黒猫のパスピエ | ナノ
※注意※
『きみはペット』のパロですが、原作を知らなくても大丈夫です。
社会人・久藤×拾われたペット状態の居候・望 の話。先生のほうがやっぱり年上で、年の差は3、4歳くらい。
大丈夫!な方のみスクロールを。
ぺしぺしと、叩くというには遠慮がちに、撫でるような感触で温度の低い指が僕の頬にぶつかる。
こびりついた眠気がそんなもので取り払われるわけもなく、煩わしさに眉をよせて首を振った。
先程ようやくベッドにもぐりこんだばかりなのに、なんて仕打ちだ。ほら、まだ部屋は真っ暗じゃないか。
はっきりと左右に動かしたつもりの頭はまるで動かず、ただ枕に頬をすりよせただけだったけれど、眠りを妨げていた指は引いた。
すう、と落ちていく意識。
三秒後、首筋にそれこそ焼くような痛みを感じて、身体が跳ねた。悲鳴は音にならず、喉がひきつる。
「……ち、遅刻、しますよ」
飛び起きた拍子に開いた目に映るのは、もうすでに明るくなった部屋と、ベッドの傍らで驚いたように目を丸くしてそう告げるひと。
遅れて、寝巻きにしているシャツの首元に引っ掛かっていた氷が、ぽとりと軽くシーツに落ちた。
僕の安眠を引き裂いた元凶は、これか。
「変な起こしかたしないでください、望さん」
「叩いてでも起こしてくれって言ってたのに、叩いても起きなかったんだから仕方ないじゃないですか」
口喧嘩をしながら、それでも向き合って食卓につけば、二人同時に『いただきます』と手を合わせる。
家事は分担制、ということになってはいるけれど、大体は僕がやってしまう。効率と、そのあとの手間を考えて。彼は家事が下手だ。
唯一、朝食作りだけは交替でもなんとかなるようになった。
今朝は彼の番だったのだが、焼かれた鮭はめずらしく焦げてもおらず綺麗なピンク色をしている。
頬を膨らませて眉をしかめ不満げにぱりぱりとたくあんをかじる彼は、うちに来た、というか拾った当初には、ご飯の炊き方すら知らなかったのに。人間、やればできるものだ。
トーストを焼かせると見事な炭が出来上がったので、トースターを使うことは禁止した。
よって、健康的なことにうちの朝はたいていが和食である。炊飯器のタイマー機能は素晴らしい。
「だからって、いきなり氷をあてるなんて、」
非常識だ、と言いかけて、鮭を切り取ろうとした箸がざくりと変な音をたてる。
「く、久藤くん、ほらそろそろ支度しないと遅刻、」
「……望さん、」
途端に僕を急かしはじめた彼が、だらだらと汗を流しながら静止。端正な顔立ちに浮かんだ笑顔が嘘くさい。
ああ本当に、黙っていれば綺麗で無害なひとなのに。
ぎゅう、と耳を塞いだ彼の前で、大きく息を吸いこんで。
「だから、焼き魚はちゃんとひっくり返せってこの前も教えたのに!」
くるり。
箸で裏返せば、予想は的中。
いかにも美味しそうに見えていた鮭の裏面は、やっぱり焼死体のように黒かった。
黒猫のパスピエ
すこし、怒りすぎたかもしれない。
そう後悔したのは、定時をはるかに過ぎてようやく仕事から解放されたときだった。
鞄のなかに入れたままだった携帯電話を見るも、着信はない。ざわざわと心が急く。
連絡しようかと片手で開いてから、また閉じた。帰るのが先だ。
飲んで帰ろう、と言う木野を、ペットが待っているからと言いくるめて、上着を羽織るのももどかしく家路を急いだ。外はもう人通りも少ない。
最近つきあいが悪いんじゃないの、と口を尖らせた木野には申し訳ないと思う。
あいつは気がいいから、あくまで軽く冗談みたいにしか不満を言わないけれど、内心はすこし傷ついているに違いない。案外と寂しがりなやつだから。
今度きちんと埋め合わせをしよう。そう思いながら、また足を速めた。
アスファルトを短い間隔で靴底が叩き、ビル壁に足音がはじかれて響く。
うちにいるペットは寂しくても不満を言わないから、走って帰ってやらなくちゃならない。
□
こんなふうに遅くなった日に、彼が一度、いなくなったことがある。
働いていればまあ理不尽なことだってあるわけで、落ち込んだ木野から相談に乗ってくれと誘われれば断るのも心が痛み、気の置けない仲の友人と飲むのはやはり盛り上がるもので、結局は日付を越してしまうことになった。
どんなに忙しくてもできるだけ早く帰るようにしていたから、そこまで帰りが遅くなったのは初めてだったが、夕食だって作り置いているものがあるし連絡も入れたし、心配する要素はなにひとつなく穏やかな気持ちで。
強かに飲んで楽しい気分を引きずったまま、しかし確かだった足取りも、自宅の扉を開けた途端にぐらりと揺れた。
ない。
靴箱を見るも目当てのものはなく、ぼんやりとしながら部屋の電気をつけて、酒臭い息を吐いた。
大きな音でつけられているのでは、と帰る道々危惧していたテレビも、暗いまま。
遅くなったときのために、と解凍して食べられるように作り置いていたカレーも、冷凍庫で冷たく凍っている。ひとりの部屋は、なぜか寒々しく広く、静かで。
携帯電話を持っていなかった彼に、不便だからと買って渡したそれが、机の上で真新しくぴかぴかと光っていた。
帰るところがない、と言われて、なんとなく居候のように一緒に暮らしていたけれど、そんなはずはないのだ。
道端で倒れていたのを拾ったときこそ汚れてはいたものの、服装だってきちんとしていたし、まだ若い風貌と育ちのよさそうな挙動から見るに、まるっきり天涯孤独というわけもなく。
ペットと違って、彼は出ていくことだってできる。
無一文というわけでもないようだし、うちの鍵だって渡してあるし、ここにいる確かな理由も聞いたことがなかった。
なんとなくうちに居着いて、なんとなく寝る前にはおやすみなさいと言い合って毎朝一緒にご飯を食べて。
僕が帰るのを、必ず部屋で待っていて。
そんなことが毎日続いていたから、いつしか、考えることを放棄していた。
彼の定位置になっていた大きなクッションが、カーペットの上にいつものように置かれていて、でも、そこに埋まるように座っていた彼の姿はなくて。
どこにいっちゃったんだろう。彼はコンビニによく行くけれど、今までこんな時間に行ったことはなかったし、夕方連絡したときはちゃんと電話に出て、遅くなると言ったらぷりぷりと怒っていたのに。
酔った頭でぐるぐると考えても当然ながら答えは出ず、ベッドまでたどりつく気も失せてそのクッションへ沈むように半身をあずけた。
どこにいっちゃったんだろう。ひとりじゃ、ごはんもろくに作れないくせに。
眠りに引きずられて、するりと落ちる瞼の隙間から見えた部屋は、やっぱりどこまでも広く感じられて。
忘れていたわけではなかった。帰るべき場所が彼にもあるはずなのだと、そう考えることを放棄していた。
翌朝、焦げくさい臭いで目を覚ませば、見慣れた背中が慌てたようにグリルをのぞいていたのだけれど。
あの夜、彼がどこに行っていたのかは、未だに聞けないままでいる。
□
自宅まで目と鼻の先、というところで、すこし先のコンビニから現れた人影が、ふわりと闇にとけた。
片手に提げたビニールの袋だけが白々と、嬉しげな足取りにあわせるように揺れる。
ほとんど駆け足に近い速さで動かしていた足をゆるめて、前を歩くその背中を呼んだ。望さん。
振り返る黒髪が、風にも舞わず重たげに見えたので、思わずまた駆け足で近寄って。
「久藤く、」
「あーもう、ちゃんと髪乾かさなきゃ駄目じゃないですか!湯冷めしたら風邪ひくっていつも、」
「どこかのお母さんみたいなこと言わないでください!」
触れた髪は予想通り、まだしっとりと濡れていた。
叱る間に、流れるように指先から髪が逃げる。
首をふるりと振ってから、久藤くんが遅いから悪いんですよ、と彼が眉をよせた。
眼鏡の奥ですこし伏せられた目が不機嫌そうに、でも寂しげに見えるのは、僕の気のせいじゃないのだと思う。
帰りが遅くなると、おかしなくらい大きな音量でテレビをつけて待っているこのひとは、多分ひどく寂しがりなのだ。
「早く帰りましょうよ。遅いからお腹すきました」
「晩ご飯、まだなんですか?」
「待っててあげたんです」
不機嫌そうな態度を崩さないままに僕の手を引いていく彼の目は、けれども、もうすっかりとゆるんでいた。
何を作ろうかな、と冷蔵庫の中身を想像しながら、夜の道をたどる。
夜道には二人分の足音。
かさかさと鳴るコンビニの袋には、甘そうなプリンがふたつ。
謎の多いうちのペットは、甘いものに目がない。
ペットも飼い主も寂しいのはお互い様だよね、ということでひとつ。
料理人パロと違い、こちらの久藤は世話焼きですが甘くはありません。面倒をみてやってる意識なので。久藤がまるでオカンみたいだ。
090704