せんせい、と出した声はまるで、初めて覚えたのがその言葉で、私はそれを今初めて音にしたみたいで。もう一度、せんせい、と唇を動かしてその音を刻み込むみたいに口にする。

「はい、なんですか雪村さん」

そう言って作り物の笑顔を浮かべたのは半年前から家に家庭教師にきてくれている沖田先生。私は先生の、この笑顔が嫌いだ。
(せんせい、は狡い)
いつからだろう、この人は何も言っていないのに、その笑顔が本物でなくて作ったものだと理解してしまったのは。その端整な顔はいつだって笑っているのに、本心から笑っていない、要は営業用とでもいうのだろうか、表向きの、内側に入れていない人間に対するそれ。
「どこか、わからないところでもあった?」
「先生のことがわかりません」
「…ほんとはわかってるくせに」
先生の瞳の奥が妖しく光る。先生の顔から、ただの沖田総司になる。
私はこの表情があの貼り付けたような笑みより余程好きで、問題集をカリカリと大人しくしていたかと思えば、ふと、顔をあげて「せんせい」とそれだけを告げる。
シンと静まり返って私のシャーペンを走らせる音だけが響いて、沖田先生は少し私から距離をとって問題の解き方をじっと見ている、ここはそれだけの空間で、私が何かアクションを起こさなければこのまま刻々と時間は過ぎていって、時間がくれば「じゃあまた明後日に。さよなら」と無機質な音を先生が返す、それだけの空間。
だった。私が『アクション』を起こすまでは。



沖田先生が家に家庭教師にきて4ヶ月といったところだっただろうか。
「あまり根を詰めすぎてもよくないし、少し休憩しましょうか」
沖田先生のその言葉に、お茶を飲みながらたわいもない話をしていた時、私は先生に踏み入った。先生はどちらかというと雰囲気の柔らかい人で、私の知っている限りでは笑顔しか見たことがなかった。私はそれに疑問を抱くわけでもなく、先生の教え方も丁寧でわかりやすくて。どこか問題の答えを間違ったりしても嫌な顔ひとつせずに私がわかるように最初から順を追って説明してくれた。
仕事だからといえばそれまでかもしれないけれど、私の見ていた沖田先生は、確かに、優しい穏やかな先生、だったのだ。

「先生って彼女さんとかいらっしゃるんですか?」
この年頃の子にはよくある質問だったと思う。

「…どうして?」

(あ、)
それはぽつりと白紙の上に墨を落としたようだという表現が正しい。
いつもの笑顔なのに瞳の奥にわずかな濁りを見た。先入観もあったのだろう、先生は笑って「どうだろうね」とか、そんな風に答えると思っていたから。
違和感が、あった。
先生みたいに顔の整った人ならこんな質問はたくさんされてきたんだろうな、と頭に浮かんで、それでも興味本位で聞いただけ、だったのに。私はその時、開けてはいけないパンドラの箱の中を垣間見た気がした。
「や…あの、どうなのかな、って思っただけで…」
そんなに深い意味はないんです、と言い訳のように口にした。
「そうなんだ。…ごめんね?ちょっと怖い聞き方しちゃったね」
「い、え…そんなことは。唐突にこんな質問をした私も私なので……」
パ、と先生の顔が明るくなって、逆に私の顔が暗くなる。
私の頭の中にあったのは先生はこんな人だっただろうか、ということで、それと時を同じくしてでもそれは、私が勝手に先生をこんな人だと思い込んでいただけだと気付く。

(あ…れ?)

「ん?どうかした?」
「先生。先生は…」

どれが本当の先生なんですか。

行き過ぎた興味だったとは今でも思う。
けれど、少しでも自分の思っていた先生と違っていたと理解した時点で、私はこの人をもっと知りたいと思ってしまったのだから仕方ない。
口をついて出た言葉に、先生は一瞬だけ驚いたような顔をしてから楽しげに「さあ?君が思う僕が僕である。それ以外に何か必要なの?」とそれだけ言った。



それからだ。それまでは先生としての口調だったそれが、時々地が出るようになった。
たとえばそれは、今みたいな私から先生に踏み込んだ時だったり、しばらく問題集のページがぺらぺらとめくれた音が繰り返されてからだったりする。
(でもそれが、ほんの少し、嬉しい)

「あ、なんか嬉しそうな顔してるね。何かあった?」
「先生が先生だから、嬉しいんです。多分」

そう返すと先生は「君っておかしな子だね」と淡く笑う。私は勉強とはまた離れたこの時間に、先生が先生ではなく、個人として話してくれるようになったのが恐らく嬉しいのだろうと思っていた。
先生とは、時々こういった会話をする。その度に私が正直に思っていることそのままを告げると、先生があの仮面のような笑顔ではなく本当に楽しげに笑うから。
思わずもっとその顔を見たいと、そう、口に出してしまっていた。

「前々からおかしなことを口にする子だとは思っていたけど。…なに?僕のこと好きになっちゃった?」
「………好き?」
うん、そう。

それだけ言ってこちらを窺う先生の瞳を私もまた見返して思う。
(好き?私が、先生を?)
そんな風に思ったことは一度だってない、はずだ。
「どうなんでしょう……?」
「わからないの?」
「はい」
うーん、と対して悩んでいるような素振りも見せずに先生は自身の顎の辺りに手を置いた。
悔しいが様になっている。

(悔しい?)

はて、と首を傾げる。
(また、だ)
先生といるとおかしくなる。本当なら、私は人にこんな風に踏み込むことを得意としていない。それなのに先生に対してだけはそれが自然とできてしまうのだからなんだか不思議だ。



「ねえ」
先生が私を呼ぶ。
「君のその、じっと見るのは癖?」
「え?ど、どうなんでしょう?」
意識していないので、というと先生はふむ、とまた考えるような仕種をする。
「じゃあ、僕のことじっと見ている自覚はある?」
「…それはある、かもしれません」
言われてから考えてみて、思い出してみて。
確かにそうかもしれないと思う。
「最期にもうひとつ質問。君が僕をわからないと言うのはなぜ?」
(なぜ?)

「先生のことを知りたいからです」

「そ。じゃあ好きなんじゃないの。君、誰に対してもそんなことする子には思えないし。それって、僕にだけ興味が湧いたってことでしょ?」
「そういうもの、ですか?」
「そういうものです」
「先生は」
「うん?」
「どうしてそんなことを言うんですか?」
「なんでだろうね……。思ってたより気に入っちゃって、手元に置いておきたくなったから、かな」
「よく…わかりません」
「わからないなら教えてあげる。その代わり…」

唇に温かくて柔らかい感触がして、驚きに目を見開けば至近距離で笑う沖田先生の顔があった。
「先生以外にも沖田総司として教えてあげるから、これはその分の延長代、ね」
「え……え?……ええええっ!!!?」
(やっぱり、先生は狡い)
顔に出ていたのか、「大人は狡いものだよ」とそう彼は満足そうに笑った。







111114
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -