目を覚ますと、少年はベッドの上に横になっていた。 ふかふかとした心地よいベッドの、初めての感触に驚きを隠せなかった。 起き上がって負傷していた身体を確かめた。あれほど止まらなかった赤色の液体は、綺麗さっぱりなくなっていた。その代わりに白い包帯が身体中に巻かれていた。 不思議なことに、息苦しくもなく、身体の痛みもほとんど消えていた。 左胸に手を当てると、確かに彼が生きていることを叫んでいるものがあった。 ああ、あれは夢ではなかったのだ。私は今生きている。 少年の視界には、今まで見たことのないもので溢れ返っていた。 ここは一体何処だろう、と辺りを見回した。 「やあ、起きたんだね」 (!) カタン、と小さな音を立てて桃色の少年が部屋に入ってきた。 彼はこれは本当に夢ではないと確信した。そこには、暗闇の中で声をかけてきた、彼を助けた少年の姿があった。 「おはよう、よく眠れた?」 (………) 「もう1週間は眠っていたんだよ」 返ってこない言葉に、続く沈黙に、桃色の少年は思わず言葉を濁して苦笑するしかなかった。 そう簡単に心を許すはずがないことは分かっている。 それでもその少年に歩み寄ることを決めたのは、誰でもなく彼自身だった。 「お茶を持ってきたけれど飲む?」 黙ったままの少年に、温かいお茶の入ったマグカップを手渡した。 少年は瞳を瞬かせて、手渡されたものを見ていた。それはまるで、幼い子どもが初めてのものを見るようだった。 桃色の少年はそんな彼の様子を見て心がちくりと痛んだ。 一体彼は今までどのように過ごしてきたのか。聞くことは許されないその問いに答えを想像するしかないが、普通の生活を送ってきたとは言えないのは確かだ。 それはまるで、ひとつの“生命”としてではなく“兵器”として扱われていたようだった。 「ほら、こうやって口を開けて飲むんだ」 桃色の少年が先に手本となって飲んでみせた。 彼はそれをじっと見て、そしてそれを素直に見よう見まねで真似をしてみた。 しかし力無く開かれた口元からは、液体がたらりと流れた。 口に含むことは愚か、飲み込むことさえも知らなかったのだ。 桃色の少年は「ごめん」と呟き彼の口元を拭いてあげた。 「飲み込むんだ。えーと…喉に通すとでも言えばいいのかな?」 桃色の少年は言葉で説明し難いことに困惑した。彼もあまり理解できていないようだった。 桃色の少年はマグカップを手に取り、彼の顎を軽く持ち上げてお茶を流し込んであげた。 少年は驚いた顔で桃色の少年を見上げていた。 ごくり、と喉が音を立てた。 「…おいしい?」 (…………?) まるで赤ん坊の世話をしているようだった。しかし苦痛や嫌悪感といったものは全然感じなかった。 そんな彼はというと、不思議そうにマグカップの中のお茶を見ていた。 (おいしいとは、どんなものだ) 「!!」 それが、目を覚まして初めてテレパシーで伝えた彼の心の声だった。 桃色の少年は自分の言葉に反応を貰えて嬉しい反面、その言葉にまた胸を痛めた。彼の今までの生活は、想像以上のものだった。 「おいしいっていうのは、皆それぞれ違うものだから…でもそれを食べたら幸せな気持ちになるってことかな?」 (幸せとは、どんなものか) 「えっ…」 言葉に出来なかった。心が満たされるだとか喜びとでも言い換えようかと思ったが、それも必ずしも幸せと同符号で結ばれるとは限らない。 そうだとしても、それでは彼には伝わらないのだ。彼は、幸せや喜びといった感情を経験したことがないのだから。 (私は無知だ。私には感情といったものが分からない。自分の意志を持たず、主人の命だけに従ってきた。ただの操り人形に過ぎなかったのだ) 「………」 テレパシーで伝わってきたその言葉には、声に出さずとも自嘲を含んでいたことが分かった。 少年は俯き、マグカップの中に写る自分の姿をじっと見た。 (主人に捨てられて気付いた、あまりの自分の無知さに) 「……そのマスターっていうのは、ケール博士のことかい?」 (!!) マグカップの中の水面に写った少年の顔が揺らいだ。 桃色の少年はゆっくりと視線を彼に向けた。 「そしてキミは、“MEW-02”。そうだろう?」 (…知って、いたのか) 「最初に路地裏でキミを見つけた時から何となく感じていた。キミが身に付けていた首輪で確信したよ」 (……………) 「大丈夫、ボクはキミの敵ではないから安心して。政府につき出したりなんてしない」 (何故、私を助けた) 「何故って聞かれると困るけど…。キミを助けたかった、それで理由は十分じゃないかな?」 そう言って桃色の少年は微笑んだ。 それは、彼には理解し難いことだった。声に出さずとも、表情から分からないと訴えているのが見てとれた。 そう、今は分からなくてもいい。これからゆっくり理解していけばいいのだから。 「キミは302事件で政府軍によって殺されたことになっている」 (…!) 「ケール博士は、おそらくどこかで生きているだろう」 (……Dr.ケール…) 少年は弱々しく主人だった人間の名前を呟いた。 その横顔は、“世界最恐の破壊兵器”という肩書きにはあまりにも不釣り合いなほど繊細だった。 「ケール博士の元に戻りたい?」 しばらくの沈黙の後、少年はゆっくりと首を横に振った。 (私は捨てられた身だ。それでもなお主人に執着することはできない) それはまるで、彼自身に言い聞かせるようにも聞こえた。 しかし決意を固めた少年の瞳は真っ直ぐだった。 その真っ直ぐな瞳には、確かに桃色の少年を惹き付けるものがあった。 「それならボクと一緒に、この世界を見てみないかい?」 桃色の少年はそう言って手を差し出した。 紫色の真っ直ぐな瞳に映った自分の姿に、目を細めた。 (世界、を?) 「そう。この世界にはまだまだキミの知らないことがたくさんある。」 世界は完全ではない。世界は広くもあり、狭くもある。醜い部分もあれば美しい部分もある。 そんな世界で様々な命が生まれてそれぞれの道を歩んでいる。 その世界で何を思うも、どんな生き方をしようも、全て本人の自由である。 それでもただ、桃色の少年は、彼に“生命”としての生き方を望んでいた。 「生きることに意味や理由なんて必要ない。必要なら今からゆっくり探せばいいんだ」 存在意義なんて必要ない。 それでもキミが望むなら、ボクがキミに存在意義を与えよう。 “ボクの隣で、この世界を一緒に見てほしい” そう言って桃色の少年は無邪気に笑った。 何百年もを生きてきた彼にとって、永遠の命は決して幸せなものではなかった。 命の灯火が消えていく瞬間を目の前で幾度となく見てきた。 いつしか、それを避けるように一人隠れて過ごすようになっていた。 寂しかったと問われて否定の言葉は返せない。きっとどこかで求めていたのだ。自分に似た存在を、寿命を持たない、永久を生きる存在を。 それは少年にとって魔法のような言葉だった。 自分を必要としてくれている。存在意義を与えられた喜びで、見えていた世界が180度変わったような気がした。視界に入るもの全てが輝いているように見えた。 そのたった一言が、彼にとってはとても大切なものであり、何よりも彼が一番求めていたものであった。 こくり、と小さな紫色の頭がゆっくり上下に揺れた。 桃色の少年はありがとう、と呟いて少年を包みこむように抱きしめた。 「これからはキミの好きなことを好きなだけすればいい。知らないことはボクが何でも教えてあげるから」 そう言って紫色の頭を撫でると、ぴくりと小さな反応を示した。そんな些細なひとつひとつの動作でさえ愛おしく感じた。 「そうだ、キミに新しい名前をあげよう」 “兵器”から“生命”としての新しいスタートにはちょうどよいだろう。 それに、もし“MEW-02”がまだ生きていたなんて政府に知られたら大問題だからね、と言って苦笑した。 少しの間、腕を組み考えをめぐらせうーんと唸った後、桃色の少年は口を開いた。 「ニナ、なんてどうだろう?」 (ニナ…?) 「キミの新しい名前さ。嫌かな?」 (…わからない) 「とりあえずの呼び名でいいからさ、ニナって呼んでいい?」 (私は構わないが…) 「じゃあニナ、これからよろしくね」 そう言うと、桃色の少年は“MEW-02”と刻まれた首輪を取り外し、彼の手の平に置いた。 「これはキミの物だから渡しておくね、どうするかは任せるよ」 桃色の少年は立ち上がると、部屋の出口へ向かった。ドアノブを掴んだ時に「あ…」と、何かを思い出したように呟いた。 くるりと後ろに振り返ると、やわらかく微笑んで言った。 「ボクの名前は梅宮。今日からキミとボクは“友達”だ」 全ての先祖と人工生命体。永久を生きる2人の少年の新たな物語は始まったばかりだ。 (補足) |