抱きしめるという平和

2010/12/22 21:34


今日は年内最後の講義とゼミであった。年末年始であろうとキャンパスに出入りはするだろうけれど、顔を合わせた人それぞれに「よいお年を」と伝えた。日記帳の日付欄の頭に2010と記すことが出来るのも、もう十日も無いのだと思うと、ああまだこの四桁は書き慣れていないのに、取り残されたようで心細くなってしまう。

だってまだ21世紀が始まったばかりのような気がする。私にとって21世紀は近未来なのであって、私が歳を取るよりもほんのちょっとだけ早足で時間の直線を進んでゆくから、いつまでも、いつまでも、追い付けないのだと思っている。黙っていてもいずれ享受するだろう未来なんて、何の意味はありはしない。今まさに時代の最先端を生きているのだ、そう感じる瞬間があるならば、それは経験しえた最新の時間としての「現在」では無く、そこを一歩突き抜けてしまった「未来」を無意識のうちに感じ取っているからなのだ。時間軸の切っ先で身体いっぱいに風を受けながら、ふるえる両脚で崖の上に立ちすくんでいるのか、それとも崖下の未知の海へと身を投じているのかも判然としないような、精神の働きが追い付かぬようなところ。そこを見つけてみたいと焦がれ、一方で永遠に手の届かぬところであって欲しいという憧れと怖れの入り混じった気持ちでいる。



ワグネル、ゼミまでの時間を潰すまでに読んでいた小林秀雄に登場したその名を、何度も反芻する。日本ではワーグナーという読みが最もポピュラーだけど、ヴァーグナーと言うこともあるけれど、ワグネルとはおそらく初めて知った。ワグネル。外国人の名前を日本語の音に置き換えることを試みた際に生まれる、幾つかの表記に見い出せる揺らぎ具合はいつも面白い。同じ名前が言語によってくるくると読み方が変わるのも不思議で、ヘンリ/ハインリヒ/アンリ/エンリケ‥‥と知らぬ誰かの名をぶつぶつと飽きもせずに呟いていた。名前とはそれ自体がパラドックスであり、それを付けるという行為もまた矛盾を孕んでいる。同じ意味と音を持つものの存在を知りながら、同時にオンリーワンの愛情の理由にもなり得るのだから。

教授には先週書き上げた第1章を見ていただき、表現について五つほど指摘された以外はこれといって訂正箇所は無く、論理的には問題無いねとのコメントに安心する。これからの論の展開と疑問点について相談し、よいお年を、と言い合って今年最後のゼミを終えた。今週いっぱいは年末年始に備えて、図書館や本屋で文献を集め、文具屋で必要なものを揃えることに専念しなければいけない。資本を整えるのだ。



明日は母とバイキングに出掛けるので、ころりと肥えてしまう予感に少しだけ怯えている。何を買ってもらおうか。





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