触れてくれるな



 触れたと思った柔らかな感触はそこになく、目前には薄い肌色の壁が広がっていた。では、現在己の唇に触れているこれはなんだ? 答えは至極簡単だ。唇が触れ合う寸前、目の前に突き付けられた彼女の掌である。

「……む、むりぃ」

 蚊の鳴くような声とは、まさにこれの事だろう。薄い肌色の壁の向こうから聞こえたその声に、ハッと現実に引き戻された。
 とりあえず顔を退けて彼女の肩を優しく撫でてみる。ビクッと大きく震えた肩にああ、怯えているのか……と察した。

「ごめん、急ぎ過ぎたね。怖がらせてしまったかな」

 自慢ではないが、同年代の男子に比べて、夏油は女性経験が豊富な方である。数少ない同級生である五条のような華やかな造りの顔面は持っていないが、涼しげな目元や綺麗に通った鼻筋に加え、厳つい外見からは想像できない柔和な態度が周りの女性陣を惹きつけていた。

 さて、そんな生来のモテ男こと夏油傑であるが、呪術高専と言う特殊な高校に進学して半年後には、見事新しい恋人を得ていた。数少ない同級生の一人である彼女は、どちらかと言えば控え目な性格で、何かと個性豊かな同級生三人に埋もれてしまうようなか弱さが見て取れる少女だった。
 五条が彼女で遊び出すのは時間の問題だった。特殊な環境下で生まれ育った友達初心者の五条は、案の定入学から二日後には彼女を揶揄い遊ぶようになり、彼女は貝のように押し黙る生活を送るようになった。これが三日、四日と積み重なれば、流石に夏油も見過ごす事が出来ず、思わず口出ししてしまう。「弱い者いじめはよくないよ」これに五条は爆笑、家入は蔑んだ視線を向け、彼女は頬を真っ赤にさせて潤んだ瞳で夏油を見上げた。
 以来、彼女の世話をするのが夏油にとって当たり前になった。共にいるようになって分かった事だが、彼女はただか弱い存在と言うわけではなく、我慢の限界が来れば五条相手にも掴みかかるような強気な一面も持っていた。これには流石に五条も、勿論夏油も驚いて、今にも暴れ出しそうな彼女を後ろから羽交い締めにして、どうにか落ち着かせる事に成功した。その時、また新しく分かった事だが、どうやら彼女は夏油にだけ態度が変わるらしい。今にも射殺さんばかりに五条を睨み付けていたのに、夏油が「落ち着け」と声を掛けるや否や途端に頬を赤らめ瞳を潤ませ、日頃のか弱い姿へ戻るのだ。誰の目から見ても明らかだった。この爆弾持ちの同級生、夏油に惚れているらしい。
 あとは、とんとん拍子に事が運んだ。告白したのは、やはり男からするべきだと考えた夏油からで、彼女は顔を真っ赤にさせて何度も何度も首を縦に振って応えた。世話焼き同級から恋人に関係は移行され、彼らは高校生らしく清く正しいお付き合いを三ヶ月に渡り続けた。

 そして今日、夏油の部屋へ遊びに来ていた彼女との雰囲気作りは万全。華奢な肩にそっと手で触れて、ようやく初めての口付けを交わそうとしたその時、彼女からのか弱い待ってが掛かったのである。

「ち、違うの……その、夏油が」
「ん? 私がなに?」
「げ、夏油が、その」

 両手まで赤くして顔面を覆い隠した彼女は、今にも消えてしまいそうなほどか弱く、夏油の中の有り余る庇護欲を唆る。よしよし、と肩を撫でてやりながら余裕を持って優しく先を促すと、彼女はやっとの思いで重たい口を開いた。

「夏油の顔面が良すぎてダメ!」
「……ん?」

 だが、彼女の口から飛び出した言葉は、夏油の余裕を簡単に打ち砕いた。

「私の顔が、その、なんだって?」
「だ、だから夏油の顔があまりにも良いからキ、キスなんてそんな大それた事出来ないって言うか、その居た堪れなくて死にそうになるから無理ぃ!」
「……」

 どれだけ夏油の顔面が良いかについて早口に捲し立てる彼女は、本当に自分の恋人なのだろうか。いつの間にか顔面を覆っていた手は、所在なく宙に浮いてしまった夏油の両手を掴み、彼女の瞳は火がついたように熱い炎を湛えている。
 今度、逃げ腰を打つのは夏油の方だった。あまりの気迫に思わず腰が引けて頬が引き攣る。尚も彼女の口は止まらない。

「初めて見た時からもうずっと好きすぎて、顔が良いなあって眺めてるだけでも幸せだったのに、まさか告白までされちゃうし、でも口開くとこんな風にマシンガントークしちゃいそうでずっと我慢してたのに、もう夏油が、あ、あんな事しようとするから!」
「ご、ごめん」
「無理本当に無理、夏油の顔面が良すぎて私なんかとキスとか、そ、そそそれ以上とかするって考えたらなんかもう申し訳なさすぎて死にたくなる」
「死なないでくれ、頼むから」
「うう……ほら、そうやって困った顔するのもズルいぃ」

 彼女曰く、五条の顔は確かに美しいのだが好みではなく、夏油のような顔の男性に昔から弱いらしい。熱が冷めたのか、さめざめと語り出す彼女の背には悲哀すら感じられて、夏油は引くのも忘れその背を撫でてやりながら何度も相槌を打った。

「要するに、君は私の……顔が、好きなわけだろう?」
「うん」
「返事が早いな。で、だ。そんな風に言ってもらえるのは有難いんだけど、私としてはもう少し普通の男女間の付き合いがしたいんだけど……分かるかな?」
「……うん」
「今度は返事が遅い……」

 か弱いと思っていた彼女だが、どうやら自分の意志には忠実であるようだ。余程、彼女の良心とやらが咎めるのだろう。再度頬に触れ、顔を上げさせるとこの世の終わりだとでも言いたげな表情をされてしまった。
 何だかこちらが悪いことをしている気分になるが、現状夏油に非はない。こちらもこちらで良心の呵責に耐えながら、ゆっくりと顔を傾け近づいて行く。

「この距離でも無理?」

 鼻先が触れ合うほどの距離で止めるのは中々に忍耐が行った。だが、ここで強行突破したが最後、既に限界を感じている彼女の心臓が本当に止まっては困るし、耐えきれないと別れを告げられる事も絶対に避けたい。
 囁くように問いかける夏油に、目前の顔が真っ赤に染まり、瞳が潤む。日頃見ていたか弱い彼女の表情に、もしやこれはいけるのではないか……と期待が顔を覗かせた。しかし、

「夏油の睫毛まで見える……むりぃ」
「ああ、そう」

 まずは、顔に慣れるところから始めなければならないようだ。

20210330