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泉は三橋を長らく目で追い続けてきたから、三橋が誰かを好きになっていることにいち早く気づいてしまった。
恋をしている人間ほど、些細なことで一喜一憂するものはいないし、泉はそういった他人の挙動に気がつくほうだから、三橋が何かに瞳を陰らせたり、あるいは微かに幸せそうな気配を振りまいたりすることを察知するのは簡単だった。
三橋の変化に気づくと同時に、泉は自分がひどく落胆していることを自覚してしまった。三橋の目が誰に向いているのかまでは分からないけれど、視線が交差しない以上、こちらを向いていないのだけは確かだったから。

気づいてから半月。季節はすでに夏へと舵をとっている。交わらないそれに焦燥を感じながら、それでも泉は身の振り方を決めあぐねていた。
三橋が恋をしていることに対してもやもやとした嫌悪感はあるものの、しかし殊更に三橋の邪魔をしたり、無理矢理こちらを振り向かせるようにアプローチしようとは思えなかった。だって、何か良いことがあったらしい日の三橋は、本当に嬉しそうだったから。
このまま、適度な距離を保ちながら恋の成就を見守るのもいいかもしれない。
そう思い始めた矢先の出来事だった。部活を終えた帰り道で、ぼろぼろと泣く三橋を見つけたのは。

「……どしたの」

驚きのあまり思わず硬くなった自分の声は、生ぬるい宵の空気を裂いてごとりと落ちた。
もっと、優しく話しかけるつもりだったのに、どうにも上手く声帯が動かない。三橋は小さく肩を揺らして振り向く。暮れなずむ空の下ですら、三橋の両頬が落ちた涙でしとどに濡れているのがわかる。
今の三橋にこれほど悲しそうな顔をさせるのは、例の相手しかいないだろう、と思った。

「好きなやつと、なんかあったんだろ」

泉が言葉を続けると、三橋は逃げるようにうつむいた。互いの視線は交わらず、その視線はただ泉の足元に落とされる。伏せられた三橋の睫毛に再びじわりじわりと露が宿るのを見ていると、なんだか無性に胃の底が焼けつくような気がした。

「そんなに辛いんなら、やめとけよ」

思わず口から滑り出た台詞は、ずいぶんと冷たく響いたかもしれない。自分以外の誰かのために三橋が泣いている、という状況に対する苛立ちと、役立たずな自分自身への嫌悪が汚くまだらに混じりあって、なんだか涙が出そうだった。

「俺も、好きなやつがいるんだ」
「いずみ、くん、も?」
「うん」

唐突な内情の吐露を、三橋は大した驚きもみせずに受けとめたようだった。三橋の目が初めてきちんとこちらを捉え、弾みで睫毛から涙がぽろっと転がり落ちる。あたたかそうなその水滴は、頬に着地することなくアスファルトにじわりと染みていった。
涙が出るうちは、まだ幸せだ。
泣きたい想いを押し隠しながら、泉は静かに口を開く。

「けど、俺の好きなやつは、俺じゃなくて別のやつのことが好きで」

ようやく交わった視線に、少しの喜びと多大な諦念をこめて、告げる。泣いている三橋を見つけた瞬間に、それまで抱いていた淡い期待は泡のようにしゅわりと溶けて消えてしまった。
この想いは叶わない。
真剣に三橋に想いを告げれば、三橋はきっと二重に苦しむだけだろう。思ったことは貫くけれど、しかしその反面ひどく優しいやつだと、近くにいる自分が最も知っている。
だからこそ、泣かせている誰かが許せなかった。喚いてもすがってもどうにもならないポジションに、易々と収まって安穏としているだろう誰かが。

「俺が、そいつの代わりになってやるよ」
「……?」
「恋人ごっこ、しよう」

吐き出した言葉は、極めて陳腐な響きを伴って宵闇に溶けた。三橋は呆けたような眼で、数度ぱちぱちとまたたいて。
それから、一度、はっきりとうなづいた。

「いい、よ。泉くんが、好きなひとと、付き合うまで、なら」

告げられたその言葉を拒否する道なんて、最早残ってはいない。







「恋人ごっこ」。
どうにも胡散臭いその提案を何故だか三橋が受け入れてくれてから、一週間が経っていた。恋人ごっこという名の通り、互いが好きな相手と上手くいくまで、期間限定の契約関係だけれど、それでも構わない。
三橋のためだなんて詭弁だ。ただ、近くにいられるだけで良いと思った。ゆるやかに風化していく想いをかかえながら。

放課後、部室に向かいながらメールを作成する。「恋人」といったってあくまで期間限定だから、手を繋いだりキスをしたり、そんな接触は一切ない。
唯一変化したことは、こうして部活前にメールを送り、返信があれば示しあわせて一緒に下校することくらいだった。
じわりと上がっていく体温を無視しながら、送信中、の画面を見届ける。しばらく待つと、携帯が短く三度振動した。受信完了。
「自転車のところで」というたった一行の文字列にすら、浮き立つ心はどうしようもない。

鼻歌でも歌いたくなるような気持ちで校舎の角に差し掛かる。と、自販機の影に水谷と栄口の姿が見えた。
声をかけようと開きかけた口は、次の瞬間、風に運ばれてきた二人の会話に阻まれる。

「三橋、最近よく笑ってるよね」
「あ、栄口も気づいた?俺、三橋に聞いちゃったんだけどさー、なんか、好きな子とうまくいってるらしいんだよね!」
「……水谷は口軽すぎだよね」
「ちが、違う!詳しくは聞いてないけど、俺ずっと応援してたから嬉しくてつい!」

騒がしい水谷の声が次第に遠ざかる。それに比例するように、ふわふわと浮わついていた心がゆっくりと地に足をつけた。
そうだ。勘違いするな。
頭の芯が冷えていく。いま立っている場所は、三橋が好きなやつと付き合った瞬間にまるで砂の城のように崩れていく、脆弱なものでしかない。それがどんなに美しく見えても。

そんなこと、始めからわかっていたはずなのに。




空はゆるやかに紫がかった夕暮れの色に染まり、ぬるい風がわずかに夜の冷気を纏って肌を撫でていく。部活を終えて待ち合わせ場所に現れた三橋は、幾分沈んでいるように思えた。
もっとも、水谷たちの会話が耳の底にこびりついていたせいで、今日の練習中には三橋とろくに目が合わせられなかったから、見ていないところでまた阿部と何かあったのかもしれない。
三橋は自転車のカギを外し、スタンドを遠慮がちに蹴りあげる。汗のためか、いつもより少しだけまとまった髪の毛が一筋、白い頬にくっきりと陰影をつけていた。

「三橋は、最近うまくいってんの?」

何が、と具体的には言わなかったけれど、言わんとしたことは伝わったらしい。三橋の頬には一瞬淡く紅がさし、そうしてすぐに掻き消えた。

「う、うん……」

一瞬途切れた返答は、肯定か否定か判別がつきにくい。けれど。耳の底には水谷の声がよみがえり、忍びよる夜気に指先がひたひたと冷えていく。

「三橋、あのさ」

口を開いたものの、用意していた言葉は吐き出せなかった。
そのあとの記憶は朧気で、気付けば泉は自室のベッドから天井を見上げていた。帰り道、当たり障りのない会話を繋げながら自分はどんな顔をしていたのだろうか。

ぼんやりと考えながら、傍らの携帯電話を手に取った。伝えなければならないことは既に決まっている。

『恋人ごっこ、今日で終わりにしよーぜ。俺も、最近ちょっといいかんじだからさ。
ありがとな!』

送ったメールに、いつまで経っても返事はなかった。








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