信仰と言う病



BEAST世界観捏造過多



 石で作られた白い壁は古く、過ぎ去った年月を報せるように所々傷が走っていた。左右均等に並べられたチャーチチェアも同様だ。座るだけで木材が軋む音が小さく響く。祭壇の向こう側、スタンドガラスから差し込む光に目を細める。磔にされた聖人の像は夕日の光を受け、神々しささえ感じられた。
 此処は善い場所だ。街外れの教会にはミサの行われる日曜日以外は誰も寄り付かない。静寂が支配している空間は、街の喧騒を忘れさせて呉れた。手に握り締めた携帯端末は震える事もない。鼻から息を吸い込み、口から吐き出す。安心していた。私は、この場所に居る限り何者からも守られているのだと。そう錯覚する事が出来た。
 夕日の茜色が夜の闇色へと変化する。この教会に時計はない。時を報せるのは、私の手の中にある携帯のみ。相変わらず震える事もない其れの表面を指先でなぞり上げたのと同時に祭壇奥の扉が開く。

「こんばんは。善い夜ですね」

 黒のキャソックに十字架をぶら下げた男性は、この教会の神父である。日本人とは違う外つ国特有の彫りの深い顔立ちに病的とも取れる青白い肌を持った其の人は、穏やかに微笑み乍ら祭壇を降りて私の前に立った。
 腰を屈める。神父様は、とても身長が高いから私と目線を合わせる為に何時も自らこうして呉れる。長い睫毛に覆われた紫色の瞳がジッと私の黒色の瞳を見据えていた。

「貴女は何時も迷い、疲れた子供のような目で私を見る」
「そんな情けない顔をしてますか……私」

 私の問いに神父様はクスクスと笑う。肯定と同じだ。

「駄目ですね、私。もういい大人なのに恥ずかしいです」
「何を仰います。善いのですよ。何も恥じる必要はありません。此処は貴女のような迷える魂を導く場所。神の赦しと教えを授ける空間なのですから」

 屹度この人には迷いなんてものは存在しないのだろう。一息に凡てを云い切った神父様は、神の存在を信じている。当たり前だ。この人は聖職者なのだから。
 対して私は、神父様の言葉に更に自分が恥ずかしくなった。視線を逸らす。すると咎めるように神父様の手が私の手に重なった。薄っぺらな、骨と皮しかないような手は、何時だって神様のように冷たい。

「名前さん、今日は気分転換をしましょう。音楽はお好きですか?」
「嫌いじゃないです」
「其れは善かった。では、如何です? オルガンを弾いてみませんか?」
「え」

 ミサの時、讃美歌に合わせて伴奏されるオルガンの音色を私は知っていた。教会に似合う神聖な音色と荘厳な雰囲気。其れに触れろとは、身が竦む思いがする。
 咄嗟に首を横に振った私に神父様は笑う。然し、開放する気はないようで重なったままの手を握られ、オルガンの前へ立たされてしまった。

「し、神父様。私オルガンなんて弾いた事ありません」
「大丈夫。私が教えて差し上げますよ。さあ、先ずは椅子に座って両手を鍵盤に添えて。そう、其の場所です」

 縮こまる私を覆い隠すように神父様が上体を屈める。細い黒髪が頬を滑り、肩が震える。其れを見透かすように神父様は微笑み、冷たい指先がまた私の手に触れた。

「緊張しないで。私に身を委ねて」

 耳元で囁く声が思考を溶かして行く。ボンヤリとして、暖かくて、何だか心地が善い。指先が鍵盤を弾く。神父様の傷だらけの指先が、私の指先を操っている。ポーン、ポーン。ドーム型の教会に音色が響く。月明かりだけが光源の薄暗い空間に、主旋律のみの、テンポさえも合っていない下手くそな讃美歌が響き渡る。やがて曲は終わる。勿体ぶるように指先が離れた。

「お上手でしたよ」
「神父様が弾いたようなものですから……私、音楽の才能からっきしですし」
「練習すれば善いのです。私もオルガンは未だ未だで……チェロは得意なのですが」
「凄い。チェロってこう、弾くやつですよね」
「ええ、そうです。興味がおありでしたら今度弾いてみましょうか」
「是非。一曲聴かせてください。楽しみにしています」

 チェロを弾く真似をする私を嗤う事もなく穏やかに対応して呉れる神父様は、聖職者として相応しい慈悲と優しさの心をお持ちだ。思えば、初めて此処を訪れた時からそうだった。夜半過ぎ、藁にも縋る思いで門を叩いた私を受け止めたこの人は、神の導きとやらを用いて見事私の中の不安や恐怖を取り除いて下さった。以降、私は教会の門を叩き続けている。神様なんて、微塵も信じて等いないのに。

「神父様は、本当にお優しい方ですね。私以外もこうして相談に来る方は多いのでは?」

 全知全能の神が存在するのならば、其の神は『全知全能の神が知らない物』を作れるか。全能のパラドックスだ。無神論者の主張である。私は神様を信じてはいない。然し、無神論者ではない心算だ。私は、この人ならば、異国の地よりこの街に降り立った神父様ならば、『知らない物』を作れると信じている。だからこそ判っているのだ。これは、神に対する信仰に他ならない。

「こうして救いたいと思うのは貴女だけですよ」

 神様の言葉は、信徒の心を簡単に掬い上げる事が出来る。祭壇に置かれた分厚い聖書と同じだ。神父様の言葉は、迷い、恐れる私の醜い心を簡単に掬い上げてしまう。
 情けなくて、同時に喜びを感じる自分を恥じた。顔を逸らすと、指先が頬に触れた。力は籠っていないのに、そうしなければならないように視線が其方へと引き寄せられる。

「名前さん、貴女はこの街の最暗部に籍を置き幾度となく其の手を汚してい乍ら、殺人と云う罪悪を抱えて生きている。組織を抜ける道がある事を知り乍ら、行動に移す勇気さえもなく救われる日を心待ちにしている。如何して貴女が殺人に罪悪感を覚えるのか教えて差し上げましょう。貴女の与える死には、救済が存在しないからです」

 不思議な事に月明かりの中、神父様の紫色の瞳は赤黒く輝いて見えた。肝臓を撃ち抜かれた人間が垂れ流す血液の色に似ていると思った。其れは先程、私が命を奪った相手の最期の色と同じだった。
 この時、私は初めてこの場で恐怖を覚えた。神聖で誰にも侵されない筈の教会が、処刑場のように見えてしまう。生唾を呑みこんだせいで喉が上下に震える。神父様は、ジッと私の喉元を見つめ、嗤うように白い歯を覗かせた。

「ねえ、名前。ぼくは、ぼくだけは貴女を救う事が出来ます。貴女を悩ませる組織の首領の目的を貴女は知っていますか? 彼はね、たった一人の友人の為にあるべき姿に戻ろうとしている世界を留めようとしているのですよ。赦される事ではありません。判りますよね?」
「なん、ですか其れ……私、首領の目的、なんて……」
「彼が誘拐した秘書の少女、妹と引き離され復讐に走る少年。貴女の組織に所属する……なんという名前だったか、あの白髪の少年は、いずれ復讐者と戦う事になりますよ。全部、全部、全部、彼の掌の中で踊らされる事になる。貴女も例外ではありません。人を沢山、沢山、沢山殺します。血が流れます。地面は、血を吸って赤く染まるでしょう。貴女の拳銃と手に硝煙の匂いが染み着きます。貴女は其の度、罪悪感に押し潰されそうになり、生きている事に意味を見出せず、此処に来てはぼくに縋る。見えますよ、ぼくには。貴女の苦しむ姿が、最早ぼくでさえ救えぬ程に窶れて、襤褸のようになり、自ら命を絶つ姿が、ありありと浮かびます」

 其れは、神による死刑宣告に他ならなかった。自分の意志とは関係なく、目尻からはボロボロと涙が零れる。血を吸ったスーツを脱ぎ捨て、纏った黒い服に涙のシミが作られる。神父様の言葉で、私は簡単に想像出来てしまった。自分の命の最期、太腿のホルスターに収まっている拳銃を脳天に突き刺し、引き金を引く事になるのだろう。本当に情けない、惨めな死に様をこの地で晒す事になってしまう。嗚咽を飲み込む事すら困難だ。肩で大きく息をする無様な私を神父様は、慈悲深い眼差しで見下ろしている。

「泣かないで。大丈夫ですよ。さあ、ぼくに合わせて呼吸してご覧なさい」

 神父様は私の頭を引き寄せると、落ち着いたリズムで背中を叩いた。言葉の通り、合わせて呼吸を繰り返すと少し呼吸が楽になっていると気が付いた。けれど震えは止まらない。キャソックに縋り付く指先は、小刻みに震えていて白く冷え切っていた。
 呼吸が落ち着きつつある事に気が付いたのか、背中の手はゆっくりと降下を始めた。スカートの裾を割り、指先がなぞるように太腿を滑る。ホルスターに収まった拳銃のグリップを握られた。同時に電子音が静寂を切り裂いた。チャーチチェアに置かれた端末が着信音を響かせていた。神父様は、鬱陶しいとでも云うかのように億劫な動きで片手をチャーチチェアの方へと向けた。其の手には私の拳銃が握られている。バン、バン、バン、バン、バン――装弾していた弾薬が吸い込まれていく。この場に似合わぬ汚らしい音と共に硝煙の匂いが鼻をついて、漸く現実を受け入れる事が出来た。

「却説、名前。此処で一つ選択して下さいな。ぼくはたった今、貴女の憂いを一つ取り除いて差し上げました。電話の相手が誰かは確認していませんが、ぼくの予想が正しければ屹度彼の筈です。如何しますか。電話は切れ、端末は壊れてしまいましたが、其れでも尻尾を振りに街へ戻りますか。其れとも、」

 一呼吸置いて神父様は、続ける。銃口を私へと向けた。

「ぼくに救いを求めますか?」

 私の使う拳銃の装弾数は六。弾倉にはあと一発分、弾が残っている。先程判った事だが、神父様は銃の扱いに慣れている。外す事はまずないだろう。私は、選択次第でこの人に殺されてしまうのだ。
 大きく息を吸い込んで頭上を見上げた。ステンドグラスから差し込む月明かりに照らされた聖人の像は、変わらず神々しい。目蓋を閉じる。呼吸を落ち着かせて、喉を震わせた。

「助けて下さい」

 バン。銃声が一発響いた。然し、私は痛みを感じない。体はオルガンの椅子に座ったまま、転げ落ちる事もなく、鼻は硝煙の匂いを嗅ぎ分けられるくらいには機能していた。ゆっくり目蓋を開いた。神父様は銃口を天井へ向けていた。ポタポタと何かが垂れて、神父様の白い頬を汚している。黒に近い赤――血液だった。

「はい、救いましょう」

 見上げた先には、血液を垂れ流す物云わぬ人間がいる。知った顔だった。首領の部屋で何度か見た事のある男だった。瞬時に悟る。私は首領に試されていた。そして返答次第で、神父様は私を見捨てる心算だったのだと。
 指先を伝った血で汚れる事も気にしない。神父様は微笑みを絶やす事もなく、空になった拳銃を放り投げた。カラカラと床を滑り、やがて止まる。其れを合図としたように、私の脚はやっと立ち上がる事が出来た。一歩一歩、歩みを進めて彼の白い頬へ指を滑らせる。べっとりと赤黒い血液が私の掌を汚した。彼は、身を屈める。私の目線に合わせるように腰を折って、気高い紫色の瞳で私の黒色の瞳を見据えている。逸らす事はしない。彼の目の先には、必ず救いがある。