終焉の邸



生存if 夏油の隻腕描写有


 鼻腔を擽る青い香りが慣れ親しんだそれだったので何の躊躇いもなく目蓋を上げた。
 木目の天井、白い砂壁、い草の匂いを発する青い畳。その向こうには障子紙貼りの引き戸があって、合わせには一枚の呪符が貼り付けてある。泥のように重い身体を受け止める柔らかな布団に沈み込んだまま、夏油傑は疲れ果てたように息を吐いた。
 なるほど、どうやら私はここで生かされているらしい。
 ふと、右腕へと視線を投げれば肩より先がない。乙骨憂太との戦いの中、失った利き腕は胸の傷のように治しては貰えなかったようだ。

「あ、先輩起きましたね」

 ガラ、と呪符の存在などなかったかのように引き戸が開かれる。灯りも点いておらず、暗かった室内に容赦ない陽光が差し込んだ。目を焼かれる気持ちになって咄嗟に唯一残された左腕で目蓋を覆う。そして息を呑んだ。自分の腕は、こんなにも細かっただろうか。

「よかった……もう起きないかと心配していたんです」
「……君、名前かい?」
「はい、先輩。十年振りですね」

 左腕を僅かに上げて確認する。引き戸を閉める事もなく我が物顔で入室した女は、記憶より大人の女性になってはいるが、確かに夏油より一学年下の後輩で間違いなかった。
 彼女は、呪術高専に仇なした呪詛師に対して適切とは言えない軟化した態度で夏油に接する。

「先輩、もう一週間も眠ったままだったんですよ。そろそろ家入さんを呼ぼうかなって考えてたところでした」
「一週間か……それで、ここは何処なのかな?」

 夏油の言葉に、彼女はピタリと口を閉じた。対して夏油は、高専に通っていた頃のような穏やかな会話に終止符を打っても何の罪悪感も湧かない。
 少しだけ唇の端を噛んだのが、未だぼやけた視界に見えた。小さく息を吸って彼女が顔を上げる。下手くそな笑顔が十年前と重なって見えた。

「ここは、高専所有の別邸です。夏油先輩、貴方と私が一生を過ごす家ですよ」



 高専所有の別邸とは名ばかりで実際は五条悟の私有物件である、と知ったのは目が覚めて二日後の事だった。なお、説明をしたのは彼女でなく「やっほー傑ー、生きてるー?」とふざけた挨拶と共に来訪した、この邸の正当な所有主五条悟その人である。
 未だ重い身体を起こせば、背後から慣れたように肘置きが差し出される。それに左腕を置いて、重心を傾ける。布団から出た事で肌寒くなった肩には羽織りが掛けられた。

「甲斐甲斐しいねぇ。なに、お前嫁さん貰ったの?」
「やだな、五条さんってば! 恥ずかしいじゃないですか!」
「君達、二人とも少し黙ってくれないか」

 ああ、そうだ。そうだった。背後の彼女、本来はこんな性格だった。二日前のしおらしい態度は、昏睡状態明けの幻覚だったに違いない。
 溜息と共に額に手を当てようとして違和感を覚える。もう右腕は存在しないのだ。小さく舌打ちをして、左手で重たい額を支えた。

「それで、わざわざ私を生かした理由は?」
「んー? 簡単に言うとレアな呪霊操術を持っていてしかも特級呪術師でもあったお前を失うのはうちの業界で大きな損失になるから。あとお前がたーぶん有しているであろう呪詛師の情報網が欲しかった」
「は?」
「って、そこのお馬鹿で煩い後輩ちゃんに頼まれて僕が上の前で力説したの」
「はあ?」

 まず五条を見て、次いで背後の後輩を見る。額に拳を当てて笑うな、まったく可愛くない。

「ま、当然上も渋ってるわけだけど、なんかあったら僕とそこの一級呪術師がちゃんと責任持ちますって一先ず言い包めてるから。安心して余生を過ごせよ」

 その言葉に驚き、再度振り返る。彼女は、もう額に拳を当ててはいなかったが、恥ずかしそうに笑って指先で頬をかいていた。
 すぐに死んでしまいそうなほど弱かった彼女が一級呪術師にまで上り詰めているとは夢にも思わなかった。思い返せば五条や九十九、乙骨と言った大義を阻む可能性、もしくは利用価値のある呪術師の動向には目を光らせていたものの、それ以下、しかも弱小と思い込んでいた彼女の事などすっかり記憶から抜け落ちていた。それだけに五条の言葉は信じ難く、夏油は細い目を眇めながら、すっかり縮こまった彼女を見下ろした。彼女は「本当ですってばー」と情けない悲鳴を上げる。

「はいはい、後輩イジメはよくないよ。じゃ、僕も今日は帰るから。上の爺さん達に目を付けられない為にも喧嘩はしないようにね」

 夏油の視線に耐え兼ねて、とうとう彼女が畳にへばり付きそうになった頃、五条はようやく腰を上げた。ヒラヒラと手を振って部屋を出て行こうとする長身に待ったをかける。

「悟、前から言おうと思ってたけどその包帯はやめたらどうだ?」

 悪趣味だよ、なんて鼻で笑ってみせれば、五条も振り返って「教祖様よりマシだろ」と笑う。五条は、もう一度だけ軽く手を振って邸から気配を消した。やっぱり規格外だな、あいつ。胸の内でひとり呟く。すると、背後で畳と同化していた彼女がヨロヨロと立ち上がるのが分かった。

「待ちなさい」

 何時だったか、高専で世話をやいていた時のように呼び止めると、彼女は弾かれたように背筋を正してこちらへ振り返る。夏油も肘を基点に上半身を背後へと捻り、空を泳ぐ双眼を見据えた。そうすれば彼女は、嫌でもこちらへ視線を合わせざるを得ない。

「何故、君はわざわざ悟に頼んでまで私を生かそうとしたんだい?」

 問いかけた途端に彼女はあからさまに狼狽出した。合わせていた視線はまた空を泳ぎ、先程お茶を運んで来た際に使用したお盆が彼女の震えに合わせてガタガタと揺れる。青くなったかと思えば赤くなったりと忙しい顔色に、夏油は細い眉を顰めながらもジッと返答を待つ事にした。

「え、ええっと……」
「うん。落ち着いて話してごらん」
「あ、あのですね」
「うん」
「私が、夏油先輩を、助けてほしいって、五条さんにお願いした理由は……っ」

 しかし、彼女どうやら耐えきれなくなったらしい。この部屋には左右両方に引き戸があって、一つは縁側、もう一つは廊下へと続いている。その内の一つ、廊下へと通じる引き戸に手を掛けた彼女は、スパァンと勢いよくスライドさせた。五条の私有邸らしく高そうな造りをしている引き戸が壊れたのではないかと、夏油は内心冷や汗をかいた。だが、幸いな事に引き戸には傷一つ着いた形跡はなく、このまま逃亡するかと思われた彼女もまた廊下側へ出るとそこで立ち止まった。
 夏油からは背中しか見えなかった彼女がお盆を両手で抱えたまま振り返る。頬は林檎のように赤く、先程情けなく怯えていた双眼は涙の膜で潤んでいた。

「す、好きだからです。ずっと、ずっと先輩の事が好きだったから生きててほしかったんです。ああ、もう言わせないでくださいよ恥ずかしい!!」

 堰を切ったように溢れ出す彼女の本音に夏油は唖然とするしかなかった。
 言い終わるや否や脱兎の勢いで廊下を駆けて行った彼女に「廊下は走らない」なんて優等生ぶった言葉をかけてやる事さえ出来ず、万年床になりつつある布団にそのまま寝転がる。
 木目の天井は相変わらず見慣れなくて、引き戸には夏油のみに作用する逃亡禁止の呪符が貼られている。もはや起き上がる気力すらなく、多分おかしな表情をしているだろう顔面を覆おうとして違和感を覚えた。
 ああ、そうだった。右腕はもうないのだった。

20210317