追記
正直なところ、トーマはもううんざりだった。父親が経営する大手企業に最高の評価で入社した彼はその事実を周りに隠していたものの、一流の大学を首席で卒業し文武両道で金持ちでハーフでイケメンとくれば。玉の輿と親しくなれたら一気にステータスが上がる要素を惜しみなく兼ね備えている為、話した事もない同僚、部下、上司と毎日毎日性別問わず媚びをへつらわれまくられるのだ。そのくせ一部の同性からは陰で嫉妬に渦巻いた悪口を叩いている。そんな奴らばかりに流石のトーマも絶対キープの紳士面がはがれそうな勢いだった。
父の、親に頼らず力をつけろ、は同意できるしバレれば今まで以上にうざい事になるのは火を見るより明らかだから、父には何も言わずただ一人で背負ってきた。
しかしいい加減我慢の限界だった。親しい友人もおらず「フェミニストでクールな出来る大人の男」認証をされている彼は、意外と根は熱くて口汚いという素顔を一瞬でも出せない毎日に、辟易を通りこし気が狂う寸前だった。
「よ、お疲れ」
そんなトーマが唯一、自分も気付かぬ内に心許す人が、ただ一人だけいた。同僚のマサルだ。父の方針で小、中学校は公立に通っていたのだが、実はこの頃からの付き合いでいつも連んでいた、何も気にせず素で居られる不思議な男だ。
「ありがとう、」
差し出されたコーヒーの缶を受け取る。ヒンヤリと掌に滲む冷たい感覚が心地好かった。
「お前顔色悪すぎ。病気か?」
「ストレスだよ‥君は相変わらず能天気そうで何よりだ‥」
「ケッ、相変わらず嫌味しか言わねえのかよその口は。そういや眼鏡になったんだな、お前」
「ん?ああ‥高校くらいから近視が酷くなってね、」
「トーマって集中すっと、昔から変なとこが無頓着になっからな〜」
「君は健康そのものみたいで羨ましいよ‥やはりバカには何かあるのか‥?」
「だから失礼なんだよ!」
どちらともなくクスクス笑う。
ああ。張り詰めた糸が解されていく感覚にトーマはすっかりリラックスしきっていた。
人通りがほぼ皆無な廊下の奥の喫煙スペース。薄暗く不便な位置にあるため利用する者はまずいないし、存在を知らない者も多い。使っているのは自分達だけ。いつ訪れても静かで憩いの一時にはピッタリなお気に入りの場所だ。こうしてマサルと2人きりでゆっくり話せるのもポイントが高い。
「シュボ」
火のつく音が響いた。けして広くない、喫煙室。壁に寄り掛かったままトーマは紫煙を昇らせる。隣には同じく壁に寄り掛かっているが、ゴソゴソと動いている同僚の姿が。
「うわ、ねえな」
「‥ライター貸そうか?」
「そのままくれよ」
ん、とタバコを加えたまま顔を近付け待機するマサルに、いやそれはないだろ。と思ったけど思っただけにして。くわえ直したタバコをゆっくりと寄せた。
その先と先が触れ合う。
ジ‥と火種の燃え移る音と。
たった数センチ差の彼にドキリとした。
意外と長い睫毛。
整った肌。
精悍な顔立ち。
「ん‥サンキューな」
軽く吸い上げ深く紫煙を吐いた後、ぷかぷか浮かべだしたマサルに未だ見とれたまま。何を考えていたんだと、かぶりを振った。
「お‥ケータイケータイ‥っと、」
ブーンブーンと低い震動音が聞こえたかと思うと、マサルがまたゴソゴソとしだした。
「メール?急ぎの用かい?」
「いや、大丈夫。今どこだって」
「ああ‥こんな時間か」
「これ吸ったら戻るか」
短い至福の時の終わりは、いつも名残惜しい気持ちで一杯になる。もう少し、一緒に居たくて、遠慮がちに灰をこぼす。
そういえば、と彼が握っている携帯電話を見て思い出した。離れ離れになった高校時代に、今と同じような分かりやすい媚びをクラスメート達から振り撒かれていた時、疲れ果てて、ふとマサルと話しがしたくて、携帯電話を取り出したけど肝心の君の番組は登録されていなかった事を。当然僕は父から与えられていたけど、マサルはまだ持っていなかったんだ。更に彼の家の場所すら知らない事に気付いた時は、毎日毎日顔合わせていた時は何も感じなかったのに酷く鬱屈とした気分になったのを覚えている。
あれから10年。プライドが余計な邪魔をして彼の番号は聞けずにいるくせに、登録件数は親しくもない奴らの番号で一杯だ。肝心な人には自分から聞けないけれど、どうでもいい他人から嫌になるほど聞かれた結果だ。
「一服おわりーっ、と」
「あ‥ああ、行くか、」
ジジ‥と一変してふさぎ込んだ気分のまま、赤い火種を揉み消した。すると先に喫煙室を出ようとしたマサルが突如立ち止まりこちらを振り返る。
「そうだトーマ。ずっと言おうと思ってたんだけどさ、」
「ん?」
「ケータイ番号の交換しようぜ。オレ中学ん時持ってなかったし、卒業してから全然会ってなかったからさ。久々に連絡取ろうとしても出来なかったんだよな‥いいだろ?」
「も‥もちろんだとも!」
昔から、些細な事でも自分に出来ない事をさらりとやってのける彼に、自分が惹かれている事実を。このなんでもないやり取りでトーマはやっと理解した。
「っし、トーマの番号ゲット!時間あったら飲み行こうぜ。また連絡するな」
「ああ、待ってる」
にっかり笑う彼につられ、にこりと顔は綻ぶ。やっと、やっと手に入れれた彼との繋がり。
これからは好きな時に愚痴が言えて、好き時に休憩に誘えて、好き時に‥君に会える。
自覚したトーマは強かった。幸か不幸か好い人がいないマサルを、どうやって自分に堕とさせようか、どうやって黄色い声をあげる周りの奴らを黙らせるか思案するようになった。
が、とりあえず今は。
友人とカテゴリされた登録にのせている、たった一つの番号を見ては、密かに表情を緩ませて喜ぶのであった。
おわりーっ!