二年前のことだ。

あの夜は、じっとりと身体にまとわりつくように雨が降る、酷く湿度の高い夜だった。吸った空気が肺に重く水滴を宿すような気がした。ソバカスの浮いた鼻頭を苛々と拭い、一人、足元の石畳を蹴り付けながら歩く。田島の短髪は十分に水を含んで額や肌に貼りついていた。毛先から落ちる水滴が煩わしく、更に気分を逆撫でした。細かな雨に視界が曇る。田島は雨が嫌いだった。

今夜の寝床を探すべく足を踏み入れた路地裏の奥で、「それ」はゴミくずのようにうずくまっていた。ゴミではなく人間だと分かったのは、その周囲に居るガラの悪い男達がそれに罵声を浴びせていたからだった。一人が乱暴にそれを蹴る。
田島は男達の後ろでぼんやりとその様子を眺めていた。暴力も罵声も、この街では別段珍しい光景ではなかった。蹴られたそれは頑なに動かず、抵抗もせずにただじっと黒い何かのケースを抱えていた。
そんなに大切なら守れるくらい強くなればいいだろうに、と田島は思った。独り、ここで生き抜くにはそうするしかないと知っていた。まだ幼かった頃に天涯孤独になって以来、田島は大切なものを持たなかった。

何かのケースを抱えた「それ」がゆっくりと顔を上げる。たぶん泣いているんだろうな、と思った。見知らぬ男達が再びそれを蹴りつけ、汚く声を荒げる。





「それ」は、澄んだ瞳で静かに男達を見据えていた。
泣くでもなく睨むでもなく、怯えた様子すらなく、ただ純粋に光る瞳で。
「それ」の正面に居た田島はその瞳に酷く戸惑った。雨に霞む薄茶の瞳。その色と透明な煌めきに射ぬかれる。瞳と同じく薄い色の髪は、田島と同じようにぐっしょりと濡れていた。霧のような雨が頬を撫でる。心臓が、大きく脈を打つ。


ぽたり。
前髪から雫が落ちた瞬間に、田島の身体は勝手に動いていた。身を守るために得意になったナイフの腕を、誰かのために使ったのは初めてだった。路地裏がにわかに赤く染まる。

切り付けられた男達が全て去るのを待ってから、今だにうずくまったままの相手に近付いた。澄んだ瞳はやはり恐怖の色もなく素直に田島を見上げる。
よく見れば、大事に抱えられているそのケースは銃器のものだと分かった。


「なんで、それ使わねーの?」


使えば蹴られずに済んだだろうに、と苛立たしく思いながら問い掛ける。相手はケースを抱え直し、田島の目を見ながらゆるりと口を開く。どこか柔らかな、何故か懐かしくなるような声音だった。


「大事なものを守るときにしか、使っちゃ駄目、なんだ。それ、に、」
「それに?」
「できれば、使いたく、ない」


初めてくしゃりと顔を歪ませ、泣きそうな顔で相手は笑った。それは確かに笑顔だったのに、泣き顔よりも悲しかった。ギシギシと心臓が軋む。
大事なもの。そこにお前は入ってないのか、と微かに思って、なんだか無性に泣きたい気分になる。


「お前、名前は?」
「み、三橋」
「三橋な。俺は、田島」


不思議そうな表情で見上げる三橋の腕を掴み、ぐっと引っ張って立たせた。間近に迫った薄茶の瞳はやっぱり綺麗に澄んでいた。


「俺がお前を守ってやるよ」


田島の宣言に三橋はぱちぱちと瞬きを繰り返した。よく分かっていないようだけれどそれでいい、と田島は思う。
三橋が自らのために銃を使えないのなら、どんな汚いことをしてでも守ってやろうと、その時、静かにそう決意した。











「あちーなー」
「あつい、ね」


連日の猛暑にバテた身体はいつもの訓練にすら悲鳴をあげる。けれど、訓練を済ませた屋上で食べるアイスは格別だった。からりと晴れた今日の空に似た、ソーダ味のアイスを二人で噛る。
僅かな日陰に田島はアイスをくわえたまま寝転び、三橋もその隣に座って空色の塊を口に運んでいた。

二年前からライフルの腕は衰えることなく一流なのに、それでも三橋は日々の訓練を熱心にこなす。その熱意は、浜田への忠誠心からくるものだと知っていた。田島はガリガリと氷菓を噛み砕く。少し面白くないけれど、まぁ仕方ない。
陽光に耐えきれず溶けていくアイスを、三橋は一生懸命に舐めている。アイスの冷たさに赤く染まった薄い舌や唇で。



あの日、あの路地裏で三橋は「浜田」を探しているのだと言った。多少嫌な気はしたのだが、この街に暮らして長い田島は「浜田」のこともそのファミリーのことも知っていたから、三橋の手を引いてこの事務所までやって来た。
三橋を見た浜田は明らかに戸惑った様子で、傍らの「泉」と呼ばれる男となにやら目配せを交わしていた。
だからこんなヤツら頼んないで俺といればいーのに、と、田島が口を尖らせた瞬間だった。三橋が、浜田の手の甲にその唇をするりと押し付けたのは。

止める間もなく行われたそれは、心からの忠誠を誓う、しるしだった。



じりじりとアイスが溶けていく。一滴、二滴、三橋の唇を逃れた甘い雫がコンクリートに染みを作る。田島は身を起こし、またガリガリとアイスを噛った。最後の一口を喉の奥に放り込むと、気分を逆撫でする暑さが少し和らいだような気がした。気持ちいい。


「みはしー、早く食わねーと溶けてるぞー」
「う、わ」


溶け落ちる雫を一生懸命に三橋の唇が追う。取りこぼした雫が手首にまで滴れて、三橋は大いに慌てていた。
アイスを持つ三橋の手を、田島は笑ったまま軽く掴む。捕まえて、引き寄せて。


「手伝ってやるよ」


三橋の手首から指先までを、田島の舌がゆっくりとなぞる。指先から、薄い夏の匂いがした。
口を離すと、三橋は「ありがとう」と嬉しそうに笑った。赤く染まった唇を田島は真っ直ぐに見つめる。浜田に忠誠を誓った唇を。

例え浜田に忠誠を誓った三橋が何を取りこぼしても、俺は三橋を取りこぼさない。そのためにここにいるんだ、と田島はこっそり笑った。二年前から既に心は三橋の元にある。いつだって、必ず隣に居て守ってやる。その唇が例え誰に忠誠を誓おうとも。


「あ、ハズレ、だ」
「あ、俺のもハズレだ」


不意に、三橋が呟いた。
その言葉につられるように、二人してじっとアイスの棒を見つめる。くっきりとした「ハズレ」の文字にがっくり肩を落としながら。


「明日はコーラ味にしてみっか!」
「うんっ!」


アイスの棒をくわえたまま田島がごろりと寝転ぶと、隣の三橋も倣ったように背中をぺたりとコンクリートの地面に預けた。屋上から見えるのは青すぎる空と山のような入道雲。


「ソフトクリーム食いたいなー」


田島がそう呟くと、隣で三橋は小さく声をこぼして笑った。網膜を焼く日射しを避けるように目を閉じる。
この笑顔だけは、奪わせない。











「初めまして」


巣山と名乗った坊主頭の男は、律儀にカードケースから名刺を取り出した。ひとつの傷も無いシンプルな名刺はこの男によく似合うな、と思いつつ泉は名刺を受け取る。
恐らくはブランド物だと思われる、派手ではないが洒落た、折り目正しいスーツを身につけた巣山が柔らかな椅子に腰を下ろす。袖口からのぞくカフスボタンまでもが、洗練された優雅な雰囲気をたたえていた。このまま一流企業のオフィスに放り込んでも違和感は無さそうだ、と思う。


「てっきり栄口が来るんだと思ってたよ」


思わず泉はそうこぼした。Nから匿名の電話を受けたのは三日前だった。眼前の相手は僅かに苦笑する。
平日の昼間、ホテルのラウンジにあるカフェテリアにはちらほらと人影が見えるのみだった。巣山はテーブルに置かれた熱いコーヒーを何も入れずにゆっくりと口に含む。ガラス一枚を隔てた外は真夏日だというのに、巣山は涼しい顔をしている。
泉はきっちり絞めていたネクタイを少し弛め、アイスコーヒーを掻き混ぜた。氷が細い糸のような軌跡を残し、溶けていく。


「栄口は、知らない。今回は俺が勝手に連絡を取らせてもらった」


苦笑いを口の端に浮かべたまま、巣山ははっきりと告げる。泉は眉をひそめた。てっきり、宣戦布告をされるのだろうと覚悟を決めて来たのに、巣山はあまりにも穏やかだった。


「何を考えてんだ?」
「取引をしに来た。栄口には悪いが、あいつの個人的な損得でそっちと真正面からぶつかるのは、こちらだって避けたいんだ」


穏便に済ませないか、と言って巣山はまた一口コーヒーをすする。ようやく、泉も自分のグラスに口をつけた。薄まったアイスコーヒーが喉を滑り落ちていく。酸味と苦味がざらりと舌に残った。


「取引の内容は?」
「三橋廉の情報。どんな些細なことでも構わない。その情報で、俺は栄口の暴走を抑える。悪い取引じゃないと思うが」
「情報、ねぇ」


泉は真っ直ぐに巣山の目を見る。表面上は穏やかな男の目を。
言葉の全てを信じるには、解せない事が多すぎた。


「なんでお前らは、三橋にそこまで執着するんだ?」


巣山がコーヒーを静かに置く。カップとソーサーが触れ合って、壊れそうに繊細な音を響かせた。


「それも、栄口は知らない」
「答えになってねーよ」


泉もグラスをコースターに戻した。同じグループに所属している巣山と栄口。しかし、三橋を求める理由には食い違いがあるようだ、と考えを巡らせる。

三橋の情報。
二年前、事務所の扉を開けた瞬間の映像が蘇る。酷く汚れて、しかしはっきりと意志を持った三橋の目。それを守るように前に立つ、敵意剥き出しの田島の顔。雨の日の珍客たち。

思わず少し笑いそうになり、泉は慌てて頬を引き締めた。向かいの巣山はコーヒーカップに手を添えたままこちらの返事を待っている。


「三橋の情報っつっても、俺もたいしたことは知らねーよ」


知っていてもみすみす教えてやる義理もない、と言外に匂わせて告げる。
巣山は再び苦笑した。緩慢な動作でコーヒーカップを持ち上げ、最後の一口を口へと運ぶ。


「泉」
「何?」
「三橋廉には関わらないほうがいい、と俺は思う。まぁ、取引について検討してみてくれ」


笑みを消した巣山の唇がするりと、まるで何気ないことのようにそんな台詞をつむいだ。
関わらないほうがいい。その理由は栄口のことを指しているのか、と聞き返す間もなく、巣山はすっと席を立つ。

残された泉はぼんやりとアイスコーヒーのグラスを眺める。考えることが多すぎて頭が痛くなりそうだった。
二年前以前の三橋のことに思いを馳せる。田島も、誰も知らない、三橋だけが抱える空白がそこには存在している。
だけれど、今さら三橋を離すつもりは無い。

随分と薄まったコーヒーを意味もなく掻き混ぜる。溶けて丸くなった氷は、グラスに触れても音を立てずにふわりと浮いてから深く沈んだ。























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10.0316

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