なでなでめそめそ



「私も傑ちゃんって呼びたいです!」

 教団奥の控室。だだっ広い空間に敷き詰められた畳。間接照明の白い光に照らされた室内。額を畳に擦り付けて恥も外聞もなく泣き喚く女。そんな非日常のような日常を享受しつつ、夏油はそっと左右に控える少女達の手を取り下げさせた。とりあえず中指を立てるのは宜しくないのでやめなさい。

 さて、未だ泣き喚き続ける女であるが、元は夏油にとっての後輩であり、左右の少女達、美々子と菜々子の二人と時を同じくして彼の家族となった呪術師である。自分を強く慕う、ただそれだけの感情で人生さえ棒に捨てて共に茨の道を選んだ彼女を、夏油は一家族としてとても大切に思っている。ゆえに、彼女の願いはなるべくなら聞いてやりたい。例えば、新しい服が欲しいやお出かけしたい等の願いであったなら「なんだ、そんな事か」と、彼はそっと偉人の描かれた紙幣を複数枚手渡した事だろう。しかし、しかしだ。現実の彼女の願いは非術師共から巻き上げた金で解決出来るものではなかった。全ては、夏油の意思一つ。夏油が首を縦に振れば彼女はたちまち笑顔に、首を左右に振れば更に泣きじゃくる事だろう。年齢で言えば自分より一つ年下である筈の彼女は、年齢にそぐわぬ純粋さを持っているので、その光景は容易く想像出来た。
 ひとまず美々子と菜々子は下がらせた。最後まで畳に突っ伏したままの彼女を睨み付けてはいたが、実際には嫌っていないと夏油は知っている。彼女達のコミュニケーションなのだ、多分。そう思おう。襖が閉まる音と共に二人きりになった室内で、夏油はゆっくりと腰を上げた。向き合っていた彼女の横に移動して、捲れ上がった上着の裾を丁寧に直してやる。すると、団子虫のように丸まっていた彼女は、この時を待っていたかのように動き出した。顔の下敷きになってすっかり畳の形がついた両手を無防備な夏油の胴へと回し、滑り込むように膝へ顔を埋める。あまりの速技に抵抗する隙さえなかった。勿論、これが敵対する呪詛師や非術師共であったなら全力で排除していたが――やめよう、考えただけで頭が痛む。
 膝に顔を埋めたまま何事か呟き続ける彼女は一旦無視する事にして、片手で痛みを訴える額を押さえた。そうすると彼女は「頭、痛いんですか」と問いかけて来るので「大丈夫だよ」と返す。君のせいだ、とは口が裂けても言えなかった。

「それで、なんだったっけ。君、私の事を名前で呼びたいんだったか……」
「そうです」
「……普通に傑じゃダメなのかい?」
「傑ちゃんがいいです」
「どうしても?」
「どうしても、です」

 彼女は頑固だ。学生の頃から変わらないどころか大人になるに連れどんどん酷くなっている兆候すらあるのだから困りものだ。
 彼女の中で夏油の呼び方は今までに二回変化している。まず初めは「夏油先輩」彼女が高専に入学し二〇〇七年に共に離反するまで使われた呼び名だ。二つ目は「夏油さん」夏油が教団を立ち上げ他の家族や信者を集め出した頃に、流石に先輩は宜しくないだろうと珍しくまともな事を言う彼女に夏油自らが提案した呼び名である。もし彼が提案しなかったら他家族や信者と同じく「夏油様」と呼ぶ気だったのだから、あの時ばかりは間に合ったと心の底から安堵したものだ。しかし、そんな彼女に三度目の変更として「傑ちゃん」を要求されるとは夢にも思わなかった。昨晩、おやすみなさいと挨拶する時だって何の不満もなく「夏油さん」と呼んでいたのに、一体何故こんな事になってしまったのか。
 痛む頭は押さえたまま、もう片方の手では、グリグリと額を擦り付けてくる彼女の丸い頭を撫で続ける。思えば高専時代より年下でしかも女の子なのだからと甘やかし続けたのがいけなかった。そう、もう少し自分が厳しく接していればここまで頑固には育たなかったかもしれないのに――なんて考えて、行動と思考が合っていない事に気がついた。今度は、夏油が崩れ落ちる番だった。習慣とは恐ろしい。

「げ、夏油さん? 本当に具合悪いんじゃ……」
「大丈夫だよ……ありがとう」

 相変わらず膝に寝そべったままの彼女の上に覆い被さるように腰を曲げた夏油は、唸るように返事をするとのろのろと億劫そうに上体を起こした。もう撫でるのはやめにする。手の動きを止めて離そうとするが「あ」と名残惜しそうな声が彼の動きを止めた。

「ああ、もう」
「ふへへ、夏油さんに撫でられるの好きです」
「そう、良かったね。それで、何でちゃん付けがしたいんだい?」

 規則的に頭を撫でてやりながら、もう片方の手は後ろについた。上半身を伸ばすように天井を見上げつつ彼女の返答を待つ。

「ラルゥが傑ちゃんって呼んでたから、仲良さそうで羨ましいなって」

 ああ、なるほど。ようやく納得がいった。

「彼、いや彼女……んん、ラルゥの呼び方はラルゥ独自のものだけど、私はラルゥひとりを贔屓にしているつもりはないよ」
「そこは分かってます。でも、でも、夏油さんの事そういう風に呼んでる人他にいなかったから」
「……」

 男の硬い膝なんて寝心地が悪いだろうに、すっかり落ち着いた様子の彼女は目を細めながら唇を尖らせる。未だ夏油がうんと言ってくれないのが不満なのだ。対して夏油は、内心困り果てていた。下の名前で呼ばれる事は構わない。そもそも家族からの「夏油様」も教団の教祖としての立場上仕方がないのだと目を瞑っているが、彼本人がそう望んで呼ばせているわけではないのである。彼女が望んで下の名前で呼びたいと言っていたならば「勿論、いいよ」と二つ返事で返せたと言うのに。何故あえての「傑ちゃん」なのだ。青い春を恋しがる気は全くないが、二年間の記憶が彼女からの「傑ちゃん」呼びを頑なに拒んでいた。
 悩んでいる内に時は経った。たっぷりと十分程。剛毅果断な夏油にしては長い時を掛けて考え抜いた末、結論は出た。

「……いいよ、傑ちゃんで」

 十分の激闘の末、青い春の記憶はあえなく完敗した。天秤は、現代の彼女の泣き顔へ傾き完全に落ちた。膝から顔を上げた彼女が嬉しそうに頬を緩める。その顔を見下ろしながら「まあ、いつか慣れるだろう」と自分に言い聞かせていた。

 しかし、激闘が終わって二日後。彼女はまた畳に突っ伏して泣き喚いていた。左右の美々子、菜々子が中指を立てる。すかさず下げさせる。二人を下がらせ、何があったのかと聞いてみる。嫌な予感がしていた。

「信者が傑様って呼んでた! 私もそっちがいい!」

 ああ、本当に勘弁してくれ! その呼び方をされるくらいならば「傑ちゃん」の方が百倍はマシだと、夏油は痛み出す額を両手で押さえて天井を仰ぎ見た。彼女の頭が膝に滑り込んで来るまであと一秒。

20210412