もある。けれど、どれも口にするには違う気がして、最後に私はゆっくりと乾いた唇を開いた。

「この楽園の果てを探しに行ってみたい」

 私の言葉に彼が息を呑んだのが分かった。珍しいと思って膝から顔を上げた頃には、腕を引かれていた。転がり落ちるように枝から落ちて、根本に座り込んだ彼の両腕が私の身体を囲い込むように後頭部と背に回る。痛い。今までにも何度か抱き締められた事はあったけれど、これほどまで強い力で掻き抱かれた事は初めてだ。
 痛い、と腕を叩こうとしてピタリと動きを止めてしまった。彼が、絞り出すように声を震わせたせいだった。

「以前もそうだった。お前はそう言って、ひとりどこかへ消えてしまった」
「……」
「美と優雅を権能とするお前は戦う術も持たず、幾度も重なる聖戦に気を病んでいたのだろう。私の子らのいる夢界でただ待つ事も、冥府で夜の元過ごす事も、お前は決して良しとはしなかった。冥王妃が母神の計らいで天へ消えた時、お前は何の動揺も見せずなんと言ったか覚えているか? そうだ、今と同じこの楽園の果てを探しに行くのだと私の腕の中から消えてしまった」
「知らない、知らないんだよ、私」
「ああ、そうだ。お前は何も知らない。自ら神格を捨て、輪廻へと乗ってしまったのだからそうだろう。ただの人となったのは、我ら冥界へ属する神々への意趣返しのつもりか? 聖戦も終結した今、こうして魂となり冥界へ足を踏み入れたのは、私の元へ戻って来たからではないのか?」

 ずっとずっと、何度も何度も顔を覗かせた正気が問いかける。私は、貴方がずっと探して焦がれ続けている女神なんかじゃないよ。魂が一緒だと言われても私には神話の世の記憶なんてないよ。貴方を愛した記憶も、愛された記憶だってこれから先もないままなんだよ。
 彼の問いに相応しい回答を私は持ち合わせてはいなかった。抱き締められたまま、耳元で絞り出される悲しみを受け止める事でしか応える事は出来ない。両腕はだらりと垂れたまま、冷えた背を抱き返す事さえ出来やしないのだ。

「やっと聖戦も終わった。もうお前を失う理由はなくなった。だからもう不安にさせてくれるな。消えてくれるな。私にもう二度とあのような感情を抱かせてくれるな」

 ひどい神様だ。一度も私の名前を呼ぶ事もなく、魂だけの面影をずっと追い求めている。女神が好きだったという耳飾りや服や歌や踊りや楽器。全てを与えて神話の世をやり直そうとしている。そこに、名前と言う人間の幸せはどこにもない。
 だから私も、彼の名を呼んだりしない。彼が私を見ないのなら私も彼を見る事はない。こうして抱き締められても、唇を触れ合わせても、何時か抱かれる事があったとしても、決して。

「すこしは、」

 私の事を見てくれたらな、そうだったならきっとちゃんと愛せたのに。
 触れ合った唇からは涙の味がした。多分、泣いているのは私の方だ。彼、表情をあまり変える事もないから泣いたりもしない。

「なぜ泣く?」
「そうだなあ、寂しくなったからかな」
「私がいるではないか」
「うん、知ってる」

 そう、知っているのだ。この果てなど何処にもない楽園で、いつ来るかもわからぬ魂が朽ちる時を待ちながら名前という存在が全てから忘れられていく事を。
 止めどなく涙の流れる目尻を柔らかな唇が這った。確かめるように、魂そのものに触れるように優しく頬を撫でられる。

「愛している」

 今日も彼は、その美しい瞳で私の奥の誰かを見ている。

20210920