逃げ足には自信があった



転生パロ


 生前から逃げ足だけには自信があった。
 担任の先生へのイタズラがバレた時も、夕飯のつまみ食いがバレた時も、勝てないと悟った相手との勝負だって「逃げる」と決めた時の私の足は平常時を大きく上回る速さで駆ける事が出来た。そう言う身体強化形の術式を持っていたのだ。しかし悲しいかな、今世の私には自慢だった逃げ足は備わっていないのである。

 人でごった返すキャンパス内を全速力で駆け抜ける。何度か人に打つかりもしたが今足を止めるわけにもいかず、すれ違いざまに謝罪をする。だが、それがまた大きな誤りであった。背後からどんどん近づいて来るその人が「やっぱり君、名前だろう!」と確信を得たように大声で叫んだ。ただでさえ君は目立つのに、あまり騒ぎを大きくしないでもらいたい。そもそも何故声でバレるのだ――!
 階段を駆け降りながらキャンパスバッグからスマホを取り出し、発信履歴の最上段に君臨している信頼のおける友人へと電話を掛ける。三回のコール後、気怠げに出た彼女に、私は有りっ丈の思いを打つけるようにして叫んだ。

「どうしよう、傑にバレた!!」



 前世を覚えている。それだけ言うと電波系だとかオカルト系だとか、不名誉な称号を与えられがちなので何時しか口に出すのを止めた。幸いな事に前世を覚えている稀な人間が、私の他に周囲に三人はいたので寂しくもなかったのだ。
 一人目は弟、灰原雄。前世で共に死んだ仲だった可愛らしい後輩の彼は、今生私の弟として生を受けた。物心ついた頃には前世の記憶を取り戻していた私と違い小学校に上がるまで普通の子供として過ごしていた雄は、ある日の夜中、突然私のベッドへと突撃し「先輩……!」と大粒の涙を流した。瞬間、悟った。やはりこの可愛らしい弟は、あの灰原雄なのだと。その晩は二人してわんわん泣いて慰め合って何も知らない両親にはこっ酷く叱られた。それ以来、雄とは前世の記憶を共有する者同士兼仲の良い姉弟として暮らしている。
 二人目は雄の親友、七海建人。雄がいるのなら七海もいるだろうと確信していたがやはりビンゴだった。今生でもちゃんと雄と出会ってくれた七海とは、彼が家に遊びに来た時に初対面を果たした。当時小学三年生だった七海少年は、私を見るや否や年不相応の渋い表情を浮かべて「夏油さんとは……」と聞いた。夏油傑、かつての同級生の名前に懐かしい気持ちになりながら首を振った。「あれ、あいつもいるの?」と私が問い掛けると、七海は渋い表情を崩す事なく「そうですか」とため息を溢した。
 三人目は家入硝子。前世でも学内唯一の同性として仲良くしていた記憶のある彼女とは高校で再会した。やはり今生も優等生とはいかないようで、隠れて煙草をふかしていた彼女は、私を見ると小学三年生の七海のように目を見開いてタバコをポトリと口から落とした。そして力強く肩を掴まれたと思えば「夏油とは?」である。しかし、私は傑とは会えていない。気迫に驚きながら首を横に振ると彼女は大きく息を吐いてから一言忠告をくれた。

「夏油と会ったら逃げられないと思え」
「ん?」

 そこから聞いた話は強烈すぎて今でも上手く噛み砕けていない。ただ、分かるのは傑が星漿体の護衛任務失敗後から呪術師と非術師との間でひどく悩んでいた事と、私と灰原の死が拍車を掛けてしまった事、そして山奥の村で起きた凄惨な事件――その十年後、傑が悟の手に掛かって死んだ、と言う事だけだ。
 正直、聞いた時は現実味がなくて硝子が私を揶揄っているのかと思った。しかし、硝子はそんな性質の悪い冗談を言ってくるような人間ではない。何より全てを語った彼女のあまり面白くなさそうな表情を見て「あ、全部本当なんだ」と悟った。その晩、私は布団に潜って泣いた。雄は私に比べて明るいし、物分かりの良いいい子だから傑の最後を聞いて最初は動揺を見せたものの次の日には呆気からんとした態度で「夏油さんに会いたいね」と私に同意を求めた。けれど私は首を縦には振れなかった。これだけ皆揃っているのだ。きっと傑もどこかにいる。だが、会ったところで何と声を掛けたらいい? 自慢の逃げ足も虚しく、庇ってやれたと思っていた後輩を守る事も出来ずに死んだ、傑を追い詰める要因の一つになってしまった私が何を言ってやれるのだろう。だから私は会いたくなかった。一生、傑とだけは顔を合わせたくなかった。

 現実というものは時として残酷だ。私の決意は何だったのか、大学の入学式で私は早速傑を見つけてしまった。元々長身で体格も良く目立つタイプだった傑は、やはり今生でも目立つ男だった。長く伸ばした黒髪をハーフアップに纏め、切れ長の目をステージへと向けて学長の挨拶に耳を傾ける姿は、まさに優等生のそれ。しかし、よく見ると手元でスマホをイジっているのが傑らしくて、彼の二列後ろの席で思わず笑ってしまった。
 入学式が終わってからも傑を度々見かけるようになった。学科や専門分野が分かれていたおかげで講義が一緒になる事はなかったが、学食や購買、中庭や、時には街中で見かける事さえあった。傑は、オネエ風な屈強な金髪外国人と一緒だったかと思えば小学生くらいの双子の女の子と手を繋いで歩いていたりする。彼の交友関係は気になるところだが、やはり顔を合わせる勇気はなく、私は隠れるようにして一年を過ごした。

 だが、二年に上る寸前事態は急変した。前世でも傑の親友であった五条悟に私の存在がバレたのである。

「なんで傑と会わないの」

 硝子とは医学部キャンパスなので私が通うキャンパスから距離がある。その為あまり共に行動する事は出来ず、私達が一緒にいるところを見られる機会はそうなかったはずだ。悟は、長い足で私の真横の壁を蹴り逃げ道を塞いだ。なるほど、これが足ドン。生まれて初めての体験だったがときめきなどは一切ない。サングラスの奥の青い瞳は、昔と変わらず爛々として私を鋭く射抜いていた。

「ま、いいけど。でも覚悟しとけよ。俺は、わざわざお前の無謀な逃亡を手助けしてやるようなお人好しじゃないからな」

 結果として、悟の忠告は現実のものとなった。無事二年に上がり、すっかり青い瞳の忠告を忘れていた桜も散った後の春。中庭に傑と悟そして雄を見た時思った。あ、やばい――と。
 私と雄は前世と同じく一歳差で、私が大学二年になると、雄は当たり前のように同じ大学へと進学した。そうだ、忘れていた。雄、傑と同じ学科に進んだんだった。まず、傑の横に立っていた悟と目が合う。二階からでも分かる。あいつ、今私の方を見て笑った。悟が傑に何かを囁く。傑が弾かれたように視線を上げる。目が、合ってしまった。
 瞬時に、その場を蹴った。全速力で走る。開け放たれた窓の向こうで私の名前を叫ぶ傑の声が聞こえたから、多分彼はすぐここに来てしまう。今の私には呪力も術式もない。ハンデなしお互い全力、純粋な男女の差は顕著に現れる。人とぶつかりながら廊下を駆け抜け、階段を駆け降りながら助けを求めた硝子からは「私、これから講義だから。また後で連絡する」と電話を切られてしまった。ひどい、この硝子ひどい。最初に私に忠告したのは彼女なのに、いざその時になると「諦めろ」の一言さえ言ってくれない。

 どうにか追いつかれる事なく一階に降りる事が出来た。どうする、中庭に逃げるのもいいが必ず悟に捕まる。雄も傑が捕まえるように言えば「ごめんね、姉さん」と可愛らしい笑顔と共に私の腕を掴むに違いない。そうだ、回り道にはなるが棟の周りを一周して裏門から家へ帰ろう。明日からの事はまた後で考えればいい。決定すれば後は早い。呼吸を押し殺して人気のない裏道へ足を踏み入れようした時、背後から伸びた二本の腕が私を縫いとめた。

「捕まえた」

 背後は壁、真横には二本の逞しい腕、前方には肩で息をして眼光鋭く私を見据える夏油傑。もう逃げる事は叶わない。意味もなく両手を上げて降参を示した。私の逃亡劇が幕を閉じた瞬間である。

「灰原と家族になったんだって……?」
「う、うん。年子で、私が雄の姉」
「七海や硝子、それに悟まで既に君と会っていたと聞いたけど……?」
「そ、そうだよ……」

 心なしか傑の肩が震えている気がした。問いただす声は怒りを押し殺したような色をしているのに、醸し出される雰囲気が言葉にそぐわない。だから思わず「傑?」と声を掛けてしまった。傑は、泣いていた。正確には目に涙を溜めた段階でまだ溢れてはいなかったのだけど、目尻は赤く染まり薄い唇は決して嗚咽を漏らさんとばかりに固く噛み締められていた。彼は一瞬息を詰まらせて、震える声で私の名前を呼ぶ。そして、壁についていた両腕が私の背中と後頭部を掻き抱いた。

「どれだけ私が君を探したと……っ」

 黒いロングTシャツ越しに感じる傑の体温はあまりに高くって、少し汗をかいていたから彼本来の香りが私の身体へと強く染み込んで行く。両手を傑の胸について、私もきつく唇を噛み締めた。そうしなければ泣いてしまいそうだったのだ。

「記憶を思い出して悟と会ってからずっと、ずっと考えていた。もし君に会えたらまず何を言おうか、今度は、っ、どう君を守ろうかって……ずっと、長い間考えて生きて来たんだ。なのに君は、今日この日まで私を避け続けて……!」

 傑は、もう抑える事を放棄したようだった。私の背中に回った腕には折らんばかりに力が篭り、後頭部を押さえつける掌は今にも私の頭蓋骨を割ってしまうのではないかと不安になるほど震えてしまっている。

「何か、何か言ってくれよ……っ」

 あまりにもその声が悲痛な色を帯びていたから、状況も忘れ涙がボロっと溢れ出てしまった。

「ごめん、ごめんね、傑、ごめんねぇっ」

 一度流れ出た涙を止める事は出来ない。胸についていた手で傑の服を握り締めた私の口からは、長年蓄積されて来た罪悪感だけがボロボロと流れ落ちて行く。

「ごめ、私が、灰原守れなかったからぁ」
「違う、君が悪いんじゃない! あれは、仕方がなかった事で……」
「でも、傑、沢山悲しんだって、苦しんだって、聞いたから……ごめんね、本当にごめんねぇ」
「名前……」

 多分、私が子供のように泣きじゃくったせいで傑は吃驚したのだと思う。目尻は赤いままだったけれど、もう彼は泣いていなくて。止まる事のない私の涙をハンカチで拭う顔は、昔の優しい傑と何も変わってはいなかった。だから余計に申し訳なくなって、私はしゃっくりを上げて鼻を啜った。そうすると今度はティッシュを差し出される。流石にそれは自身の矜持を守るためにも慎んで辞退させて頂いた。

「私はあれで良かったんだ。だから君が謝る必要は本当にないんだよ」

 場所は変わって中庭のベンチにて。もう雄も悟もいなくなったそこで横に並び座った傑は、困ったように眉を下げながら未だ涙を流し続ける私を諭すように語り掛ける。私の手には傑が貸してくれたハンカチがあって、青いタオル生地のそれは既に大量の水分を吸ってぐちゃぐちゃになっていた。輪を掛けて申し訳なくなったので今度新品をお返ししようと心に決めつつ、流れる涙をまた拭う。

「でも、私罪悪感が消えなくて……」
「優しいね君は。もういいって私が言っているのに」

 その間も傑は、私の肩を抱いて優しく上下にさすり続けていた。ひっく、ともう一度しゃっくりを上げて俯く。すると頭上から苦笑が聞こえて顔を覗き込まれた。

「どうしても、と言うなら一つ約束してくれないか」
「なに?」
「もう私の前からいなくならないでくれ。片時だって離れず一緒にいて、今度こそ君を守らせてほしい……ずっと、これが言いたかったんだ」

 そう話す傑は、少し恥ずかしそうに頬を染めていた。それがあまりにも珍しくて、同時に涙がピタリと止まる。そうして意味を噛み砕く内に、私まで頬まで熱くなるのが分かった。先程とはまた違った意味合いで熱くなる目蓋を必死に堪えて、そっと唇を開いた。

「やっぱり、その、まだまともに傑の顔見て話せそうにないし……それに、傑こそそんな風に責任感じる事ないんだよ?」
「……」
「傑があれで良かったって言うのと同じように私もきっとあれで良かったんだよ。灰原……雄の事守ってあげられなかったのは心残りだけど」
「……ああ、そうだね。そうだった」

 意を決して話したと言うのに、傑の顔からはどんどん表情が抜け落ちて行く。悟は別枠として傑だって目鼻立ちが整っているから、背格好も合わさって彼の無表情は中々怖い。私の懺悔のような告白に淡々と頷いた傑は、何か重たい物を吐き出すように溜息を吐くとポケットからスマホを取り出す。視線を外さぬまま「出して」と言われ「はい?」と返す。

「スマホ、出して。連絡先交換するよ」

 「しよう」でなく「するよ」とは、どうなんだろう。断るのは得策でない気がして同じようにスマホを取り出せば通知一件、硝子から一言「捕まった?」と届いていた。多分、それは傑にも見えていたのだろう。露骨に眉を顰めたかと思えば、パスワードを入力した私のスマホを取り上げて慣れた様子で操作する。そうして返ってきたスマホの連絡用アプリには夏油傑の名前が表示されていた。

「何時が空いてる?」
「ん?」
「君の事だからハンカチ買って返そうって思ってるでしょう。本当はそのままあげちゃってもいいんだけど、それだと気が済まないだろうからありがたく利用させてもらう事にするよ」
「んん? 利用?」
「それで、何時なら空いてる? 私は今週、土曜日はダメだけど日曜日ならフリーだよ」

 日曜日は、夜はバイトが入っていたが昼なら空いていた。予定が合ってしまった以上断る嘘もつけず了承すれば、着々とスケジュール帳に予定が組み込まれて行く。とりあえず十一時に新宿駅で待ち合わせをして、昼食を取ってから新しいハンカチを探しに行って、そのお返しに傑が何かプレゼントしてくれるらしい――と、これでは堂々巡りな気もするのだが指摘するだけの勇気が今の私にはない。
 きっちりと予定を作り上げたおかげか、傑の機嫌は無事戻りつつあった。彼は、楽しそうに頬を緩めて私の手に自分の手を重ね合わせた。そして、そのまま顔を覗き込まれる。

「いいよ、また逃げても。でも、みすみす逃がす気はないからそのつもりでね」

 口元はにっこりと笑っていたが目が全く笑っていない。そんな器用な笑い方を見せる傑に、かつて自慢だった足がうずうずと疼き出す。まるで逃げろと言っているようなそれ。けれど手を取られている以上逃げ出す事も叶わず、私は引き攣る頬を隠せぬままゴクリと生唾を飲み込んだ。

「ああ、そうだった。硝子にはちゃんと返しとくんだよ。捕まった、って」

20210326