ごめんなさい



 翌朝、目が覚めた頃、太陽はすっかり頭上へ昇りきっていた。
 寝ぼけ頭のまま昨日の宴会場に顔を出すと、傑は怖い顔をして腕を組んで立っていた。彼の前には村長と数人の村人が青い顔をして座り込んでいて何となしに何がかったのか悟った。
 補助監督が運転する帰りの車内で、補助監督に事の顛末を聞かされる。あの村では、余所者の男を招き入れ女を充てがう事で子供を増やすというやはり時代錯誤な事をしているらしく、あの時傑が飲まされそうになっていた酒には精力剤が入っていたそうだ。実際には、精力剤とは名ばかりの村に生えている薬草を煎じた品物で、そのものには大した効果がなく少々気分が上がる程度の物らしい。なるほど、私はそのなんちゃって精力剤と酒の合わせ技にまんまと踊らされて昨晩あんな赤裸々告白をしてしまったわけか。
 さて、件の被害者である傑だが、朝からまったく口を聞いてくれないし目線を合わせてもくれない。今も窓辺に頬杖をついてそっぽを向いているので私には彼の長い黒髪しか見えなかった。高専の制服を着て髪を下ろしている傑はレアだ。何時もなら目に焼き付けようとジッと見つめるところなのだが、髪を纏めるためのゴムを引き千切ったのは他でもない私なのだから不躾に眺め続けるわけにもいかない。
 補助監督との会話が終わると車内は重たい沈黙に包まれる。これまでにも何度か任務を一緒になっていた補助監督は「夏油君、今日は静かですね」と笑いながら話しかけてくれるが当然のように返事はない。多々問題はあれど優等生として認識されていた傑が無視した事に驚いているのだろう。困ったような顔をした補助監督とバックミラー越しに目が合ったので軽く頭を下げた。ごめんなさい、傑は悪くないんです。悪いのは全て私なのでどうか傑を悪く思わないでやってください。そんな念を送っていると、横で窓の外を眺めていたはずの傑の切れ長の目がほんの少しだけこちらに向けられている事に気がついた。
 弾かれたように目線を合わせて少し後悔をする。傑の目が冷たい。

「あ、あの、傑」
「……」
「傑って、まだ呼んでもいい?」

 無言のまま眉だけがピクリと反応した。見る見る内に不快そうに顰められる眉根に背筋が凍りつく感覚に陥る。

「逆に聞くけど今更夏油って呼ぶ気あるの?」
「ない……ね」
「あと、昨日事ちゃんと覚えてる?」
「大体は」
「そう」

 あとは無言。傑は考え込むように腕を組んでまたそっぽを向いてしまったし、私も会話を切り出す勇気がなかった。
 そんな気まずい車内時間を過ごす事、二時間半ようやく高専のある莚麓山まで戻って来た。車は正門前に泊まって、私達はそこで降ろされる。後は坂と階段を登って校舎へ向かえば良い。道中の所要時間は五分程と短く、何時もならば楽しくて永遠に終わらないで欲しいと思うその道が、今は地獄のように感じられた。傑の大きな背中を追うように坂を登り、階段を上がり、やはり傑の背中と一定の距離を保ったまま夜蛾先生に任務終了の報告を終えた。
 これまた距離を保ったまま戻った教室では、五条と硝子が何時もの様子で待っていた。労りの言葉もなくニヤつきながら右手を差し出して土産の催促をする五条と、携帯片手に視線も寄越さず「お疲れー」と軽く言葉を掛けてくる硝子。何時もなら五条の態度にはキレるところだ。そして傑がいつも止めに入って、あとは売り言葉に買い言葉で傑と五条が喧嘩を始める。数日前には当たり前のようにあった光景が脳裏を過り、昨晩緩んでいた涙腺を刺激する。

「え、なに泣いてんのお前」
「泣いてない!」
「泣いてんだろ。目、真っ赤だぞ」
「こ、これはものもらいだし!」
「いや、無理あるだろそれ」

 普段の傍若無人な態度からは考えられないが、五条は意外と聡いところがあるので困る。頼むからリーチの差を活かして先回りして顔を覗き込んで来るのはやめてほしい。人には触れられたくない部分もあるのだと、五条はもう少し知るべきだ。
 そんな無謀な攻防戦を続けていると、何の前触れもなく大きな掌で目元を覆われる。触れた温度は昨晩ほど熱くはなく、どちらかと言えばヒンヤリとしていて、泣き腫れた私の目蓋を冷やしてくれるようだ。

「悟、やめな」
「うげぇ、保護者登場……って、傑、お前も髪どうした? イメチェン?」
「任務でね。髪ゴムを引き千切られたんだよ」

 勿論、髪ゴムを引き千切ったのは私である。だが、そんな事を知らない五条は傑の珍しい失態にゲラゲラと笑うので罪悪感ばかりが募って行く。やめてくれ、本当に傑には何の非もないのだ。
 今朝から降り積もった罪悪感は爆発寸前まで膨れ上がり今にも押し潰されそうで、私は五条に説明しようと口を開いた。だが、目元を覆う掌とは逆のもう一つの掌が勢いよく口に蓋をする。鼻以外全てを傑の掌で覆われた状態でバタバタともがいた。せめて口元だけでも引き剥がそうと手首に指を掛けるがびくともせず、今度は抜け出そうと中腰になってみるが腕力にものを言わせるようにその場に引き留められる。
 見なくてもわ分かる。今の私の姿は滑稽で、五条は勿論硝子からも引き気味の声を頂いてしまった。だが、ここで諦める私ではない。これ以上傑に汚名を着せるような真似はしたくない一心で抵抗を試みる。すると、慣れた傑の香りがふと近づいている事に気がついた。耳元に軽い吐息がかかる。

「今夜部屋に行くから話をしよう。窓、開けておくんだよ」

 私は、幼稚園の頃から傑の事が大好きだ。ずっと近くにいたかったし、これからだってずっとそう。けれど、こんな風に至近距離で耳元に囁かれた経験などほとんどなく、あまりの刺激に私はピタリと抵抗を止めた。まず、目元を覆っていた掌が剥がれて行き、目の前にポカンとした間抜けな表情をした五条が現れる。次いで確認するように口が開放された。唯一冷静に一部始終を傍観していた硝子が「口開いてるよ」と鋭く指摘する声だけが、たった四人しかいない教室に響いていた。

 こんな一般から外れた学校でも一応男女のあれこれと言うのには規則が設けられており、談話室等の共用スペース以外の居住スペースは全て男女で分けられている。男子寮と女子寮の距離は近いが、間には寮母さんの居住区があるので行き来は慎重にならなければいけなかった。特別煩い人ではないのだがやはり学校の規則は重んじているようで、一度五条の部屋で桃鉄完徹パーティーを催した時、寮母さんから通報を受けた夜蛾先生に軽く絞られた事があった。それ以来、私達は互いの寮への侵入経路として裏庭を通り過ぎて窓から入ると言う泥棒じみた真似をするようになっていた。
 コンコンと二回ノックがあって、返事を待たずに窓を開けて部屋に入って来る。入浴を終えて来たのか制服から部屋着に着替えていた傑は、慣れた様子でサンダルを来客者用靴箱代わりにしている広告の上に置いて私の前に座った。

「まどろっこしいのは嫌いだから単刀直入に聞くよ。君、まだ私の事が好きなのか?」

 この前三人が遊びに来た時にジュースを溢してしまったラグは処分した。新しい物は取り寄せたばかりで、今は何も敷かれていない板張りの上で互いに向かい合う。
 言葉通り単刀直入に核心を突いて来た傑の顔は驚くほど真剣だ。硝子や京都の歌姫先輩にはクズだと評判の傑だが、根は真面目で驚くほど他者思いな事を私は痛いほど知っている。フるなら徹底的にして、ってあれほど言ったのにやっぱり傑は優しすぎるな。胸の内を確かに締め付ける感情を表に出す事はしなかった。首を縦に振ると、傑は「そっか」と一つ頷きを返す。

「一つずつ話をしようか。ちゃんと聞いてくれるね?」

 一人称も話す口調も、傑は年の割に大人びているから、こうして話していると私がいかに子供じみているか思い知ってしまう。そして、やはり私は子供のように頷く事しか出来ない。

「正直に話すと、君が私の事をそう言う意味で好きでいてくれているのは、中学の卒業式よりもずっと前から知っていたんだ。あと、私があんなフり方をしたせいで悩み続けていた事も知っていた。いつか折を見て話さなければと思っていたのにこんな形になってしまってごめん」

 知られていた事に驚きつつ、まあ、そうだよな、と納得もする。真摯に下げられた頭に傑は悪くないのだと必死に首を横に振った。話は続く。

「順を追って話そうね。そうだな、まずピアスの事だけど……あれね、ずっと言えなかったんだが」

 ここまで傑が言い淀むのも珍しい。後頭部で軽く纏めた黒髪を弄るように片手を回した傑は少しだけ視線を外して唇を窄める。よほど言いづらい内容なのか、ごくりと生唾を飲んだ。

「あれ、女物だったんだよ」
「え」
「中学の頃はせっかく君が選んでくれた物だしいいか、と思ってつけ続けていたんだが流石に高校生になるのに女物と言うのもね……悪かったとは思っているんだ。ただ、言えば無用に君を傷つけるだけだと思って、」
「……い、言ってほしかったなぁ」
「あああ、ほら。こんな風に落ち込むと思っていたから言わなかったんだよ」

 まさに死刑宣告を待つ被告の気分、そんな思いで待っていただけにショックは大きい。いや、何を言っている。これに関しても悪いのは女物と男物の区別もつかずに贈ってしまった私であって、傑は私を傷つけまいと一年以上我慢してくれていたのだ。本来ならば謝罪するのはこちらの方で、ましてや責めるなんてお門違いにも程がある。
 項垂れたまま謝罪の言葉を探す私を、ショックのあまり放心状態になったのだと傑は思ったらしい。少し慌てた様子で背中を撫でてくれる掌は必要以上に優しくて、グッと込み上げるものを飲み込んだ。

「いや、本当、傑は悪くないし……むしろ私がごめん。恥ずかしかったよね……」
「まあ、うん……でも今もあのピアスはちゃんと取ってあるんだ」
「嘘っ、捨ててよかったのに」
「捨てられるわけないだろう。君が一生懸命選んでくれたのは渡してくれた時の様子で伝わっていたし、何より嬉しかったからね」

 眉を下げて微笑む傑の顔に中学生の頃の傑を重ねてみる。ファーストピアスを贈ったあの頃は、まだ今よりも少し細くて少年らしさがあったから、たとえ女物でもギリギリつけていられたのだろう。現在の傑が、あれをまたつけたとして――似合わない事はないだろうがいたたまれない。土下座して詫びたくなる。

「でも、でも、本当に要らなくなったら捨ててね……その方が私の精神面にとってもいいから……」
「はいはい、分かったよ。まったく頑固なのは変わらないな。だからずっと私を追いかけてくれているんだろうけど」
「その、改めて言われると死ぬほど照れるから、やめて」
「ふふ、少しは昨晩の私の気持ちが分かったかな? さて、続けようか」

 正面に座っていた筈の傑は、何時の間にか私の横に座り直していて、その距離は肩と肩がくっつきそうなほどに近い。
 今朝の不機嫌が嘘のように傑は笑顔で続きを話す。幼稚園の送迎バスで私が呪霊を見て驚いた時、自分も実は驚いていた事とか、小学校で違うクラスになった時、泣いた私の事を宥めてくれていたけれど家に帰ってからおばさんの前で泣いてしまった話など、とりとめのない過去を楽しそうに語った。私は、恥ずかしさ半分嬉しさ半分でソワソワと落ち着かない気持ちになりながら何度も相槌を打っては、込み上げてくるものを何度も押さえつけていた。
 話はどんどん進み、現代軸へと移行する。高専に入り、初めて親元を離れた事で私の面倒をみようと躍起になっていた、と薄い唇から漏れた瞬間は文字通り飛び跳ねて驚いた。アンタは私の保護者かと何度も心の中で呟いていたが、まさか本当に保護者のように見守っていてくれているとは思わなかったのである。

「だからね、君が私宛の手紙を燃やしていた事も知っているよ」
「え」

 高揚していた気持ちが一気に萎えた。頬に帯びていた熱が急激に冷めて、手がわなわなと震え出す。そんな私に、傑はにっこりと狐のように目を細めて笑いかけた。

「さっき言っただろう? 君が私の事で悩み続けていた事は知ってるって」
「あ、ああ、あああ、で、でもな、なんで止めなかったの?」
「さあ、どうしてでしょう? 硝子いわく私も悟と同レベルのクズらしいよ」

 ああ、でも、と傑は笑みを消した。

「言っておくけど私、そんなに遊んでないからね。まったく何を聞かされたのか、突然抱いてくれなんて年頃の女の子が言うものではないよ」
「へ、え、ええ」
「それなのに君は私の髪ゴムを千切ってわんわん泣くだけ泣いて寝てしまうし、朝もずっと私の様子に怯えるばかりでまともに話すら出来そうになくて、挙句の果てには「まだ傑って呼んでもいい?」だってさ。怒りたくもなるだろう」

 先程私の背中を撫でてくれていた傑の手が目前に迫ったと思いきや、額に衝撃が走る。一瞬の事だったので反応が遅れたが、表皮を通り越してジンジンと頭蓋骨に響くような痛みにデコピンされたのだと知った。傑は間違いなく学年一のパワータイプだ。そんな傑が容赦なく繰り出したデコピンの威力は計り知れず、私は落ち窪んだかに思われた額を押さえてのた打ち回る。その間も傑は明るい笑い声を上げていて、私は初めて傑をクズだと言う硝子の気持ちが分かった気がした。
 ゴロゴロと転がっている内に痛みは落ち着いて来た。もはや起き上がる気力さえもなく、寝転んだまま傑を見上げる。片膝を立ててそこに頬を押し付けるようにして私を見下ろす傑の頬は柔らかく緩んでいる。切れ長な目もやんわりと弧を描き、形の良い薄い唇も同じように弧を描く。痛みを忘れ胸が疼いた。ずっと込み上げては私を苦しめていたモヤモヤがじりじりと焼かれていくのが分かる。

「君が私を好きでいてくれていると知ったのは小学生の頃だ。中学に上がって私が女子に呼び出しをうけるようになると君は目に見えて悲しそうな顔をしたり不機嫌になったりして、私は君のその顔を見る度少し困ってしまってね」
「うん」
「中学の卒業式、帰り道で君から告白された時はなんて返せばいいのか分からなかったんだ。幼馴染の関係はあまりにも居心地が良かったから壊したくなかった」
「うん」
「それなのに君は、それでもまだこんな私でも想ってくれていて嬉しかったよ。本心だ」

 硝子いわく、傑は本気の子はちゃんと断る。私もそう思っている。非術師の子を巻き込むわけにはいかないから。そんな断り文句を考えたのは私で。けれど私自身の傑に対する気持ちは本気で、しかも呪術師なのに一度フラれてしまって、だからこれからもずっと叶わないのだと。私では、同じ土俵に立っていたとしても傑にとってのそういう相手には一生なれないのだと、そんな諦めの隙間からほんのわずかな期待が顔を覗かせる。ドキドキしていた。傑が体勢を変えて、ほんの少し腰を屈めながら上から私を見下ろしたりするからだ。

「私は本気の告白はどれも断って来た。非術師なら尚更で、たとえ相手がどんなに学年で人気があろうと、誘惑してこようと、全部君も知っている同じ答えを返して来た。遊びだって同じだよ。そもそも私はそんなに遊んでもいないし君を悲しませるような真似をした覚えもない」

 傑の声色は、まるで知らない人のように艶やかで、垂れた前髪を耳に掛ける仕草はやけに婀娜っぽく見えた。期待はさらに顔を出して、今や諦めを押しのけようとしている。あれほど込み上げ続けたモヤモヤも、今や風前の灯火だ。
 傑はもっと身を屈めた。昨晩よりも、さらに近い距離。もう完全に吐息が触れて、薄い唇さえ触れそうな距離で傑は、クスリと小さく笑った。

「私は君を抱けるよ」

 モヤモヤは完全に消えて、衝動のまま伸ばした腕で傑の首に縋り付く。すっかり形勢は逆転。私に圧されるまま床に倒れ込んだ傑の髪はまた解けてしまって、頭上からは呆れたような溜息が降って来る。昨晩は額を押し付ける事しか出来なかった胸元に顔を埋めて何度も何度も「大好き」を繰り返すと背中に腕が回された。「はいはい」なんて投げやりな返事だったが、それでも涙が出るほど嬉しくて、嬉しくて。

「もう一声! もっとちゃんとした言葉で言って!」
「ええ、嘘だろ……」

 そう呟く傑の声は、心底嫌そうだったけれど、私の長年の片想いはここで終わらせてはくれない。すっかり消え去ったモヤモヤの代わりに欲が次から次に顔を出す。
 傑はしばらく「あー」と唸り声を上げてから腹筋に力を入れた。さすが鍛えているだけあって私を抱えたまま起き上がった彼は、だらしなく緩み切った私の頬を大きな両手で押さえて呆れたように笑った。

「そんなに私が好きなのなら全部あげるって事さ」

 かくして、クズな私の長い片想いは終わりを告げた。

20210322