彼女の頭には蓮が咲いている



文マヨ中華パロ


 名前は広い城内を歩いていた。与えられた部屋を出て歩き出してから、かれこれ二刻は経過しているが捜し人の姿は何処にもない。其の間、国の重臣やなんなら国主とは出逢った。形式に乗っ取った堅苦しい挨拶を交わし、問い掛ける言葉は何時だって同じだ。「ドストエフスキー見なかった?」息急き切って問い掛ける名前に城主は「いや、朝から見ておらんな」と。城主の隠し玉である異形の者は「棺に入っている余が知ると思うか」と。申し訳なく思ったので丁寧に棺の蓋を閉めて部屋を出た。次いで会った珍しい髪色の臣下は「ゴーゴリと一緒なのではないか」と。名前は早口に礼を云って廊下を走った。途中、捜し人付の世話係に嗜められた気もしたが気にして等いられなかった。この城で一番個性豊かな男は直ぐに見つかった。名前は、未だに彼の役職だけは判らない。其れもあって敬称抜きに話し掛ける。

「ドス君? 庭園に居たと思うけど」

 礼を云ったかは定かではない。名前はバクバクと響く鼓動に駆り立てられるように広い城内を駆け出した。この城は広いので、庭は何個も存在する。だが、ドストエフスキーが居るとすれば回廊の中心にある小さな庭園しかない。
 珍しく名前の勘は冴え渡っていた。蓮の花の咲き乱れる絢爛な庭には亭が一つ建っており、捜し人は其の中で二胡の音色を響かせているようだった。あれだけ急いでいた脚を止め、だらしなく乱れた髪や着物の合わせを閉じる。背筋を伸ばし、水面に映った自分の顔を確認。よし、大丈夫だ。最後に自分を鼓舞していざ出陣。
 まずは二胡の音色が止まる迄待つ。以前、演奏途中に本題に入った時は非道く機嫌を損ねてしまったのだ。音色が止まった。次に一歩一歩静かに歩み寄る。此方も以前、走って詰め寄った際膠もなく袖にされてしまった為である。目の前に立って先ずは挨拶。緩く結んだ黒髪に飾られた金の髪留めが揺れ、彼は美しく微笑んだ。幸先が善いので本題に入る。
 其の場に膝をつき、長い袖で隠された右手をそっと両手で掬い取る。細いけれど男性らしく骨ばった指先は前回と変わらず非道く荒れているようだったが、名前の意識は其処には向いていなかった。

「蓮の花より美しい人よ。どうか今日こそ其の二胡の音色のような声で返事をして下さい。どうか私と夫婦となってくれませんか」

 ドストエフスキーは緩やかに血色の悪い唇をつり上げる。名前は、其の様子を食い入るように見つめていた。

 この世界には幾つかの国が存在する。名前達の暮らす国は、小さいけれど世界に大きな影響力があり、城主の指針もあって外交も盛んだ。約半年前。城主の古い友人だと云う男が東の国から遠路はるばるやって来た。今でこそ私的な目的の為、日夜駆けずり回っている名前だが一応はこの国の重臣の一人である。故に来客があれば城主共々相手をする事も多々あった。友人の福沢と云う壮年の男は、臣下を一人連れていた。名前は太宰。この国ではあまり見かけない動きやすそうな白い衣を纏い、蓬髪に紅色の髪紐をつけた見目麗しい男であった。

「宵の月のように美しい人。どうかこの私と心中して頂けませんか」

 そんな熱烈な誘いを受けたのもあって、名前の記憶に太宰と云う男は深く染み着いた。この時、面喰い、両手を取られたまま石のように固まった名前を回収したのはゴーゴリとシグマである。二人は福沢と城主福地によって引き剥がされた名前を荷物のように抱え上げるとこの国の宰相の元へと運んだ。ドストエフスキーは夜間の突然の来訪に些か気を悪くした素振りをみせたものの、的確な処置を施した。とは云っても薬や術の類は使っていない。ただ、未だ固まったまま動かない名前の頭を一発全力、扇子で叩いたのである。スパァン。あまりにも大きな音だったのでゴーゴリとシグマは名前がこのまま本当に倒れるのではないかと危惧したと云うが、この国の宰相の判断は間違う事がない。そう仮令三日間寝ていなかろうと間違う事はまずないのである。一瞬にして気を取り戻した名前は、ハッとしたように大きく息を吸い込むと、扇子を持ったまま不機嫌顔で此方を見下ろすドストエフスキーの痩身にしがみ付いた。そして大声で叫んだ。

「夫婦になろうドストエフスキー!」
「なりません」

 記念すべき一回目の求婚事件は、こうして幕を閉じた。ドストエフスキーの機嫌は三日程直らなかった。

「貴女も懲りませんね。こうして求婚を受けるのはこれで十五度目です」
「そんな……っ、わざわざ数えていてくれたのですね!」
「随分と都合の善い頭をしていらっしゃるようで」

 時は戻り現代。名前の両手に右手を取られた状態のままドストエフスキーは笑みを絶やさずに鋭い言葉を浴びせ掛ける。だが、そんな事で怯む名前ではない。元々彼らは勝手知ったる同僚である。こうして嫌味を云われたり、あしらわれるのは初めてではない。其れにドストエフスキーの氷のように冷たい言葉に一々怯んでいるようでは仕事にならないのだ。名前の精神力は、見た目からは判断出来ない程に強靭なものだった。無論、ドストエフスキーとてそんな事は当の昔に理解している。こうして嫌味を云った程度で諦める程名前と云う女はか弱くはない。表情には出さず思案する。どう転ぶのが一番善いのか。と、優秀過ぎる頭脳を駆使していると右手の感触が変化した。弧を描いていた紫水晶が冷たく蔑むように細くなる。然し、名前は手の甲を撫でるのを止めない。一先ず懐から扇子を取り出し、容赦なく叩き落とした。小さく悲鳴が上がり、漸く右手が解放される。

「何度も申し上げますが貴女と夫婦になる気はこれっぽっちもありません」
「何故です!?」
「ぼくに理由を訊きますか、理由を」

 数える事十五回、ドストエフスキーは名前の求婚を断り続けていた。ある時は冷たくあしらい、ある時は話すらも聞かずに立ち去って、またある時は優しく諭すように断りを入れた。だが、名前の求婚は止まる処か熱を上げるばかりである。
 名前は引き剥がされた両手で再度ドストエフスキーの手を握りしめた。今度は両手だ。体まで乗り出す。流石のドストエフスキーも一瞬言葉を詰まらせた。

「抑々、貴女何時からぼくと夫婦になりたいと思い始めたのです。あの日迄はただの同僚としてしか見ていなかったでしょう」
「そんな事はありません。隠してはいましたがずっと貴方の事は愛しく思っていました美しい人」
「……其れ止めて呉れません? こうなった原因を作った何処かの自殺願望者を思い出します」
「判りました」

 ついでに手も放して貰いたかったが離れる気配はない。
 先に云われた言葉だが、まあ薄々勘付くものはあったのだ。こうしてはた迷惑に求婚を繰り返す前の名前は、ドストエフスキーと関わる事すらあまりなかったが廊下ですれ違う度、会議で共になる度、熱のこもった視線を送っていた。これで気づかぬ方が可笑しい。ドストエフスキーのように卓越した頭脳を持つ者ならば尚更だ。
 珍しく墓穴を掘ったと気づいたが、もう撤回する隙はない。名前は、身を乗り出したまま語り続けた。何時、何処で貴方を知り、恋しく想う様になったのか。あの日、扇子で頭を叩かれたあの瞬間身を縛っていた鎖は千切れ消えたのだと。ならば、話が終わった瞬間を見計らい口火を切る。

「若し仮に夫婦となったとして、貴女は家に入る気がありますか?」

 これでも名前は、この国にとって重要な臣下の一人だ。そうそう福地が手放すとは思えない。あまり意味のない問いだが、固すぎる名前の意志を揺らすには丁度善い内容だった。
 現に名前はあれだけ熱弁していたにも関わらず口を閉ざす。悩んでいるのだ。然し、漸く抜け出す隙を見つけたと安堵したのも束の間、名前は再度力強くドストエフスキーの両手を握り締めた。

「家には入りません。ですが、妻としての職務は凡て全うすると誓いましょう。また同時に城内での仕事も手を抜く事はありません。必ずや素晴らしき成果をご覧にいれます」

 成果とは何だ成果とは。思わず声に出そうになった言葉を飲み込み、ふうと息を吐く。両手から力を抜いた。重くなった額を名前の肩に預ける。すると珍しく名前が戸惑った声を上げた。なんだ、そんな反応も出来たのか。

「あと八十五回、百回求婚すれば考えて差し上げます」

 名前の目が輝く。嗚呼、腹立たしい。思えばこの五日間まともに寝ていなかった。だからまともな思考さえ出来ぬのだ。名前の腕は、痩身であるドストエフスキーよりも随分と頼りなく細いのに背に回った其れは力強い。苦しいのでとりあえず扇子で頭を叩いてやった。スパァンと炸裂音が響く。向こう側で此方を覗き見していたゴーゴリとシグマが肩を震わせたのが見えた。願わくば、今の言葉も忘れて呉れ。