枯れて落ちても二人連れ



 春先と言えど、まだ肌寒くマフラーやコートは手放せない。鼻の頭を赤くさせながら少女は駆け足でとある家の門を潜った。近隣で一番大きな家は、日本屋敷といったような佇まいで、興味を引かれた近所の子供達がたまに覗き込んで来る。今日もまたその子供達と遊びに出掛けていた名前は、結わえた黒髪を左右に揺らしてこの家で一番広い和室の前に立った。
 マフラーを取り、コートを脱ぎ去る。放り投げたそれらは背後に控えていた面をつけた異形が受け止めた。それを確認して名前は呼吸を整えた後、行儀よくその場に正座した。両手で控え目に扉を開き、上座に座る壮年の男性とその向かい側に座る自身の父を見た。

「お久しぶりです的場のおじ様。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

 三つ指を立てて首を下げる姿は、幼い子供らしさはなく淑女然としていた。上座の的場は隠された右目と左目を細めて大きく笑い声を上げる。

「こちらへおいで」
「いやあ、大きくなったなぁ。最後に会ったのは三歳だったか」
「ええ、そうです。静司君とは一歳以来かな?」
「はい」

 父に呼ばれて横に座った名前は、ようやく的場の横に座る少年に気がついた。艶やかな黒髪と赤く見える瞳が印象的な大人びた少年だった。仕立ての良い服を着て、行儀よく正座をした少年は、一瞬名前の顔を見てそれからぷいっと顔を逸らした。女の子みたいな綺麗な顔立ちをしているのに結構な態度だ。しかも大人二人が見ていない隙の出来事だった為、名前は非難したくとも出来ず、ただ机の下の両手を握りしめた。

「さ、私達は大事な話があるんだ。二人は庭で遊んでおいで」
「はい、行こう」

 名前は、良い子らしくにこりと笑って向かい側の少年に声を掛けた。少年は自身の父を見上げ、彼が頷くのを確認した後襖の前で待っていた名前の後を追った。二人して行儀よく頭を下げて襖を閉める。
 名前の父の言う通り庭に出た二人は何を話すでもなく、縁側に腰かけたまま正面を見据える。気を利かせた女中が運んできたお菓子にも手をつけず、無言のままじっとしてどれほどが経った頃だろうか。先に口を開いたのは、予想外に的場静司の方だった。

「ねえ、お前あれ見える?」

 その乱雑な口調に名前はギョッとして横の少年を見た。的場は小さな指先を正面に向けたまま名前の方を見ようともしない。先程から随分な態度ばかり取られている名前は腹立たしさを必死に飲み込んで少年の指の先を見た。
 そこには一本の松の木があった。名前の父の祖父、苗字家の三代前の当主が手ずから植えたその木は苗字家の家宝ともいえたが、実際の所名前はあまり気にいっていない。あの木が一体なんだというのか。なんの変哲もない立派な松の木だ。

「あ」

 しかし、それは昨晩までの話だった。的場の指の先、ちょうど松の木の根本に黒い塊が蠢いている。小さいけれど、よくない物だとは幼い名前ですら分かった。

「……お父さんを呼ばないと」
「待ってよ。おれにやらせて」
「は?」

 思わず出た声は自分でも驚く程低いもので、的場を驚かせるにも充分だった。パチパチと瞬きを繰り返して、何が面白いのか笑い声を上げる。その笑い声は、彼の父のものに少し似ていた。

「お淑やかなお嬢様かと思っていたら。なんだ、ただの猫かぶりか」
「〜っ、なによ! さっきから失礼な事ばっかり。部屋でも私を見て顔を逸らしたり、お前って呼んだり!」
「顔を見たのはどんな子か気になったから。お前って呼んだのは、おれ名前教えてもらってないし」

 言われてみれば確かに部屋でも父や的場の父は名前の名を呼ばなかった。ゆえに的場静司が知る筈もなく、仕方なく三人称で呼んだという訳だ。否、それでもお前はいただけないだろう。彼の言うお淑やかなお嬢様らしさは消し去り、両腕を組んでそっぽを向く。的場は気にした様子もなく、縁側を降りると松の木の傍に寄った。そして黒い塊を見下ろしたまま一枚の札をポケットから取り出した。
 その手際は鮮やかなものだった。札を異形に投げた的場は小さな声で呪詛を唱え両手を叩く。カッと一瞬の閃光が走り、次の瞬間にはそこにあの黒い塊はなかった。

「秘密にしてね、名前」

 言いたい事は山ほどあった。なんでそんな事が出来るの。お父さんから習ったの。札は自分で用意したの。それにやっぱり私の名前を知っていたんじゃない。その全てを口には出来なかった。ただ暴れまわる心臓を押さえるように両手を胸に押し当てて、名前は頷くしかなかった。
 春先、桜すらまだ蕾の寒々しい風の吹く日。名前は初めて自分の許嫁と出会った。




 ふと、松の木が目に留まる。あの日と変わらぬ姿を見せる苗字家の家宝は、明日嫁ぐ娘を送り出すように青々とした葉を揺らしていた。木の根元に黒い塊はいない。あの日の出来事は二人の間の秘密として、今でもお互いの両親にバレていない。両親に秘密にする事に始めは罪悪感を覚えていたが、それは時間が解決するものである。今となっては懐かしい笑い話として二人の間で持ち上がるようになっていた。
 松の木を横目に挟みながら奥の自室へ向かう名前の手には、二つの湯飲みと最中が乗ったお盆があった。古くから仕えてくれている女中が涙ぐみながら淹れてくれたお茶に多少の恥ずかしさを覚えながら中にいる少年に声を掛ける。ガラッと襖が開いて顔を覗かせた的場は、名前の手からお盆を受け取るとあっと言う間もなく早速最中に手をつけた。

「うん、美味い。前から聞こうと思ってたんだけど名前の家で出る茶菓子ってどこで買ってるの? これから頻繁には食べれなくなるから買って帰ろうかな」
「……駅前の和菓子屋さんだよ」

 自ら引っ張り出した座布団の上に胡坐をかいた的場は最中を食べきると、女中が淹れてくれた緑茶へ口をつける。彼は、女中が涙ぐんでいた事を知らない。無感動に飲み干して、ゆっくりと味わう名前を真正面から眺めていた。

「なに?」
「いや、独身最後の一日なのにこんなものかって思っただけ」

 ピタリ、名前は湯飲みを傾ける手を止めた。頬杖をついた的場は、あの頃の幼い少年とは違う。世間一般からすれば十八歳は少年の部類に入るのだろうが、彼は既に的場一門の頭首就任を控えた立派な大人だ。周りの男子より少しだけ長い黒髪も、家業の為これから伸ばしていく予定で、来年には女性のように長くなっている事だろう。
 そして名前はそんな的場をこれから一生横で支える事になるのだ。

「そっちこそ。時期頭首がこんな所で油を売っていてもいいのですか? 就任の儀の練習もあるでしょう」
「そんなもの一度見れば覚える。それにこんな所じゃないでしょう? 大切な妻の生家だ」

 きっとお互いむず痒さを感じているに違いなかった。的場は頭首として、名前はその妻として恥ずかしくないような振る舞いを覚える必要があった。少年、少女としての年相応な会話はあまり外で出来なくなってしまう。
 くくっ、と喉を鳴らして的場は立ち上がった。机を回り込んで横に座った彼は、気安い様子で名前を呼ぶ。立てた膝に頬を預け、言った。

「あの松の木、名前の曽祖父の式がずっと貼り付いてる」
「うん」
「それ、お前の両親は視えていないだんろう?」

 名前は視線を彷徨わせ、重々しい様子で頷いた。的場は満足そうに双眼を細めて名前の固く結んだ指先を拾い上げた。

「祓う、それか解放する。どちらがいい?」

 その日、真夜中。両親が寝静まった後、二人は静かに庭に立った。名前は陣を描き、松の木に向かい声を掛ける。曽祖父の式は、面をつけた異形だった。幼い頃から傍にいて、名前が放り投げたコートやマフラーを受け止めては部屋に畳んで置いていてくれた。
 曽祖父の式は、最後に面の下の目を細めて笑った。会った事もない曽祖父の笑みは、きっとこんな感じだったのだろう。しわくちゃ顔の妖が松の葉を揺らして屋敷を出て行く。残された二人は灯りもない夜更けの庭で顔を見合わせ、人差し指を立てた。

「秘密ね」




 窓から眺めた庭に松の木はない。当たり前だ。ここは苗字の家ではないのだから。代わりと言うようにある梅の木を見下ろして名前は最中を口に運ぶ。甘すぎない漉し餡の味が口の中に優しく広がり、思わず頬が緩んだ。

「あ」

 それもつかの間、背後から伸びた手が名前の手の中の最中を取り上げてしまった。弾かれたように頭上を見れば、そこには長い艶やかな黒髪を揺らした的場が最中の最後の一口を咀嚼する所だった。

「この店、昨日閉店したんですよね。残念です」
「ええ、そうですよ。だからこそ大切に取っていた最後の一口だったのですけど」
「おや、そうですか。それは悪い事をしました」

 悪いなんて少しも思っていない顔をして的場は名前の横に腰を下ろす。着物姿の彼は、肩から長羽織を落とすとそれを名前へ手渡した。名前は当たり前のように受け取って綺麗に畳むと脇に置いた。
 開けっ放しの窓から暖かな陽気が差し込む。それは穏やかで、それでいてどこか物悲しい。的場本家の屋敷特有の雰囲気がそうさせるのかもしれないと名前は頭の片隅で考えていた。的場の右側の目には眼帯がつけられている。その下にある痛々しい傷跡を最後に見たのは何時だったか。

「静司」

 敬称を抜き取って、たまにしか呼べない彼の名を口にした名前は的場の右側の髪へ指を伸ばす。垂れた長い一房を耳に掛けてやり、彼の右側の顔を片手で包んだ。すると的場は少し驚いた顔を見せた後笑った。

「なに? 寂しくなった?」
「まさか」

 今年で二人は二十二歳になる。世間一般では学生を卒業したばかりの若い二人にしか見えずとも、彼らは立場もある立派な大人だった。年相応の会話なんて、たまにしか出来ない。むしろ避けている節すらあった。幼馴染で、それでいて夫婦で。友人でもある。顔を見合わせて笑い合う事さえも希少な複雑な関係が二人の間にある。
 肩を寄せ合い、つかの間の平穏を味わいながら名前は欠伸を零した。今日は夕刻から会合もある。重い着物を着て、おべっかの中微笑み続ける事は中々に神経を費やすがこれも自身の仕事だと割り切ってもいた。
 終わるものがある。曽祖父の式は、どこかで笑っているのだろうし、和菓子屋の老夫婦はこれから幸せに老後を過ごすのだろう。この四年間で何度もそれを実感した。けれど何時の日か、始まるものもあるのだと――

「静司そっくりだったらちょっと嫌だなぁ」
「は? どういう意味です」
「秘密」

 そのくらい自分で気づいてほしいものである。