末長く宜しくお願いします



「来ちゃった」

 語尾にハートマークが見えた。本来人の言葉を目視する事など出来ないのだから、勿論幻覚でしかないのだが。
 寝起きのまま後ろ手に髪をかいて開いていた玄関扉を閉める。寸前、扉との隙間に足を挟まれた。僅か数センチの隙間に指が掛かり、血走った目が覗く。軽くホラーである。日々呪霊と言うグロテスク極まりない物を見ていたとしても、そしてそれを祓っていたとしても、それでも頬を引き攣らせてしまったのは、相手が知人だったからだろうか。

「お嫁に来ました貰って下さい」
「間に合ってまーす」

 力を緩めた拍子、指と足が外れたのを確認して勢いよく扉を閉める。こちらも視認こそ出来ないが語尾にハートマークを付けたつもりだ。
 すると玄関扉の先、共用スペースから女の声が響いて来る。せっかくの休日。最後に取ったのは確か二週間は前だったか。どうせなら今日はゆっくり眠って、それから買い物にも行きたかったな――と若干の苛立ちを覚えつつ方向転換、玄関扉を開けてやる。

「嫁は要らない。で、何の用?」
「実家を追い出されました! 泊めて下さい!」

 一つ年下の学生時代の後輩に、五条悟はそれはもう大きな溜息をついた。さよなら、僕の休日。



 実家を追い出されたと言う彼女曰く、頼れそうなのが五条以外居なかったのだそうだ。
 「七海は?」と五条が機嫌悪く問いかける。「着信拒否されました!」と彼女。「硝子は?」と五条が投げやりに問いかける。「お仕事が忙しいそうで無理との事です!」と元気良く答える。
 僕だって忙しいんですけど。と言うか、そこで特級呪術師であり呪術高専教師である僕を頼るか? もはや質問する気も失せた。高級ラグマットの上でお行儀良く正座する彼女は、何の後ろめたさも感じないようで初めて上がる五条の部屋を興味深そうに眺めている。と言ってもここに面白い物など何もない。学生時代励んだゲームや胸踊るような漫画本もないし同級生と騒ぎながら眺めたグラビア写真だってない。睡眠と着替えの為に帰って来るだけのだだっ広いワンルームが広がっているだけだ。

「親御さんも心配するし帰んなさい。過保護だったでしょ、君のとこ」
「流石にこの年齢になったら心配もしてくれませんよ。それに言ったじゃないですか。追い出されたって」

 それもそう。しかし、五条としてはさっさとこの煩わしい後輩を追い返して快適な休日をスタートさせたいのである。
 幾らしたのかも覚えていないがそこそこの値段はしたと思われる皮張りのソファの背凭れに首を預け「あー」と唸り声を上げる。
 どうにもこの子の事は、学生時代から苦手だ。一学年下は七海に灰原、彼女の三人で七海は言わずもがな。灰原は夏油に懐いていた。しかし、どうした事か彼女だけは、傍若無人が服を着て歩いているかのような五条の後をついて回っていた。邪険に扱われた回数は数知れず。女相手なので手こそ出さなかったものの言葉でも暴力になり得るのだ。思い返せば思春期のいたいけな――とは言わないが、僅か十幾つの少女相手に酷い言葉を浴びせたものだ。
 そんな彼女も高専を卒業してからはあまり会う機会もなかった。高専所属の呪術師である彼女は、任務に追われていたし、五条も特級呪術師と教師の兼業に追われていたからだ。たまに高専敷地内ですれ違って挨拶をする程度。多分、医師である家入の方が彼女と親交が深い。

「なのでここに置いて下さい」
「何がなので、なのかなー?」
「実家を追い出されました。行く宛がありません。マンションを借りようにもまったく目処が立っていません。しばらく居候させて下さい」
「僕に何のメリットもないじゃん。むしろデメリットだらけなんだけど分かってんのか」
「メリットならありますよ! 私これでも家事は得意です。五条さん好みのお料理も作りますしお掃除も毎日頑張ります!」

 だからここに置いてください!
 そう言って深々と頭を下げた後輩に辟易とする。そう、昔からそうだ。この後輩である彼女、一度決めたら梃子でも動かない。任務にしても学業にしてもそう。一度慕った先輩に対してもそう。長い指先で額を押さえ、もう一度「ああー」と唸り声を上げる。
 ここで負けてはいけない。負ければ彼女の思う壺だ。
 元来振り回す側である筈の五条が唯一振り回される相手、それが彼女だ。それを五条は勿論、彼女も理解している節があるから始末が悪い。

「なるべく早く出て行ってくれよ?」
「はい! 末長く宜しくお願いします!」

 あ、やっぱり首根っこ掴んででも追い出せば良かった。



 さて、そんな彼女であるが意外な事に家事全般抜かりなく熟せた。学生時代、周囲から面倒を見てもらっていた本人とは思えぬ手腕に、流石の五条も文句の付けようがなかった。
 特級呪術師である五条には、夢と散った休日が終わればまた多忙な日々が待ち受けている。昨年末に起きた未曾有の呪術テロ事件――百鬼夜行の後始末や、なおも増殖し続ける呪霊の祓除、生徒達の教育、新一年生にあたる少年の育成等、彼に与えられた仕事は山のようにある。まあ、それも全ては自分で選んだ道だ。文句はない。ただ、たまには少し疲れる日もある訳で、それは上層部の老害達の呼び出しの後が多かったりする。
 疲れと言うより苛立ちか。焼き切れそうな頭を反転術式で治癒しながら五条は、自宅の玄関扉に鍵を差し込んだ。もう深夜だと言うのにリビングに灯りが点いていると気が付いた。それに別段驚いたりはしない。この数週間ですっかり慣れてしまった。

「こら、夜更かしはお肌に悪いよ?」
「あ、おかえりなさい五条さん」

 相も変わらず五条が何となしに選んだ高級ラグマットの上で正座をする彼女は、身体ごと振り返って深々と頭を下げた。何かと問題のある彼女も代々呪術師を輩出する所謂由緒正しい家の出だった。居候させて貰っているのだから家主より先に寝る訳にはいかない。礼儀は尽くさねば。何度言っても変わる事のない古き精神は、五条にとって本家を思い出すようで居心地を悪くさせる。

「そうだ! 五条さん、お酒飲めましたっけ?」

 そう思った途端、勢いよく顔を上げるのもまた何時もの事なのだ。

「僕、下戸だよ。居酒屋でソフトドリンク頼むタイプなの」
「あーそっかーならダメかー」

 なら、とは何だ。コートをソファーの背凭れに投げ、最近になって使い出したダイニングテーブルに腰掛ける。そうすると彼女は、勢いよく立ち上がりキッチンへと向かう。ものの十分で温められた深夜帯にも優しい料理の品々は、勿論極度の甘党である五条の好みに合わせて味付けされている。ひとまずドレッシングの掛かったサラダに箸を向かわせていれば、何やら視線を感じる。レタスを咀嚼しつつ、今だけは自分よりも身長が高くなった彼女を見上げる。料理を運んだお盆を胸に抱き、視線をうろうろと彷徨わせる姿は、隠し事をしている子供のように映った。

「あの、五条さん」
「なに?」
「今までお世話になりました!」
「ん?」

 やはり疲れているのだろう。意味を理解するのに時間を要した。
 あまりに突拍子もない発言だったものだから、思わず食事をする手も止めてしまった。身体ごと向き直り状況を整理する。
 そうか、ようやく新居を定めたのか。

「見つかったんだ。良かったじゃない」
「はい。五条さんには大変ご迷惑をおかけしまして……」
「まあね。でもこうして掃除に洗濯、美味い飯も作ってもらったし、少しはメリットがあったかな」
「良かったぁ。五条さんの事ですから大なり小なりお小言や蔑みの言葉を頂くのは覚悟していたんですけど私の杞憂でしたね!」
「あははー、たった今少しイラっと来たかもよ僕。で、いつ出て行くの?」
「明日です」

 随分と急に決めたものだ。学生時代から向こう見ずな所のある後輩だ。また衝動的に決めたのではないかと、丸くなった良心が心配そうに眉を下げる。しかし、彼女ももう二十台後半。五条が教育している学生でもないのだ。自分の事には責任が持てるはずだ。

「ところでその新居ってどこ?」

 そう思っているのにこんな問いかけをしてしまうのは、あまりにも矛盾しているのではないか。
 頭では理解しているのに一度口から飛び出した言葉は取り消せない。最後となる彼女お手製の料理に、再度箸を伸ばしながら答えを待つ。

「五条さんの隣ですよ?」
「……ん?」
「今日調べてたらちょうど空いてたんです! 明日からもちゃんとサポートしますので、これかれはお隣さんとして末長く宜しくお願いしますね」

 これぞデジャヴ。語尾にハートマークが見えた気がした。
 口の中の物を嚥下し、箸を置き、居住まいを正す。彼女のそれに負けないくらい、自分の中で一番完璧に近い笑みを作り上げ、五条はゆっくりと口を動かした。

「間に合ってます」

 しかし、どう足掻こうとこの後輩に五条の意見は通じない。伊地知なら震え上がってキャンセルの電話を掛ける、否、そもそも近寄りさえしないのに。伊地知の一つ上の学年の後輩達は皆、良くも悪くも肝が据わっているようだ。頭の中の七海が「貴方に言われたくありません」と冷たく言い放った気がした。
 明日からの新生活に胸を踊らせ、にこにこと笑みを絶やさない彼女に大きな溜息をつく。
 残念ながらこの生活は、まだ暫く――それこそ彼女の言う通り末長く続くらしい。

20210608