七つまでは神の子



夢主が五条の娘(母親は一切出てきません)
夏油傑の特級呪霊化


 幼い頃から人には視えないナニカが見えていた――なんて事は一切ない。墓地を見ても墓石があるだけ、廃墟を見ても何も感じないし、学校のトイレに赤いスカートの女の子はいない。お化けが見えると言う級友を「あの子は嘘つきだ」と友人達と一緒に笑った事もあった。でも、たまに夜に流れるホラー特番は人並みに怖くって、よく真横の大きな腕にしがみついていたように思う。
 私は、周囲の子供達と何ら変わりない普通の人間としてこの世に生を受けた。ただ違ったのは家庭環境が極めて特殊で、代々続く稼業が人には話せないような内容だった事。それと母はおらず、父ひとりしか家族がいなかった事。その二つだけだ。
 東京都内莚山麓、そこに我が家はあった。辺りには田畑ばかりが広がっており、コンビニだって1kmほど歩かないと辿り着けないような辺鄙な土地である。唯一近くには神社仏閣が山ほど立ち並ぶ高等専門学校があって、父はそこの教員をしていた。

「ごめんね。パパ、またお仕事入っちゃったよ」

 父がただの一教員でないと知ったのは、物心がついてすぐの事だった。190を超える長身を折り曲げて幼い私をギュウギュウに抱き締める父は、とても忙しく昼夜問わず仕事へ向かう。
 父は、その日も何時もと同じように上だとかに文句を吐き出しながら私に頬擦りをして、伊地知さんの運転する黒塗りの車に乗って行ってしまった。

「じゃあ、うちの子の事頼んだよ」

 そして去り際に毎回同じ言葉を言う。毎回、私の背後へ視線は向かっていて幼い私は首を傾げる事しか出来なかった。

 私は、五歳になった。多忙な父だったが、私の誕生日だけは必ず休みを取ってくれていた。毎年、生徒だと言うお兄さんお姉さんや硝子さん達を連れて盛大にお祝いしてくれるので、私にとって誕生日は年一回のスペシャルイベントだった。
 けれど、今年もそうなるだろうと期待に胸を膨らませていた私の幼心はズタズタに引き裂かれる事となる。
 誕生日当日。その日は、いつもならハイテンションに「おはようー! 流石僕の子、今日も最高に可愛いね!」と朝の挨拶と共に頬擦りしてくる父が、朝からやけに不機嫌そうに腕を組んでいた。

「パパ?」
「! おはよう。今日はパパとお出掛けしよっか」

 その宝石のような青い瞳をにっこりと細めて、父は寝ぼけた私の手を引いた。何時も伊地知さんが運転している黒塗りの車を父が運転して、たっぷり時間を掛けて到着したのは大きな大きなお屋敷だった。

「いいね。パパから絶対に離れちゃダメだよ」

 と、父が父らしく優しかったのはここまでで、その後父は大いに荒れた。初めて着るような硬っ苦しい着物を着せられて、怖そうなおばさんからここから先は父と手を繋ぐ事さえダメだと言われ、既に半泣き状態だった私は、通された広間で初めて父の立場と自分の置かれた状況、そして父のマジギレを知った。

「よし、決めた。今までこの子の手前ずっと我慢していたけどもう限界。お前ら全員この場で殺す」

 私の後ろで姿勢良く正座していた父が、足を一歩踏み出した途端空気が一変した。周囲を凍り付かせるほど冷たかったのに今は泥に塗れたように重い。
 つい数秒前まで「早く次の子を」「やはりあのような弱小な呪力しか持たない女ではダメだったのだ」「五条家当主の自覚を」「こんな出来損ないが生まれて」と、唾を飛ばしていた着物姿の老人達が一気に青ざめて震え出した。かく言う私も震えている。父は、もう私なんて見えていないようで、私を越して前へ出ると指先を組んで何かをしようとしているようだった。

「パ、パパ?」

 よくない事が起こるのは明白で、父を止めなければと思うのにいざ父を呼ぶと声が震えた。袖を引きたいのに全身が震えて動けそうにない。
 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ――!
 ぼろぼろ涙が落ちて、高そうな着物に大きな染みを作った。いつもなら直ぐに察知して抱き上げてくれる父は振り返って涙を拭ってはくれない。たまらず吃逆を上げた時だった。頭の上に何かが触れて、ゆっくりと左右に何回か揺れた。
 頭を撫でられた? そう錯覚してしまうような優しい触れ方に気を取られていると、突風が吹き荒れる。台風のような風が室内をめちゃくちゃにして、ピタリと止んだ。父はようやく私の方へ振り向いた。とは言っても、視線は私の背後へ注がれている。

「邪魔すんなよ、傑!」

 怒声に驚くより疑問が先立った。すぐるってだれ?

 父いわく、私には呪力と呼ばれる物がないらしい。五条家は由緒正しい呪術師の家柄であり、父はその当主。自他ともに最強と認める特級呪術師であり、五条家相伝の無下限呪術と六眼を合わせ持った歴代をみても数少ない術師なのである、とも聞かされた。五歳の子供に理解出来るはずもない。当然のように私は熱を出して寝込んだ。

「パパ、わたしはじゅりょくがないからできそこないなの?」
「違うよ。お前には呪力があるよ。望むなら強い呪術師になれる。僕が保証する」

 もちろん、呪術師にならなくったってお前は僕の可愛い一人娘だよ。そう父は笑って熱で真っ赤になった私の頬に頬擦りをした。

 転機は七歳の誕生日に訪れた。あれから五条本家には行っていない。父は、たまにひとり訪れているようだけど、私には一切近づかせなかったし会話の中で触れもしなかった。
 誕生日当日、父はオーダーメイドしたと言う大きなケーキを用意してくれた。家のリビングに父の生徒さん達や硝子さんはいない。五歳以来となる二人きりでのお祝いだったが、寂しくはなかった。私よりも大きな口でケーキを頬張る父とチョコレートプレートを巡ってじゃんけんをしたり、プレゼントに欲しかった人形の着せ替えセットをもらったり、久しぶりの親子の時間を満喫していた。それだけに初めて彼を見た時、私は心底驚いた。

「あ、ようやくか。待ち草臥れたよ」

 背後から伸びた手が、私の皿に置かれたケーキのイチゴを奪った。黒い着物の袖から覗いた腕は父の物よりも逞しく、男性の声は父よりも少し高い。振り返って文字通り腰を抜かした。私の後ろにピッタリと寄り添うようにお坊さんのような袈裟姿の長髪の男性が座っていたのである。

「やっぱり七歳が期日かよ。悪趣味だよねお前」
「七つまでは神の子と言うだろう? それに私が意図したわけではないよ。まったく、この猿擬きには七年間ずっとヒヤヒヤさせられたんだ。労りの言葉が欲しいくらいさ」
「おい、僕の娘を猿擬きなんてふざけた呼び方すんな」
「じゃあ、お猿さん?」

 何の説明もないまま父と軽口を叩き合っている男性は、大きな手で私の頭を撫でた。ゆっくりと左右に揺れるその感触には覚えがある。

「すぐる、さん?」
「おや、驚いた。私の名前を知っているんだね」
「パパが、その、本家で一回……」
「ああ、あれか! あれには流石に私も腹が立ったし何より君の父親は完全に頭に血が上っていて、あのままだとスプラッタ映画さながらの光景が広がりそうだったからつい、ね」

 すぐるさんは、狐のように目を細めてケラケラと笑いながら私の髪をぐちゃぐちゃに掻き乱した。背後から父の白い腕が伸びて来る。私の髪を綺麗に戻してすっぽりと腕に囲った。

「でも良かったよ。君に呪力が戻らなかったらその時は呪ってしまおうと思っていたんだ」
「の、のろう?」
「お前まさか傑の事、生きてる人間って思ってたりする?」
「え、違うの?」
「前に呪霊について話したのは覚えているよね? 傑は、それ。夏油傑、僕の親友で元特級呪術師にして最悪の呪詛師。非術師が大嫌いで生前心の底から笑えなかった享年二十七歳。現特級呪霊ね」
「え?」

 人間から出る負の感情が積み重なって出来たものが呪霊。階級があって一番上は特級。パパと一緒だね。夢見心地に以前聞いた父の声が頭の中で木霊する。
 すぐるさんは、相変わらず私の前で胡座をかいたままニヤニヤと笑っている。指先がこちらへ伸ばされて、父と違う黒髪を優しく梳く。

「やれやれ、悟は執念深いねぇ。わざわざ私の最後まで語らなくてもいいだろうに」
「うるせぇ。僕はあの発言が地味にショックだったんですー」
「悟、みっともないよ。もうとっくに三十超えたんだから語尾を伸ばすのはやめな」
「カーッ! 若さアピールかよ、うぜぇ!」
「はいはい。悟も歳の割に若い若い」

 凄い。伊地知さんや生徒さん達でさえ困惑させる父を見事に往なしている。
 頭上で繰り広げられる会話を呆然と聞いていると「さて」とすぐるさんが居住まいを正した。切れ長の目から覗く瞳は髪と同じ真っ黒だ。何処までも深くて目が合うと吸い込まれそうになる。思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。

「改めてはじめまして。私は夏油傑。君が〇歳の時に契約した特級呪霊だ。これから先、末長く宜しく頼むよ」

 もちろん私は、この後熱を出した。

 過去の事を思い出す内に日付が変わっていた。私は今日、十九歳の誕生日を迎える。父は居ない。ホールケーキもない。お祝いしてくれる父の生徒のお兄さんお姉さんや硝子さんも居ない。
 十九歳。東京都立呪術高等専門学校最高学年で迎えた記念すべき誕生日。そんな日に私は、暗い廃墟の中、必死に駆けずり回っていた。

「ほら、頑張りな。追い付かれるよ」
「ああー! そう言うなら契約呪霊らしくアレを祓ってよ! アンタなら簡単でしょう!?」
「こら。そうやって私にすぐ甘える。ダメだよ、そんな事では。いい加減私離れしなさい」
「アンタが、私の、術式!」

 そんなケラケラ笑いながら言われてもまったく心に響かないし怖くもない。崩れ落ちて先がなくなっている階段から飛び降りて無事着地する。幸いにも私を喰わんと追いかけていた一級呪霊の姿はまだ見えない。
 ひとまず安堵して今にも折れそうな柱の影に身を潜めた。一応呪具は持って来ているがこれはあくまでも護身用だ。私の最大の武器はたった今重力を感じさせる事なく優雅に着地した袈裟姿の特級呪霊なのである。

「正確には君の術式によって縛られ契約を結ばされた哀れな特級呪霊がこの私。言い方を間違えられては困るな」

 お坊さんのような格好をして慈愛深く微笑んではいるがこの男、蓋を開ければ生前からクズであったと硝子さんが言っていた。元より、あの父の親友の時点でまともな感性は期待していなかった。ゆえに然程驚きはしなかったし、まあどうにかなるだろうと当時七歳の私はたかを括っていたのだが、いかんせん煽りスキルが高すぎる。
 ニコニコ笑いながら煽る。煽る。煽る。今の決死の鬼ごっこだってずっとふわふわ浮いているこの特級呪霊が私の目の前で手を叩き続けていたのだ。さながらあんよは上手状態である。たとえ〇歳児の頃から知られていたとしても私はもう赤ん坊ではないのでやめてもらいたい。

「それと、君が私に甘えているのは本当の事だろう。呪霊が見えるようになった途端通学路や学校で雑魚を見かけては怯えて直ぐ私の後ろに隠れていたし、夜も怖くて眠れないと騒ぐだけ騒ぐし、宿題で分からない問題があった時も私に答えを、」
「あー、もういいです。すみませんでした確かに甘えてます、はい!」
「そんな事だからずっと準一級止まりなんだよ、お猿さん」

 男性らしい太い指先で容赦なく繰り出されるデコピンはとても痛い。流石に呪力は込められていないが、もし込めていたらと思うとぞっとする。間違いなく今日が私の命日となる事だろう。

「いいかい。言わば君の術式は呪霊操術の劣化版だ。特定の呪霊と契約と言う縛りを交わす事で使役する事が出来るこの術式は、使い方によってはとても強力となる。それなのに君はいつも契約呪霊の私任せで命令なんて一回もした事がないじゃないか。今だって卒業認定試験中だと言うのに私に何とかしろと大雑把なお願いをする始末。だから拒否したんだ。何時もなら助けてあげる私も今日ばかりは心を鬼にしているんだよ。分かるかい?」
「劣化版って言ったな」
「こら、また上げ足を取って。先達の言う事はちゃんと聞くものだよ」

 腕を組んでいかにも怒っていますという雰囲気を醸し出してはいるが、生憎話はまったく頭に入って来なかった。頭上、崩れた階段の踊り場に例の一級呪霊が現れたのだ。

「す、傑、後ろぉ!」

 唾液を垂れ流しながら大きく口を開いた呪霊が私達目掛けて飛躍する。同時に頭部に映えている触手が伸びた。気が付いた時には既に先陣の触手が傑の直ぐ背後まで迫っていて、私の振り上げた呪具の刃は完全に出遅れていた。
 私の位置からは傑の顔と、その背後のソレ、二つの呪霊がよく見える。だから分かってしまった。傑の眉間に深々と皺が刻まれた瞬間、勝敗は決まったも同然だった。

「雑魚が。大事な説教の途中に入って来るな」

 振り向く事さえせずに、背後へ伸ばされた掌から黒い靄のようななにかが飛び出す。靄は瞬く間に触手を捉え、本体である一級呪霊の肉体を一刀両断に切り裂いた。抵抗の隙さえ与えない見事な手腕には何時もの事ながら恐れ入る。靄は既に空気に溶けるようにして消えて、残された私は振りかざしたままの刃を仕舞う事さえ忘れて呆けていた。

「さて、私に言う事は分かっているね?」

 すみません、ありがとうございました。この二言を教えてくれたのは傑だ。七歳の誕生日、呪霊が見えるようになってから毎日片時も離れずに傍にいる特級呪霊は、深々と頭を下げて謝罪とお礼を口にした私に満足そうに笑った。頭部に大きな手が触れる。左右にゆっくりと揺れた。

「よしよし、ちゃんとごめんなさいとありがとうが出来て良い子だったね。まったく、君は私がいないと身一つ満足に守れない駄目な呪術師だな」

 私を煽って、説教をする。それなのに最後はこうして甘やかす。
 傑は、父より細かいし厳しいけれど同時に私に対してとても甘かった。怖かった通学路や学校では「ほら、もういないよ」と雑魚呪霊を祓ってくれたし、眠れない時はずっと横で話をしてくれた。宿題だって最初は怒るけど、何時も答えを教えてくれる。今だってそうだ。まるで「そのままでいいよ」とでも言うかのように傑は私の頭を撫でる。煽って馬鹿にして下に見ながら甘やかす。

「うん、傑がいないと駄目だ、私」
「仕方がない子だね。君が「もういいよ」と言うまでは傍にいるさ」

 たった一言、それを口にするだけで終わる簡単な契約だ。けれど私は、きっとこの契約を終える事は出来ないだろう。
 以前父が言った。お前の呪霊操術に似た術式は〇歳の時に結ばれたもので七歳までの間、呪力は傑に預けていたのだと。苦い顔で語った父を今でもよく覚えている。
 多分、赤ん坊だった頃の私は呪霊が見えた。でなければ契約なんて出来る筈もない。契約を持ち掛けたのは傑で、結んだのは赤ん坊だった私だ。そこから七年間、渡し続けていた私の呪力は、今も傑の糧になっている。

「さ、帰るよ。不本意ながら一応私は君の術式になるのだろうし、これで卒業と一級昇格は間違いないだろう」

 赤ん坊だった頃の記憶があるはずもなく、私には未だ傑側から提示された縛りが分からずにいる。この男の事なのであまり良い条件ではないのだろうな、と頭の片隅で考えながら、私は差し出される手を取った。「ああ、そうだ」私の手を引きながら傑が思い出したように名前を呼んだ。

「誕生日おめでとう。これからも末永く宜しく頼むよ」

 傑は、そう言うとケラケラと呪霊らしく笑った。一瞬背筋が冷えて、振り返るが背後は闇に包まれている。手を引かれるまま傑の背中を追いかけている内に気が付いた。
 あれ、私たちどこへ向かっているのだろう?
 すぐる。呼んだ声はやけに幼く響き、振り向いた傑は穏やかに微笑んで「おいでおいで、あんよが上手」と子供をあやすような言葉で私を手招いた。
 目前には大きな闇がぽっかりと口を開けている。傑の、飲み込まれそうなほど黒い双眼には、それぞれ〇歳と七歳の私が映っていた。

20210317