――ここには、天使がいるんだよ。

【Sanatorium】

寄せては返す漣。ざーん、ざーん、と水のはじける音が聞こえてくる。新緑の緑をそよがせる涼やかな風が、さらりと二人の頬を撫でた。
M県、S市。そのはずれにある、ひっそりとたてられた白い建物。そこには、ごく限られた人間しか出入りをしない。はためく白衣は、きれいに整えられた清潔な香りをくゆらせ、柔らかな挨拶が耳に遠い。
静かできれいなそこで、彼女は一人、海を見つめてたたずんでいる。臓器の何パーセントかは稼働を弱め、自分一人では立ち上がることもできなくなってしまった彼女は、車いすに乗っている。自分で漕ぐことも難しいため、わずかな力で動かすことができる、電動のものを使っていた。
幾分か調子のいい朝、彼女はよく、ふらりと外へ出る。白い建物の中は綺麗で、設備も整っているけれど、彼女にとっては少し、居心地の悪いものであるからだ。

彼女はずっと、夫の帰りを待つ身だった。
彼女は料理もうまくないし、洗濯もできない。掃除も少し苦手だ。でも、警察官の妻になると決めた時、たったひとつ、心に誓ったことがあった。何があっても、夫の支えになろうと。外では無残な遺体に触れ、手酷い言葉を掛けられ、心身ともに疲れて帰ってくるだろう夫に、笑顔で元気をあげようと。
そんな生活が、7年続いた。彼女は、最期までそうするつもりだった。辛くても、悲しくても、生涯でただ一人、最も愛した人のために。
けれど彼女は、今、こうして一人、外で風にあたっている。

風のそよめきは、彼女の耳にやさしく届く。夫の優しい言葉の音に、少し似ていた。
いま、彼女は心に決めたことを、少しだけ変えた。

「夏生」

愛しいテノールの呼び声に、彼女は精一杯の笑顔で振り返る。

「おかえり、千秋くん」

彼女の命の灯が消えるそのときは、きっと笑顔でいるんだと。



それから、3か月がたった。
ここには天使がいるんだよと、ナースたちが噂する。
真っ白なワンピースを風にそよがせながら、夫の押す車いすの上で、微笑みながら亡くなった「安西夏生」のことを、彼女たちは頭に浮かばせながら、今日もサナトリウムで噂する。

『――大好きだよ。千秋くん。どうかしあわせにいきて』

ナースたちは知らない。最後の、微笑みの裏のなみだのことを。


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