四月、君に嘘をついた



 春先の暖かな日差しが差し込む街路に、似つかわしくない格好をした男が立っていた。目を疑い、一度目蓋を閉じる。開く。男は、尚もそこに立っている。あの頃より更に伸びた黒髪と僧侶のような袈裟姿。そう言えば、新興宗教の教祖になったんだっけ。昔から柔らかな物腰で人心掌握に長けていたし意外と天職だったのかもよ、なんてひどい現実逃避をする。

「久しぶりだね、元気そうで何よりだ」
「夏油君こそ。似合ってるよ、その袈裟姿」

 そう? ありがとう、なんて笑う顔は以前と変わらないのに。人ひとり分の距離を保ったまま、お互いに笑い合う。思えば、新宿で最後に会った時もこんな風に会話をした。あの時の私は、子供のように泣きじゃくっていて、今のように笑うなんて絶対に出来なかったのだけど。



 特級呪術師夏油傑が、任務の途中に高専から離反、呪詛師に成ったのは、今から五年前の事だ。苦々しく表情を曇らせた夜蛾先生に、それを告げられた時の衝撃は今でもしっかりと覚えている。五条君は、親友の突然の離反を信じる事が出来ず暫くの間荒れていたし、同学年で一番冷静だった筈の硝子も、表情にこそ出さなかったが多少は困惑しているようだった。そして私は、ただただ泣くばかりで、誰に慰めてもらう訳でもなく部屋に塞ぎ込むようになった。以前なら、こんな時は何時だって夏油君が傍にいてくれた。「どうしたの?」と、大きな身体を丸めて、私の目をしっかりと見て、ひくつく背中を撫でてくれていたのに。もう彼はここに来てはくれないのだと、その事実ばかりが重くのし掛かって、私の生活の全てを支配していた。

 夏油君は、離反して半年ほどが経過した春に一度だけ私達の前に姿を見せた。寮でしか見ることのなかったハーフアップの黒髪と、ラフなスウェット姿の彼は、未だ身動きを取れずにいた私とは対照的な晴れやかな笑みを浮かべて「あまり元気はなさそうだね」と宣った。どの口がそれを言うのか、とザワザワとした怒りを覚えたから、その日の事もよく覚えている。
 夏油君が新宿に居ると連絡をくれたのは硝子だった。五条君も新宿に急行したと言う。補助監督が運転する車から飛び降りた私は、彼らから一歩遅れる形になりつつも、無事夏油君と会う事が出来た。
 気がつけばぼろぼろと涙を流していた。任務帰りで集中力に欠けていたせいですっかり傷だらけになった私は、華やかな新宿の街でひどく浮いた存在だった。道行く人達が遠巻きに眺めて通り過ぎて行く。夏油君は、恥ずかしがる事もなく笑みを浮かべたまま、人ひとり分の距離を保った上で私の名前を呼んだ。その声が、私を慰めてくれていたあの頃と全く変わらない色をしていたものだから、余計に涙腺が緩んでしまう。

「やめてくれ。心配で心配で、決心が鈍りそうになる」

 嘘つきだ。決めたら梃子でも動かないような頑固さがあるくせに、口では優しくするなんてあまりにひどい仕打ちではないか。絆創膏と包帯が巻かれた腕で涙を拭う。傷口にひりつくような痛みが走るが気にしなかった。一瞬でも視線を外すと、夏油君が消えてしまいそうな気がして、私は片時も彼から目を離さなかった。
 それから夏油君は、何も語ってはくれなかった。痛ましいものを見るような目で私を見つめて、それでも口元は薄らと笑みを浮かべたままで。だから、私の方が口を開いた。
 好き。多分、そう言ったと思う。ずっと心の中に秘めていた感情だったが、口に出してみれば愛の告白と言うのも呆気ないものだ。雑踏の中であっても、夏油君の耳に私の涙混じりの汚い告白は届いた事だろう。しかし、彼は返事をくれなかった。人混みに飲まれるようにして、私の前から姿を消したからだ。
 一年後の春、呪術高専を卒業と同時に私は呪術師を辞めた。後輩の七海がやけに神妙な面持ちでこの選択をした私を見ていたように思う。

 それからの四年間、非術師の世界特有の荒波に呑まれながら、私は今日まで一社会人として生活して来た。職場も一度転職はしたけど、今の会社は人にも恵まれて我ながら順風満帆な生活を送れていると思う。そうして段々と、記憶に焼け付いた大きな背中を忘れていったと言うのに、夏油君はまた、こうして私の前に現れた。忘れるなんて許さない、と言われているように思えた。

「ちょうど車でそこの道を通り掛かってね。見知った姿が見えたから降りてみたんだが、この街は相変わらず猿が多くて嫌になるね」
「私も今やその猿の一員だよ、夏油君」
「ああ、そう。それ、それだよ。わざわざ猿共の中に身を置くなんて正気じゃない。まったく、あまり心配を掛けないでくれ」
「心配してくれてるんだ」

 饒舌に話していた夏油君が、私の言葉にキョトンと幼い表情を浮かべる。次いで、顎に手を添えてほんの少し悩みあぐねた様子を見せた後、再度口を開いた。

「少し、私と散歩でもしようか」
「え?」
「今の君は呪術師じゃないだろう。なら、私を捕まえる必要はない。ただの昔馴染みとして、お喋りでもしようじゃないか」

 まさかの提案に面食らう私を置いてけぼりに、ひとり決断した夏油君がこちらへ向けて大きな掌を差し出す。「おいで」優しい声だった。だから、私はいけないと分かっていてもその手を取ってしまった。

「悟や硝子とは、もう会っていないの?」
「うん。高専時代の仲間とは特に連絡取ってないな。そっとしてくれているのかもね」
「そう。寂しくはない?」
「今は、別の友人も出来たから。夏油君こそ、ひとりで呪詛師に成って寂しくはないの?」
「全く。新しい家族も出来たからね」

 彼の言う家族がどんなものか私には皆目見当もつかなかった。けれど、そう話す夏油君の表情に曇りは微塵もなかったから「良かった」と心の底から安堵の言葉が溢れた。ふと、視線を感じて顔を上げる。柔らかく弧を描いた夏油君の黒目と視線が合った。

「相変わらずだね、君は」
「どう言う意味?」
「甘ちゃんだな、って事。貶してないよ。褒めてるつもり」

 これには少々カチンと来た。口ではちゃんと訂正していても表情が雄弁に語っている。繋いだ手の甲に軽く爪を立ててみる。夏油君は「痛い痛い」と嘘っぽく慌てて小さな声で笑った。

「これでもね、私は本当に君の事を心配していたんだ」

 話が切り替わったのを察知して、立てていた爪を引っ込める。もう、彼の目は私の方を向いてはいない。真っ直ぐと前を見据えて、桜並木を歩いていた。

「五年前の君の泣き顔は忘れていない。この選択を変えるつもりは毛頭なかったが、君をあのまま連れて行こうか本気で悩んだ」

 ああ、あの時の決心が鈍りそうになる、とはそう言う意味だったのか。ひとりで納得して、胸の奥が騒めくのが分かった。もし、あの時私が人混みに飲まれる彼を探し出したとして、広い背中に飛びついていたら、私は違った未来を歩んでいたのだろうか。毎日満員電車に乗り込み、パソコンに向かい、残業代を稼いで、寝て、起きて、繰り返しの満ち足りた日々は、違った色を見せていたのだろうか。そんな事を、この一瞬の間に夢想した。
 夏油君がピタリと足を止める。通りの先には、一台の黒塗りの高級車が停まっていた。多分、夏油君の車だ。運転席から知らない男性が降りて来て後部座席のドアを開ける。一連の動作がスローモーションのように視界に映っていた。

「一緒に来る?」

 それは、あまりに甘くて、優しくて、懇願するような弱々しい響きを持って、私の鼓膜を揺らした。夏油君らしくないね、なんて笑ってやりたいのに言葉が出ない。繋いだ手は、私の身体を引っ張り込む事もなく、そのまま二人の間に垂れ落ちたままになっている。揺れる視界で夏油君の顔をもう一度見上げた。彼は、笑ってはいなかった。共に赴いた任務先でもあまり見た事のない真剣な表情をして、ジッと私を見つめていた。
 無言だ。二人の間を暫しの無言が支配した。五年前と同じ。だから、また私の方から告げるべきなのだ。

「夏油君、好きだったよ」

 今日はエイプリルフールだから、ほんの少し嘘を混ぜ込むくらいは許されるだろう。私のささやかな嘘を見抜く事など夏油君には容易いはずだし、何よりこんな事で怒るような人ではない。現に、彼はほんの少しだけ寂しそうに微笑むだけで私を責めるような真似は一切しなかった。

「残念、振られてしまったか。これでも今まで一度も女性から断られた事はなかったんだけどな、私」
「昔からモテてたもんねぇ。夏油君の初めてもらえるなんて良い気分だよ、私は」
「ふふ、そう……そっか……」

 噛み締めるような呟きが落とされて、また暫しの無言。一度、手を強く握りしめられたのは、桜の花弁が風に舞上げられたその瞬間で。不覚にも、春風に艶やかな黒髪を靡かせる彼の姿を、綺麗だな、と思ってしまう。

「やっと安心出来た」

 繋いだ手は、あっさりと離れていった。微かな熱だけを残して解放された手が、なんだか寂しい。一歩、二歩、と身体の距離すら離れて行って、どうしようもない事実を今更突き付けられたような感覚に陥る。自ら選んだ道を、ほんの少しだけ後悔させる程の強い感情が、今にも足を前へ進めてしまいそうで。それでもなんとか残った理性が、私の足をこの場に繋ぎ止めていた。

「ああ、そうだ。返事をしておかないとね」

 車に乗り込む寸前、夏油君が振り返る。流れる黒髪を片手で押さえる姿は、過ぎた月日を感じさせて彼をひどく大人に見せた。

「私も、君の事が好きだったよ」

 やっぱりひどいよな、この人。何時だって私の事を掻き乱すのに、自分はひとり満足したように笑って消えて行って。
 夏油君の乗った車は低いエンジン音を響かせて走り去って行った。それを見送り、ひとり残された街頭でそっと指先で目尻を擦る。今度は、濡れていなかった。

20210401